2014年11月30日日曜日

だめよ〜ん、だめだめ。ネガティブじゃなきゃ。



やまんばは、自分のへんなところに気がついた。
わし、ひょっとして自分を演出していない。。。?

まちがったことをしている自分
罪深い自分
失敗する自分
惨めになる自分。。。。

心はいつも「私何かまちがったこと、してね?」
と、自分が「まちがった行為」をしているアイテムをさがしているのだ。

心はいつも「なんか罪を犯してね?」
と、さがしているのだ。

心はいつも「とんでもない失敗をしでかしてんじゃないか?」
と、おろおろしている。

そんでその罪を犯した自分が、人々にいじめられて道ばたで転んで泥だらけになり、涙を流しながら、
「あ”、、あ”、、あ”だじっで。。。。。」
と、オヨヨと泣く姿を妄想しているのだ。(ここらあたりカオナシに近い)

ヘンタイか?
わし、ヘンタイか?

だから、そういう自分を味わえるよーに、そーゆー役者も配置する。
やまんばをいたぶってくれる役者を。
やまんばに罪を犯したよーに見せかけてくれる役者を。
やまんばをめいっぱい惨めにさせてくれる役者を!!!
(おんどりゃああああ~~~~っ!なめとんのかあーーっ!)

君、ばかじゃないの?


ところが、こーゆーヘンタイは、そこら中にいることを知る。
たとえば、いつもトラブルを抱えて戦っている人。
たとえば、いつもだれかにだまされて、怒りまくっている人。
たとえば、いつもやってくる上司が問題児ばかりな人。
たとえば、いつも悲しい物語を抱えている人。

みんなその中でドラマを演じている。
まさか自分が演出したとも知らずに。

やまんばもきのうまで、しーらなかった。
そりゃ、薄々は感づいていたよ、でもまさかここまでてってーてきに演出しているとは。。。
あきれちゃったよん。はずかしーやら。おかしーやら。



つまり自我が、自我を実感したいのだ。
自我さんはあほやから、一回味わったヘンタイ的な経験を「これって面白い!」って思っちゃったら最後、延々とやりつづける。気がつかない限り。徹底的に飽きない限り。

しかもネガティブなことが多い。それは問題定義をして、えんえんと問題に取り組んでいられるからだ。
ポジティブだと「ああ~すてき」って、すぐ終わってしまうではないか!
だめよ~ん。だめだめ。ネガティブじゃなきゃ。

何か問題的なことが起こったとき、からだがぞわっ、とする。
その瞬間、「生きてる!」という実感がしないか?すると次は「これはたいへんなことがおこったぞ。なんとかしなければ。なんとか。うーん、どうしよう。。。」と、心はえんえんとそれに取り組める。

やまんばはそのとき、「あれ、、?」っておもったんだ。
これって、、、これってひょっとして、快楽?
スリリングはワクワクとほぼ同じではないのか。
わしはただ、そのスリリングを味わっているんじゃないかと。



小説もそうじゃないか。
最初っから最後までハッピーだと、ちっとも面白くない。苦悩やどろどろがうずまいてこそ、文学が極まる。そのヘンタイ的などろどろに読者は同調していっしょにバーチャルで味わっているではないか。

それをリアルに味わっているのだよ、ワトソン君。
じつにすばらしいじゃないか(笑)。



2014年11月29日土曜日

自分で自分をほどく



生活の不摂生が病気を生むっていうけれど、やまんばは別のことを考える。

気持ちがむしゃくしゃして酒を飲む。
イライラしてお菓子を食う。
不安がチョー点に達して夜通しおどりまくる。
その結果が病気だという。
するとお酒がいけないので、お菓子がいけないので、むちゃぶりがいけないので、それらをヤメなきゃいけないという。
そこ、途中じゃね?

そもそもなんでむしゃくしゃするかってところだ。そもそもなんでイライラするのかってところだ。そもそもなんで不安になるかってところだ。
そもそも不摂生にしなくちゃいけない理由があるわけだ。

うつだってそーだ。
それがカラダに出る人と、心に出る人のちがいだけだ。

きっと、みんな心の中でむちゃくちゃ考えている。
心の中が、言い訳や、正当化や、他人や自分をなじる言葉でパンパンに膨らんでいるはずだ。
「ったく、なんであたしが。。。」
「おいおい。かんべんしてくれよー」
「ああ、またやってしまった。。。おれはばかだ。。。」
「$%&”~%#%$&!!!!!」
エアー演説しまくり。

そんなとき自分の感情に気がつく。怒ってたり、不安がってたり、寂しがってたり。。。
するとだいたいは「あっ、おれ怒ってる!」と思った瞬間、「これはイケナイんだ!」といって、怒りや不安を封じ込める。寂しさを何かで紛らわす。
酒、友だち、ばか騒ぎ、スマホでつながる。。。

問題は怒りなのだ、問題はお酒なのだ、問題はむちゃぶりなのだ、だからそれをヤメるのだ。
これが今までの方法論。
でもそれだけじゃ、どーにも解決になっていない。



感情は自然なものだ。
その自然なものが生まれてくることを、なかったことにするから苦しいのだ。むちゃをやっちゃうのは、それを上から押さえつけているからなのだ。
じゃあ、発散しろというのか!人迷惑じゃないか!って?

発散じゃないんだ。酒飲んで発散するのでもない。酒飲んで発散できるとおもっているけど、じつは発散なんかしていない。一時的に忘れるという手法を使っているだけ。

自分から自然に出てくる感情に正直に気づいて、それを自分でがっちりうけとめる。
これがすべてといっていいんではないかとやまんばはおもう。

わしらは生まれてから、あらゆる観念をしょい込む。
『正しい』『まちがっている』の観念。
その基準で人や世界を見ると、たいていまちがっているものを発見する。そのとき感情が生まれる。たまに正しいものを見つけては感情が生まれる。

これがこの世の醍醐味だ。感情体験をしにきているようだ。
それが目的でもあったのだが、いつのまにかその体験がおもしろ過ぎて夢中になり、旅の途中だったのをすっかり忘れて、その中にどっぷりはまりこんで抜けられなくなっているのがわしらのようだ。
苦しむのは醍醐味のはずだったのが、「そんなの聞いてない!」といっておこる。

自分の中で起こってくる感情をジッと観察してみると、それが波のようにうねりがあるのを見る。それをただ観察すると、やがて消えていく。感情はつねに動き回るエネルギー。一瞬たりとも止まっていない。

「ああ。。。おれ、今怒ってるんだな。。。」
とじっと自分を見つめる。
次の瞬間、言い訳が始まる。誰にどう怒らされたのか。
だけど、それもほっておく。ただ自分の怒りだけを見つめる。

わしら現代人にないのは、この静けさだ。
電車に乗ると、ただ座っている人がいない。寝ている人以外は、みんなスマホを見ているか、本を読んでいる。心の中がつねに言葉で満たされている。言葉は次の感情を生む。その感情に乗りはするが、それを見つめることはしない。


自分に起こっている感情だけを見つめると、自分がどんな観念をもっているのかがわかってくる。
「ああ、この観念があるから、今までおれはこれに怒ってばかりいたんだ。。。」
と気がつくだろう。
「あたり前だろ!そんなことに怒らないヤツなんているか!?」と、またその怒りに乗っかるのとはちがう、何かがあなたに起こっている。
するとあなたはその観念の「正しい」「まちがっている」のどっちか片方に振れるのではなく、どちらにも立たないところにいる。
そのとき、小さな鎖がほどける感覚になる。

わしらは自分にいっぱい制限をかけている。
自由になりたいという衝動は、その目に見えない制限をつねに感じているからだろう。だけどそれは、環境や社会やシステムが変わってくれれば、勝手にほどけてくれるものでなく、自分で自分をほどくことだったのだ。



2014年11月26日水曜日

ダイコンのホラー



きのう畑から帰る途中、山道のわきにダイコンがはえているのを見つける。
「聖護院ダイコンだ。どーしてこんなところにりっぱなのが。。?」

葉っぱをにぎったら、かるくもちあがった。はは~ん、サルめ。こんなところにダイコン落としやがった。
先日サルの軍団に襲われたここいらの地区。この聖護院ダイコンは、すぐ目の前の畑からかっぱらってきて食ったらしい。
 
持ち上げたダイコンのあったところが白くなっている。よく見ると、ダイコンの一部が落ちてドロドロになっていた。
やまんばはおそるおそるダイコンの匂いをかぐ。。。
「うっ。。。」
糞尿のにおいがした。
その近くに転がっていた青首ダイコンも同じように腐っている。匂いをかいでみると、やはり同じ糞尿の匂いが。
まるでホラー映画のよーだ。。。



やまんばの畑のサルに食われたあとのダイコンにはこんな匂いはない。それに腐ってドロドロに溶けることはない。やはり植物は土の状態をそのまま吸い上げるのだ。

まだ畑をはじめて1、2年の頃、ダイコンをそのまま放っておいたら、春先に溶けはじめ、なんとも言えない匂いを放っていたのを思い出した。そこらあたりは、昔牛糞が積まれていたところだ。化学肥料は抜けるのが早いが、有機肥料は抜けるのが遅いらしい。

今の畑の状態はだいぶ肥料分が抜けてきたのだと思う。ダイコンは土の中にそのままいても、腐って溶けたりしない。ほっぽっとくと、ダイコンのカタチをした「かご」になる。ダイコンのまわりの繊維がそのまんま残り、中が枯れて空っぽになるのだ。
銀座の画廊にでも展示すれば、ちょっとしたアート作品にも見える(笑)。


家庭菜園は、ある意味危険をはらんでいるのかもしれない。
人は無意識にまわりの畑の野菜との出来を競争する。やまんばもその心に取り憑かれていたからわかる。
それはひとえに、大きくすれば、成績を良くすれば、ここにいていいのだと、許しをえたいという幼い時からの衝動でもある。

しかしおとなりさんよりもっと大きく、もっと早く、もっとたくさん。。。と競い合ううちに、入れる堆肥も肥料も次第に多くなる。制限なく入れられたものを野菜が吸い上げて、不自然にどんどん大きくなる。そのうち土は飽和状態になるのだろう。

そもそもサルに食われて2週間ぐらいで、ダイコンはあんなふうに腐っていくものだろうか。プロの農家は肥料をどのくらい入れたらいいか知っているのだと思う。スーパーのダイコンは、腐ったり、あんな匂いはしない。それを農薬のせいで腐らないのだと言われてしまえばおしまいなのだが。

だが肥料を入れて大きくして、腐るのが早くてもいいとするか、腐らせてはいけないからと農薬を入れるかを吟味するような土俵に立ちたくはない。

やまんばは、山の木や原っぱの草のような、のびのびとした野菜が食べたい。




2014年11月25日火曜日

これ、自然栽培っていうんでしょ?



秋に入ってトマトが赤くならなくなった。青いまま、わんさかついている。

やまんばは青いトマトを収穫して、家の暖かいところに転がしておく。しばらくすると色づいてくる。真っ赤になった頃を見計らって、トマトソースを作るのだ。青いまま料理できるけど、あまり味がしない。だけどしばらくおいて赤くなって調理すると甘いコクが出る。なんでだろーね。

真っ青いままだと赤くなるの時間がかかるけど、すこーし黄色くなりかけた頃だと、赤くなるのも早い。ただ赤くなるのを待つうちにときどき腐ってくるものあるから、よく吟味しないといけない。



きのう畑で小麦を脱穀していると、近所で畑をやっているおばちゃんたちが来た。
「ちょっと畑を見させてもらうわよ」
「どーぞ、どーぞ」とやまんば。

ひとりはすぐ近くで有機肥料でひとりで畑をやっているAさん、もうひとりは、その向こうで化学肥料と有機肥料と農薬で美しい畑をやっているオヤジの奥さん、Bさん。

Aさんは座り込んで土をいじっている。
「あら、玉ねぎできてるじゃないの」
と、Aさん。
「あ、そーっすか?」
「でもこれじゃ土が寒いわ。何か敷かなきゃ冬が越せないじゃないの」
と、Bさん。
「だいじょーぶ。草が守ってくれるから、あったかいのよ。敷くものなんていらないわ。」
と、やまんばが言った、、、、わけではない。
なんとAさんがやまんばのかわりに言ったのだ。。。!
。。。え?

「これ、機械なしでやってるんでしょ?ひとりで耕すの大変でしょう」
と、Bさん。
「うん。でも今はほとんど耕してないの」とやまんば。
すると、
「草がね。土を柔らかくしてくれるのよ。ほら、この畑ふかふかじゃないの」
と、Aさんが言うではないか。

ここらで畑をやっているオヤジもおばはんも、うんちくたれ。このAさんは自信家。いつも自慢話を聞かされる。そのAさんがそんなことを言うなんて。。。

Aさんは立ち上がって、ひとり言のように言った。
「ほんとうに肥料なくても野菜ができるんだ。。。。」

「これ、『自然栽培』っていうんでしょ?」
にっこり笑ってBさんは言った。


啓蒙しようなんてしなくていーのだ。
説得しようなんてしなくていーのだ。
お互いの立ち位置をそのまんま受け入れていれば、勝手に向こうも理解しようとしてくれている。

なんだか胸が熱くなっちゃった。



2014年11月24日月曜日

大スタアの死を通して



高倉健さんが逝った。
このところのテレビでは、健さん主演の映画が目白押し。昭和の匂いがする。テレビが昭和の匂いを放つ。

大スタアがなくなると、いつも繰り広げられるお決まりのドラマがある。
だが今回は、亡き人を偲んで泣き崩れる役者さんたちがいない。インタビューに応じる大俳優さんたちは、どこか清々しく健さんを語る。死亡発表もずいぶんあとになってからだったから、そのドラマはすでに終わらせていたのだろう。


もともとそうだったのだろうが、近年特にメディアは感情に訴える演出をする。公平な立場にたつ(と、される)ニュースでさえも、あからさまに誰が悪者であるかを演出するくらいだ。当然悲劇とされるものは、おおいに、何度も、畳み掛けるぐらい、連続放送する。それを見た一般庶民は同じように泣き、同じようにフンガイする。

だから今回は人々は泣き崩れることもなく、清々しく健さんを見送ることだろう。


死とは本来そのようなものだったのかもしれない。
誕生はよろこびで、死は悲しみ。
そう思ってきたが、アチャラの世界では、誕生はとてつもない苦しみと努力の連続の結果らしく、死は服を脱ぐようにあっけらかんとしたものだという。

わしらが持っている生と死のイメージは、本人をおもってのそれではなく、それを見た他人からの視点なのではないか。
死を忌むべきものとみるのは、残されたものの勝手な解釈なのではないか。その解釈は人から人へと伝えられ、それがとーぜんのことのよーになっていく。

今回のテレビやニュースの演出を通して、もののとらえ方というものは、解釈次第でいくらでも変わることができるものだということを教えられた。



2014年11月20日木曜日

私自我は、あなたの問題を解決します!



朝おきると、思考も動き出す。
あーだこーだと考えをめぐらす内容が、ネガティブなことばかりなのに気がつく。

さむい。布団からでたくない。でも出なきゃいけない。エーと、部屋を暖めるには、まずストーブをつける。げ、ストーブつけるには、布団から出なきゃいけないじゃん。瞬間芸で、パッとはんてんを羽織る。んで、ストーブをつける、と。んで、部屋があったまるまで、も一回布団に入ってえ。。。。

「チュンチュン」
鳥の鳴く声が聞こえる。
ああ、いい声だなあ~。。。
寒い。これから寒い冬がくる。ああ、いやだなあ。もっと寒くなったらカラダ追いついていくんだろうか。床暖房があったらなあ~。夜はもう雨戸も閉めはじめるか。。。

鳥の声には一瞬反応する。いい声だなあと。
しかし思考はそこでストップする。そしてまた先程のネガティブな内容に入っていく。

これはなんだ?

思考君は、ポジティブな内容には感心がない。なぜか。それで終わりだから。感動は言葉がない。「ああ。。。。」で終わってしまう。それでは思考君が存在できないではないか。

だがネガティブな内容は、思考を維持することができる。なぜか。それは「問題をみつけて解決すること」という重要任務を請け負っているからだ!
だいたい思考は、思考しないと存在できない。(あたりまえだ)
ポジティブじゃ、思考できないじゃないかー!(えーーーっ!)
だから自我は必死で思考を使って、自分の居場所を確保しようとするのだ。


これはまるで選挙のポスターだ。
自我さんの顔が全面にドドーンとあり、にっこり笑ってこういうのだ。
『私くし、自我は、あなたの問題を解決します!』

すると有権者(つまりあなた)は、そのポスターを見て、
「フフーン、なるほど。なかなかたのもしいではないか。ではこいつに投票するか」
と、清き一票を投じる。

それはまさに問題を見つけてきては、
「これが問題なのです!これがいけないんです!私がこれを解決します!」
といっては、会議を重ねて大騒ぎし、根本的な解決も見つからないまま(いや、もっとこんがらがって)、そのまんま放置し、そのうち時間が解決して、
「ほーら!解決できたでしょう!私がやりました!」
と言ってる、だれかさんに似ている。

有権者自身が、だんだん政治家の存在をあやし~く感じはじめているよーに、自我が訴える「問題定義」も、そのまんま鵜呑みにしないほーがいいかもしんない。


2014年11月19日水曜日

ムダなテイコーはヤメろ


6日ぶりに畑に行くと、ジャガイモ、サツマイモ、ダイコンがサルに食われていた。サツマイモは跡形もなく。ジャガイモは食い散らかしてある。だいこんにいたっては、ひっこぬいて、ちょこっとかじってポイだ。
こっ、、このやろー。。。。

大豆は、完全に乾くまでそのままにしておいたのだが、6日ぶりに見るとやさが弾けて豆がない。飛び散ったのかと探すが1つもない。。。
ハトに全部食われたようだ。orz。

えええ~~~ん。あのチョーうまかった枝豆!来年は食えないのかなあ。。。
ダイコンも、ゆずダイコンしたかったのにい。。
あとからあとからわいてくる、「あれも食いたかった、これも食いたかった」のオンパレード。

だかしかーし!
ムダなテイコーはヤメろ。
あるがまま、
なすがまま、
キューリがパパ。


テイコーで思い出した。
大阪に入って次の日の早朝、ホテルの部屋でぐあいが悪くなった。
やばい。さむけがする。はきそー。。。
どーすればいい?あったかいお茶を飲むか?
色々模索したが、ムダなテイコーはヤメろというお告げが来て(思いついただけだろ)、そのまんま味わうことにした。

おお、寒気か。どんなかんじ?
おお、そんなかんじか。
おえー、はきそー。吐きそうとはどんなかんじ?
おお、おお、こーんなかんじか。

テイコーするからよけいに苦しくなる。
その状況を味わうと、一山、二山が来るけど、それを「おお~、来た来た!」と、遊び心で受け入れた瞬間、ぱたっと消えた。
あれっ?寒気は?吐き気は?

どっかいっちまった。

前、怒りについて書いたことがある。味わうと消えていくのだ。怒っちゃいけないと思うから、ずっと存在しつづける。これ、状況についても同じことだったりしてね。

だから畑の状況も味わうのだ。
ああ~、サル君、さつまいも、うまかったかい?
ハト君、大豆、うまかったかい?
よかったねえ~。。。。。。。。
!%$#’&0&$%#$#”!!!(←言葉にならないショージキな心の声)



ふと畝を見ると、うんこが3つ転がっていた。

「ねえさん、さつまいもうまかったよ。ここに駄賃をおいておくぜ」(←サル君の声)




2014年11月17日月曜日

アートで村おこし



展覧会を終え、次の日アーティストの友だちに誘われて、兵庫県の船坂ビエンナーレにいく。

ここは過疎化の波が襲う集落のひとつであったが、最近2年に一度、村の廃校になった学校や、空き家になった藁葺き屋根の家などを使ってアートを展開し、村おこしを行なっている。今回で3回目だという。

展示場所は、まわりの風景を額代わりにしたインスタレーションや、壊れた土壁までアートにしてしまう作品、古い井戸、古い道具小屋、棚田、などなど、日頃ギャラリーで白い壁を背景とした私の作品とはまるで違う環境で見る作品群を興味深く見せてもらった。

その次の日は奈良まで南下して、飛鳥の奥にある棚田の中にあるカカシアートも見る。

過疎化が進む村おこし、休耕田が進む村おこし。アートで村おこし。
やまんばは少し複雑になってしまった。

見学者としてアートを楽しむぶんにはいい。だけど本当に村おこしになっているんだろうか。休耕田に参加してお米を作りはじめる人もいるらしいが、これが本当に根付いていくのだろうか。村おこしのアートだって、村人がすごい大変なわりに、期待する成果は出ているんだろうか。


やまんばの地域でもしアートで村おこしをしたらどーなるんだろうか。
ああなって、こーなって。。。とそうぞうする。
最初はいいだろう。村のあちこちにアートがあって、外から人々もわんさかやって来る。村が一丸となってもてなしをする。お金もいくらか落ちる。
だけどそのうち雨風にあたってアートも汚くなって、人もそんなにこなくなる。お赤飯たいて、食事の準備して。。。人はそんなに来ない。。。村人だって疲れ果てる。なにやってんだろうって。

休耕田の棚田も物珍しさで都会から人も来るだろう。だけどそんなに毎年来れるかな?村だってその人たちのために色々準備しないといけないし。
棚田は魅力的だけど、やまんばにはできない。そもそも農法がちがいすぎる。



よろこびを外から与えてもらうためにやることは、限界があるんじゃないだろうか。
村の人々が内側に個人個人自らのよろこびがあってこそ、すべてははじまるものなんだろうなあ。

きっと「結果」や「期待」なんて考えてもいないのだ。それがおのずと「美しさ」を生んでいく。それこそが本当の芸術なんだろうなあ。

2014年11月16日日曜日

展覧会を無事終えて



大阪での展覧会も無事終わりました。
たくさんの方々が、絵を見に来てくださいました。

日頃山の中でサルさんとイノシシさんぐらいにしか出会わないやまんばは、大阪の大都会で素敵な人々にお会いできました。

みなさま、お忙しい中おこしくださいまして、ほんとうにありがとうございました。


それにしても西の人たちはあったかいです。気持ちをストレートに表現してくださいます。
「あんら~、これセクシーねえ~。ええわあ~、すてきやわ~、すっきゃわ~。」
入り口から一点の絵をずっとゆびさしながら入ってきます。


と、隣の絵も見つけて、
「あんた、ほらみてみて!これもすごいわ。こりゃもっとエッチやわ。これこれ、すっきゃわ~!」
60代のおばちゃん団体がどどどっとはいってきて、おおさわぎ。

思わずニューヨーク時代を思い出しました。
私の絵を見て、「ひっ!」と、息を飲んで口を手でふさぐアートディレクター。
そして「つくし!君は天才だ!」と、さけぶ。
これは作家のモチベーションをあげてくれます。みなほめられると嬉しいもんです。絵をかいて生きてきてヨカッタ!と思える瞬間です。


今回の展覧会は少し今までとちがう感覚で過ごしました。

すばらしい時間と場所をご提供くださったギャラリーCENTENINIALさんに感謝いたします。



2014年11月8日土曜日

うん!ぼくもかっこいいよ!



近所によくおしゃべりする4歳の男の子がいる。やまんばのことを「くつしちゃん」とよぶ。なんやら、くつ下みたいではないか。「つくし」とうまく発音できないらしい。

きのうも向こうの方から
「くつしちゃ~ん、&%’”#’*+`?&%#$。。。。」
と、何かしゃべっているが、遠過ぎて聞こえない。

近くに来てやっとわかった。ステキな石を見つけたのだ。
「うわ、いいねえ~」
「うん。いいでしょ。これねえ、ひろったの」
よく見ると原始人がナイフに使っていたようなカタチをしている。
「ひょっとしたら、大昔の人がこれで料理作ったりしたのかもしれないよ」
「うふふ~」
とってもうれしそうだ。
ウチに持って帰って使い終わった歯ブラシで磨くそうだ。

先日も道で話をした。
「あのねえ、○○くんってかっこいいんだよ」
「へえ、○○くんってかっこいいんだ。君もかっこいいんだよ。知ってる?」
「うん!ぼくもかっこいいよ!」
そのとき、やまんばはドキッとした。

そうなのだ。
あの頃の子どもたちは、自分が大好きなのだ。自分のすることなすこと愛している。
だけどだんだんきらいになっていく。
それは神と同じくらい尊敬する身近な存在に、いけない、まちがっている、劣っている、失敗している、と畳み掛けるよーに言われつづけるからだ。

親は人様に迷惑かけないように、後ろ指さされないように、そして立派な人物になっておくれという熱いおもいで教育を施す。この世でみんなと生きていくための必須科目。
でもたいてい、もう一方のフォローがない。
するとだんだん自分ってダメだとしか思えなくなるのだ。

思春期になってそれは頂点に達する。おれってイケテナイ!!!
そのインプットはただインプットされただけだと気づかない限り、おそらく死ぬまでもっていく。
おばさまやおじさまが人様の目を気にしてビクビクしながら生きてるのを見るのは、未来の自分の姿を見るようだ。

しかし自分がダメだっておもってきたのは、外の基準にもとづいたものだったからだ。外の価値観と比較して自分を見ていただけだ。
その外の基準は、人に迷惑にならない程度に使えばいい。

もう1つ別の基準をもつのだ。自分だけのオリジナルの基準をひそかに作る。いや、思い出すといってもいいかもしれない。すると「自分かっこいい」って思えるんだ。「うん、いいぞ、あたし」ってね。

そのオリジナルの基準が作動しはじめると、やまんばも彼のように戻れるかな。
自分が大好きだったあの頃のあたしに。

2014年11月6日木曜日

比較ケントーするわしら



ひとってさあ、比較検討ばっかしてんだよね。
とくに近くにいる人間には、はげしく比較検討する。

あんたのほーが悪い。
あたしのほーが稼いでいる。
ウチの畑の野菜のほーがでかい。
ウチの畑の野菜にゃ、ムシがいない。
あたしのほーが病気が重い。
あたしのほーが不幸だ。
あたしのほーがびんぼーだ。
あんたが、あたしが、きんじょが、、、、

比較検討しなけりゃ、争いごともおこらないだろーに、わざわざ比較ケントーしては怒る。比較すりゃするほど、相手がうとましくなり、身近にいりゃいるほど、激しく気になるもんだ。

しかし現実は、他人の指一本動かせないのに、相手の悪いところあげつらったところで、「フン!」と言われて無視されるか、「倍返しだ!」っておもいっきり反撃食らうのがオチである。すると力で勝負する次元に入るから、口で言い負かされる方が泣き寝入りをすることになる。へたに力づくで真っ向勝負かけたら訴えられるし。。。
そのイライラは、より遠くて大きな存在に向かう。
セーフが、国が、地球が、、、、

ムリもない。ずっとちっちゃいときから
「比較ケントーして、がんばりましょう」
と、おしえられるんだもの。

そりゃ、成績が上がったり、かけっこで一等賞になるのは、達成感があって「生きてるぜ!」と実感が持てる。
しかしこの世は1つ価値観が作られると、相反するものも同時に生んでくる。たとえばこれが正しいとされると、そうではないものはまちがっているという価値観を生むので、一位にならなかった時や、成績が下がったときの屈辱感も生むのだ。

じゃあ、比較ケントーしてはいけないのかって話になるんだけど、そこじゃない。
していーの。そうではなくて、そのしくみを知る。
比較ケントーすると必ず勝った負けたを生む。
その結果に一喜一憂する自分に「気がついている」ことなのだ。

わしらは方法論をどこかからもらってくると、その方法論をやろうとする。成功法もダイエット法もなんでも。納豆がやせると聞けば、スーパーから納豆が消えるように。あれさえすればこれが解決すると信じている。
しかしそんな方法論は使えないのだとおもう。

方法論をくっつけるんじゃなくて、気がつくことなの。
ああ、そっか。比べるってそーゆーことなのか。。。と。
そこからがんがんに固く結ばれている心が、ゆっくりとほどけはじめる。

すると自分が何にこだわっているのか、
そしてどうしてそれにこだわっているのか、
そしてなにを怖がっているのかが見えてくる。



比較ケントーするのは、自分がここにいていいというお墨付きをもらおうとしている。でもここにいていいというお墨付きは、もうすでにもらっている。
なぜなら、そこにいるってことがそうだからだ。


絵:ハードカバー表紙イラスト/Penguin Books Elaine Viets
彼女の小説のシリーズはずっと手がけてます。



2014年11月5日水曜日

どっち選択したって、行き着くところはいっしょ





素敵な選タクシーとかいうドラマが深いのだ。

人生には分岐点が色々あって、そのつど選択をする。竹野内豊が演じるタクシードライバーのタクシーは、時間を戻ることができて、その「間違えた」選択を別の選択に切り替えられるというのだ。

ところがいざその選択肢を別の選択にしても思うよーに進まず。ハチャメチャな展開になっていく。七転八倒したあげく、主人公はおもいもよらぬ結果に導かれる。

これはねえ、すっごい深いねえ。
まず何度も過去に戻ってトライできるあたりが、この世は並行宇宙でありとあらゆる可能性があることを教えている。
時間なんて存在してないとなにげにいってる。

んで、主人公が思うようにいかないのも、結局その経験を通して、あなたは何を学ばされているのかってことを教えてくれているのだ。

1億円ゲットするとか、不倫相手と結婚するとかに、主人公の意識は何かをゲットすること向かっている。が、宇宙はそこに注目はしていない。
宇宙は、あなたは何を怖れているのか、そしてそれに真正面から向かえってことをいってる。

うまいこといえないけど、けっきょくさあ、どっち選択したって、あなたが個人的に抱えている問題にむかわされるわけだ。

それをこのドラマは笑いながら教えてくれている。


2014年11月2日日曜日

マジでこの世は自分の心でできてるうううう〜




11月4日(火)〜11月12日(水)




「あんたさあ、ホントに思ってること言わないよねえ」
と、やまんばはダンナをするどくつっこむ。
「しょーじきに言えば?」

「え?おれ、いつも正直に言ってるよ」
「うそうそー。一見好き勝手にしゃべっているよーに見えるけど、ホントのところは言わないじゃん」
「。。。それ、君のことじゃないの?」
「。。。。 ん? えっ、、、えええええ~~~~っ!」

するどくつっこみをいれたつもりが、墓穴ほっちゃった。

そーなのだ、そーなのだ。
およそ人の気に入らないとこ見つけてぶーぶー言ってるものは、じつは自分のことなのだ。マジで。ホントに。おもいっきり。

誰かのことを「あいつは頭が固い」と思っているのは、おれは頭が固いと思っているのだ。
「あいつ」は「おれ」に主語を置き換えられる。


ためしにやってみそ。
だれかさんの気に入らないところをあげつらってみよう。そのだれかさんの、だれかのところを自分に置き換えてみよう。マジで自分にショージキに自分を振り返ると、自分で自分のことをそう思っていることに気がつく。

実際どうであるかは関係ないのだ。
かんじんなのは、自分でそう思い込んでいる、信じているってことだ。

やまんばは、一見好き勝手にしゃべっているよーに見えるけど、うまくごまかしている。その場をテキトーにとりつくろっている。
それは他人が怖いからだ。だから本当に思っていることが言えない。

んで、それを他人に見るわけだ。
「あ、あいつ、自分のこと隠している」って。
犯人は君だよ、ワトソン君。

やまんばはほんとに思っていることは言えないものだと信じているのだ。
ほんとは言えるかもしれないのに。

ダンナに向かって、「ホントのこと言っちゃえ」っていってるのは、自分に向かっていってるのだ。

おそろしーぐらいこの世は自分の心の写し鏡だ。。。


2014年11月1日土曜日

人にOKをもらうために生きる人生



やまんばは人の目を気にする。
人がどー見ているか、人がどー私を裁くか、人にどー好かれるか、人がどー私の仕事っぷりを判断するか、人に何か迷惑かけていないか、気にしている。

およそやまんばがおこす行動のモチベーションは、人の目が基準だ。
家の中にひとりでいて、他人がいなくても気にしている。
今、この部屋に誰かが入ってきてこの部屋を見たら、どう思うか。汚い。やばい。そうじしなきゃ、と。
ほらね、人の目だ。
今この件で聞きたいことがある。けど電話したら迷惑だろうか。今仕事で忙しいかもしれない。できない。でもあとから迷惑かける。ううう、どっどーしよー。
ほら、人の目。

びっくらこいた。
自己嫌悪したり罪悪感もったりしている自分は知ってたよ。だけど、そこまで人の目を気にしていたなんて、チーットも気がつかなかったんだよ。
それがさあ、おそろしーことに、その自己嫌悪も罪悪感も「人の目」が前提だったんだ。

よーかんがえたら、あたり前田のクラッカー。
もし無人島に、いや、この世にやまんば以外の他人が存在してなかったら、やまんばは自己嫌悪するかね?罪悪感もつかね?

しないね。じぇったいしないね。
パッパラパーになって、好きなこーとして遊ぶもんね。「あたしはどーみられてるんだろーか」なんてびくびくしない。
だいたい、誰に「見られる」んだ?



人は人の評価を気にしている。ほめられるとうれしいものだ。君、才能あるねえと言われると天にも昇りそーになるものだ。それは他人に「あなたはここにいていいよ」と、お墨付きをもらっているかんじがする。だから人は人にいいことをしようとする。

だが同時に、ほめられなかったらどうしよう、きらわれたらどうしようと言う相反するものの恐怖も生む。
だから人は他人の目をつねに気にする。それはいつでもどこでも他人にここにいていいという許可をもらいたがっているのだ。

そーすると、ひたすら許可をもらうために人の目を気にしつづけることになる。オッケーをもらって認めてもらった瞬間は「よしっ!」ってうれしい。しかし次の瞬間から、また認めてもらうために行動を起こすのだ。

これ、きりがないのだ。
オッケーをもらうために次々に行動を起こしていくだけの人生。。。。
やまんばはひたすらそれにエネルギーを注ぎ続けているのであった。
すごいエネルギーの消費。ほとんど無意識のうちに息するようにやっている。

それははたしてほんとうの私の人生を生きているんだろうか。


ソフトバンクホークスが日本一になった。ものすごくうれしがる。
「やりました!努力の結果が認められた!万歳日本一!そしてまた明日っから新たな一歩が始まるのです!」
とアナウンサーは言った。
おいおい。
努力して勝って、やった!ってよろこんで、んでまた次の勝利に向かうのかい?

勝ちました。
よろこんでもらえましたでしょうか。
ありがとう。
ではまた次の勝ち負けに向かって生き続けます。

個人も団体も、みんな同じパターンで生きているんだね。