わしらは、自分の人生の場面場面で、目の前に起っていることを疑う。
こんなはずじゃない。
あってはいけないことだ。
あの人はどうしてあんなことをするのだ。
このままでは、わたしはだめになってしまう。
等々。
心はこういう。
どうしよう。
なんとかしなきゃ。
すると心は、「ほいきた。わしにまかせろ」と、あれやこれやと戦略を練ってくれる。
それに乗っかって、作戦通りに実行するのだ。
それが人生。
やまんばはそれを「ひょっとしたら逆じゃないか?」と疑った。
やまんばは自分の目の前に起っていることを信じる。
きっとそのことは偶然にやってきた不幸ではなく、今そのことを知ることが必要で、やってきたことだ。
きっとそのことは偶然にやってきた不幸ではなく、今そのことを知ることが必要で、やってきたことだ。
そして、それに対してなんとかしようと画策する心のほうを疑う。
起ることは、起る。そこにはいいも悪いもない。ただ起る。
その次の瞬間、それを「これはいいこと」「これは悪いこと」と判断をするのが心だ。
心は「これは悪いこと」と、判断したものに作戦を練る。
「どうしよう」は、単なる動揺することばではなくて、
「この悪い状況をどうにかしよう」という意味だ。
心は、ほとんど自我に占領されている。この自我は、起ったことを疑えと言ってくる。これは恐れを抱かせることができる。恐れは、支配するのに最も使いやすい道具だからだ。
いったいだれがだれを?
いったいだれがだれを?
心には対立する二つの意識がある。
「いいじゃあ、ないのお~」というものと、
「だめよ~ん。だめだめ」というものだ。
流れに身を任せ、おおらかに広がっていく心と、いい悪いの判断の中で、堅くなっていく心。自我は後者にあたる。自我は自分が存在していたいので、恐れをあおってこっちを向かせつづける。自我の作戦はいつもこうだ。
「それはいけないことだ。それをどうにかしなければいけない。わたしはそれを解決することができる。さあ、わたしの言うことを聞きなさい。わたしを指示しなさい」だ。
どっかの種類の職業の人に似ていないか?
問題をあおり、その問題に集中させておく。人々はその問題が解決できない限り、私たちは幸せになれないのだと信じ込んでいく。
これのミクロバージョンが個人個人の中で起っている。
鼻水がだーだー流れたとき、くしゃみがとまらないとき、目がかゆいとき、いけない!と心が騒ぐのは、自我にのっとられている状況。
別の選択がある。そこに乗らないことだ。その騒ぐ心を疑ってみるのだ。そのようすをもう一人がただ見ている。疑うのは心の方。
そしてそのからだの状況を受け取る。こっちは疑わない。
するとその状況はもう『問題』ではない。起ることが起っている。
季節の変わり目だもの。からだは変化しつつ、新しい季節への調節をしているのだ。ありがたいことじゃないか。こうやって、私たちの知らないところで、からださんは動いてくれているのだ。そのおかげで生きていけるのだ。
しかしそれもやがて過ぎ去る。
すべては何かがひたひたと解決してくれている。
心がどう騒ごうが、七転八倒しようが、フンソウしようが、収まるところに収まっていく。
これは自我の策略のおかげではない。もっと大きなものが動いている気がするのだ。
これは自我の策略のおかげではない。もっと大きなものが動いている気がするのだ。
やまんばはその大きなものに意識を向ける。
とても自我では考えきれないものへ、心を預けていく。
とても自我では考えきれないものへ、心を預けていく。
お、ま、か、せ。
おまかせ~。
(小仏川クリステル)
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