「あたしねえ、小学生のとき放課後に集団リンチにあっちゃって、背骨にヒビいっちゃったのよ~ん」
と、近所のコンビニで働いている同い年のお姉さんに言ったら、
「何でも相談して」って言われた。
45年も前のことを相談するも何もないんだけど。
いじめられることはあってはならないこと。
いじめることはもってのほか。
いじめられっこは、気の毒な人。
いじめっこは、とんでもない悪い人。
「だからいじめっ子は、おしおきよ!」
って、それこそいじめっこのやってることじゃないの。
いじめっこは悪で、いじめられっこは善、という白黒はっきりしたものではないと思うんだ。
いじめっ子は、そもそもいじめる子が何かしらカンにさわるから、ねちねちいじめて自分の中にある何かを解消しようとしている。いじめっこは、家の中での自分の立場を、いじめの対象であるその子の中に見るのではないだろうか。そして親の姿をそのまま外でまねているのではないか。
というのも、やまんばもおなじことをしていたから。いじめられたストレスを犬で解消していた私。叩いたりした記憶はないけど、私が王として犬に君臨していた。
いじめっこと、いじめられっこは、お互い似ているのではないだろうか。
いじめっこは、心の中を深くさぐっていくと、暗く辛いおもいを抱えているはずだ。いじめられっこもいじめられること、つまり罰せられることによって自分の罪を解消できるような気がしていたりする。
二人はお互い罪の意識を抱えている。
いじめればいじめるほど、罪の意識は大きくなり、その重みに耐えられなくなって、目の前で怯える存在によけい腹を立てる。
いじめられるこは、「あたしは罪深い悪い子だから、罰を受けているんだ」とおもい、しだいに自己憐憫にひたりはじめる。これは悲劇の主人公になれる魅力を持っているゆえに、その世界に没頭しがちだ。その姿を見て、またいじめっこはイライラしていじめる。。。。
私たちの心には、いつもこの2つの存在は同居しているんではないだろうか。自分にムチ打ち、おびえ、なげき、いかり、そしてまたムチ打つ。。。
「あたしはそんなことしないわよ」
と、いじめっこを他人事として外に置くことはできるだろうか。
いじめっこのこころはきっと、「たすけて!」と大声で泣き叫んでいる。
0 件のコメント:
コメントを投稿