2020年10月31日土曜日

過去をサンドイッチにして

 


夜明け前、サンドイッチ作っている夢を見た。

いちごのサンドイッチと、ベーコンのサンドイッチ。

どちらも具沢山で、口に入らないぐらい高くそびえてる。。。


という夢を見ながら、あるインスピレーションが来ていた。


私の人生に現れてくる登場人物は、ぜんぶ私が作ったものだと。

両親の性格、くせ、趣味嗜好から職業に至るまで、全て私が設定したものだと。そしてこの私さえ、この肉体から性格に至るまで設定していると。


知識では知っている。

けれどもそれを直接言われると、びびった。


じゃあじゃあ、母のあの病気も?あの環境も!?すべて私が!?


。。。そのようだ。


がーん。。。。





でも心のどこかがそれを受け入れていた。

心のどこかがそれを聞いてホッとしていた。



私の中で、それを罪と見なくなっていたからなのかもしれない。

いやむしろ、罪と見なくなったから、それが教えられたのかもしれない。


あれほど自分に罪を見て罪悪感の塊だった私が、だんだん自分に罪を見なくなっていっている。


だから全てを設定したと言われても、それを罪とは感じていない。

たとえ母の病気を私が設定したとしても、それは実在しないのかもしれないと思う。


確かに高知に戻って母を見るなら、そこに見るだろう。

だけどそれはそう見えるだけだ。




見えるものは事実だと思ってきた。

だけどそれは事実とは言い切れないとも思い始めている。


もう一つのものがある。

そちらが真実だとしたら。


目に見えるものは、私が設定したもの。

この肉体を持って、この肉体で見ることをしているもの。

単にこの肉体の目が掴んでいるものだけを信じていただけなのだ。




もう一つのもの。

それは肉眼では見えない。

自我の私が作り上げた肉体から見えるものほど不確かなものはない。

それはありもしないものを見ているだけなのだから。


例えば、冷蔵庫に入れっぱなしのオリーブがカビだらけだった。

なぜか笑って観れる。

今まではそれを罪に感じていた。


この違いが一体なんなのかわからない。

でも見えるものを信じる必要はないと思えるのは、


今の私に見える限界ではそれは光として映るもう一つのものが、

どんどんリアルに感じ始めているからなのかもしれない。




私の設定すべては過去だ。

過去という具材を山のように積み上げてパンに挟み、

マヨネーズをいっぱいかけて、

ガブッと食べてしまおう。


『過去を赦し、それを手放しなさい。それは確かに過ぎ去っているからである』

                      by奇跡講座テキスト26章V.14.1


私はこの設定をぜんぶ赦そう。



もちろんその感覚は行きつ戻りつすることだろう。

罪も見てしまうだろうし、罪悪感もまた感じることだろう。

それもまた赦そう。どこまでも。




イラスト/「健康と生活」表紙イラスト/フラダンス


2020年10月24日土曜日

チープなおもちゃ


 



頭の中にいろんな言葉が散乱していた。

イメージで言えば、床に犬のおもちゃや、食いちぎった新聞紙がいっぱい散乱している感じ。


最初はその一個一個を見つけては、それと格闘していたが、

いんや。これは全く意味のない言葉の羅列だと気づく。





朝起きた瞬間から、自我が一緒に起きてくる。

自我のそれとわかる基準は、「なんかモヤモヤする」だ。

一個一個のおもちゃを見てみると、

不安なおもちゃ、心配なおもちゃ、イライラする新聞紙のかけら、恐れのピーピーボール。


「ほら。これ、どお?

こっちは、入手したての新商品さ」

自我はいつの間にか夜見世のオヤジみたいになり、

私が食いつくであろうチープな商品を提供してくる。


「これは確かに新しい、、、。

ん?ちゃうやん。

おっちゃんこれ、前からあったおもちゃに色塗り変えてるだけやん!」


「これらは全く無意味だ。。。」

そう思った時、目の前に散乱していたおもちゃはしゅるしゅるしゅる~~っと消えていった。



私は自分の頭に浮かぶ言葉は、自分のものだと思ってきた。

自分を正しい方向に導いてくれる言葉だと。

だけどその言葉を聞き続けてもちっとも幸せにもなれなかった。

その言葉は、アメを1%、ムチを99%くれた。

それでもこれは自分の捉え方が間違っていたんだ、

もっと正しい捉え方をしなければいけないのだと信じきっていた。


やがてその言葉は、自分を良い方向には進ませないものだと知る。

私にはもう一つの心があることを知った。

それが私の本当の心だった。





私には想像もできないほどのことが起こったらしい。

それは神の世界の話。

ある時神の子は、神から分離ができたらどんな感じかな~と思った。しかしおもっただけで、一瞬のうちに取り消されて、分離など起こらなかったのだが、その神から離れたいと思ったその思いが大きな罪悪感になった。あまりにも大きな罪の意識は、自分の中に保つことができず、投影という形で自分の外に出そうとした。それがこの世界の始まり。

この世界が分離で出来上がっているのもそのせい。
男と女、高い低い、大きい小さい、すべて互いを否定し合うことで成り立っている世界。

自我はそれを使い、今もこの世界を維持させ続けている。

だが神は神の子を一人ぼっちにはしなかった。聖霊という存在を一緒に送った。



私には選択肢がある。

夜見世のオヤジを教師として選ぶのか、

聖霊を教師として選ぶのか。


簡単ではないことはわかっている。ずっと自我を選んで生きてきた。選んでいるという自覚さえなかった。浮かんでくる言葉にフォーカスし、
「そうだそうだ。それが正しい。で?どうやればいい?」
と、思いっきり自我を教師として選んできた。

まさかそれが私自身を破壊する目的であったとは。
けれども自分の今までの苦悩がそれによるものだということは明白だ。


この世界に正しい答えなど見当たらない。すべてが一時しのぎ。

夜見世のオヤジの考え方で出来上がってきた私には何もわからない。

今は気がつくかぎり、聖霊に答えを求める。


聖霊は声に出して答えてはくれない。私に具体的に語ることなどない。

それでも心をそこに委ねていると、自然とその時々に起こっていることが、あちらこちらに導かれて紐解けていく。

これは夜見世のオヤジには到底できない芸当だ。




自我はこの世界は実在するといい、

聖霊はこの世界は実在しないという。
神の子は分離しなかったのなら、この世界などあるはずはない。


しかししっかりあるように見える。

あるように見せているのは、

「神から分離しちゃったー、やっちまったー!」

と罪を信じている私の心だ。


その思いが、目に見えるものすべてを重く深刻にさせ、世界を維持してきた。

今でもついついオヤジに乗せられてしまう。


それでも考え方を意志的に方向転換していくことで、ずいぶん穏やかになった。


朝見せてくれたチープなおもちゃたちも、一瞬で笑って退けられるようになりたい。








2020年10月22日木曜日

バチ信仰

 



小さい頃から「バチが当たる」という言葉にビビっていた。


神様はいつも私を監視していて、いいことをすればご褒美をくれ、悪いことをすればバチを与える。

その信仰はつい最近まで続き、悪いことしないように気をつけなきゃと慎重に生きてきた(つもり)。


でもイヤなことはいきなり起こり、

「何!?何!?いったい私、何悪いことしたあー!?」

と、悪いことをしたからバチが当たったのだと信じ、その理由を探る。


探せば大抵何かが思いつく。

「あれかなあ。。。あれにしちゃあ、バチが大きすぎる。。。やっぱこれか、、な、、?」


それはまるで、悪いことが起こった原因を見つければ、もう悪いことは起こらないような気がして。

しかし意に反してイヤなことはまた起こり続ける。





バチを当てる神は、どんな神なのか。


神様はいつも私たちを監視して、いいこと悪いことを見分ける。

神はそんなに怖い存在なのか。どっちかというと閻魔様に近い。

神のご機嫌を取りながら、ビビりながらこの世界を生きることを強いてくる存在なのか。


この世界のいいや悪いは、立場によってコロコロ変わる。

国が違えば法律も変わる。

手で食べちゃいけません!という日本の神様と、

手で食べなければいけません!というインドの神様は、どこらへんで分かれるのか?


神様はそもそもそんなに了見の狭い存在なのか?




そんな疑問を持つうちに、「バチを与える神様」を教えてもらうもっと前に、

ずっとそばにいた存在を思い出し始めた。


それはとんでもなく優しく、暖かく、穏やかで、

私がどんなことをしても微笑んで見守ってくれている何か。


その存在は、いいこと悪いことなどという種分けをしない。

この世界で犯した私の罪を、罪とも認めない。

その圧倒的な包容力に気が付き始めると、今までバチを与えてきた神が一体何だったのかがわかってきた。


それは自我だったのだ。

自我は神の仮面をかぶって、私を罪人だと信じ込ませ、

バチがあたるにふさわしいものだと教えてきたのだった。


自我の声は大きい。あれがいけない。これがいけない。ああするべき。こうするべき。

私がずっと悩まされ、振り回されてきたその大きな声は、神のふりをした自我そのものだった。


この世界など神は作っていない。ここは自我が作り出した世界。

だからこそこの世界に詳しい。

私たちがずっとこの世界に魅了され、とどまるように飴と鞭を使う。




私は大騒ぎをする声の、その奥の静けさの中の声を聞こうとした。

ずっと昔いつもそばにあったその声を。


まだまだ遠くに聞こえるその声ではあるが、心をとても穏やかにしてくれる。

その存在は、私を監視などしていなかった。

そうではなく、全てを一瞬たりとも見逃さず、ただただ見守ってくれていたのだ。


目の前に展開する知覚の世界が、昔見た薄いぺらぺらのハリボテのように思えてくる。


カーテンを開けるように、その知覚の風景を開けると、奥には眩ばかりの光があった。

私という体もそのカーテンとともに開かれてその光と一体になった。



この世界は全てのものが分離で成り立っている。

それはこのあなたと私という分離した肉体の目から見た世界。


しかしその世界は霧のようなもので、

それを通り抜けると、すべてが一つだった。






2020年10月16日金曜日

同行二人

 


高知にいた頃、お遍路さんの菅笠に「同行二人」という文字を見つけた。


「あれはどおゆう意味なが?」と母に聞く。

「お遍路さんには、いっつもお大師さんが一緒に歩いてくれゆうという意味ながよ」

「へえ~」


あの頃のお遍路さんはいつも一人だった。

チリンチリンという音が聞こえると、自然とその音の主を探す。

さっそうと歩いている人もいれば、背中に何かを背負ったまま歩く人もいた。

日常の中で彼らを見ることは、そこだけ別世界を垣間見ているような不思議な感じがしたものだ。

それでもその文字が目につくと、私をホッとさせてくれる。


そうか。お大師さんがそばにいてくれてるんだ。


幼い私にそれは自然と心の支えとなった。

いつも誰かがそばにいてくれている。




それはお遍路さんから来たものか、もともと持っていたものかはわからない。

けれども幼い頃の私には、いつもそばに誰かがいる感覚があった。

墓場で一人で遊んでいるときも、祠で一人で遊んでいる時も、庭の木に登ってイヌマキの実を食べている時も、熱でうなされている時も、誰かがいた。

それは人の形はしていなくて、何かわからない、暖かい眼差しを持った空気のようなものだった。


成長するにつれ、私はその存在を忘れていった。

自分で自分をなんとかしなければいけないという思いに何十年も取り憑かれていった。

そしてもう自分では、どうしようもないというところに達した時、私は思い出した。

一人ではなかったことを。





ある夜中、私は言葉ではない言葉を受け取っていた。


「見逃してなどいない。

一ミリたりとも。一瞬たりとも。

あなたのすべてを見ている。

そしてあなたに与えられる出来事は何一つ不平等なものはない。

すべてあなたのために向けられたものである。」


確信に満ちた大きな暖かさで告げられる。


この世界は、たとえそれが一見不平等に見えたとしても、誰一人一ミリたりとも見落とされることなく、出来事はその人のために起こる。


それはまさに誰かが常にそばにいない限り、わからないことではないだろうか。




起こる出来事は、全て私のために起こっているのなら、何を心配することがあるだろう。

それでも自我は「こんなはずじゃない!」と叫ぶだろう。

自我はその都度、判断し、解釈し、問題を見つけ出す。


だが私はこれまで自我のその言葉を聞いて、苦悩してきたのだ。


自我は起こる出来事は問題だと教える。

だがもう一つの存在は、起こる出来事は私を解放するためにあると教える。



目の前に起こる出来事、目の前に見えるもの。。。

すべてを解釈なしでは見られないように訓練されてきた私たち。


パソコン、机、椅子、すべてに意味があると教えられてきた。


自分と他人は分かれていて、世界と自分は別れていて、机とパソコンも分かれているという概念の世界。

この概念の世界こそが自我が作り上げたものだった。


私はこれまで自我とともに旅をしてきた。

自我が教える概念とともに旅をしてきた。

だがそれが架空であると気づいた時、

この世界に生まれる前からいた存在を思い出した。



今、60年間の概念の蓄積を少しづつ減らしながら、

同行二人で神への帰路の旅が始まっている。





絵:「コノハナサクヤヒメ」

先日「私の神様の絵を描いてください」という依頼を受けた。
ニニギノミコトに求愛された美しい女神。
優しさの中に強さを兼ね備え、富士山の象徴としても表される神。


依頼主の彼女が、この神とともに幸せな旅が始まりますように。



2020年10月7日水曜日

ある無垢な存在

 



半分眠って、半分起きている状態の時、
ある懐かしい人物のことが約40年ぶりに思い出された。

「ああ、そうだ。あのひとのように、、、!」


その人物は、私が今まで出会った中で一番無垢な心を持ったひとだった。
自分の損得を顧みず、
「つくちゃん、大好きだー!」と、私のためならなんでもやってくれた。
それと同時に、男の人ってこんなにも繊細な心を持っているんだと教えてくれた人でもあった。


SNSで探す。


いた。


懐かしい顔。すっかりおじいちゃんになっていた。

でもあの頃もおじいちゃんのようだったな。

20代の私とあまり年は変わらないのに、私にとって彼はすでにおじいちゃんだった。


生まれ故郷に戻り、50代で結婚したのかな?孫のようなお子さんもいる。

野山をかけめぐり、そしてまた小屋にこもって、彼の世界をうち広げているようだ。


そんな姿を遠くから眺められる嬉しさ。

駆け寄って抱きつきたい思い。

私は今、人の美しさに触れている。


あっても会わなくても、心は繋がっている。

死んでいても死んでいなくても、心は繋がっている。


たった一つの大きな心。

それが一個一個バラバラになったように見えているこの世界。




言葉と形だらけの、どんよりとした暗い雲の厚い層の中に私たちは住んでいる。


その言葉の厚い層から一瞬飛び出したら、そこには青空が広がっていた。

私はそこで彼と出会う。


全ての人たちは、その青い空に本当は住んでいる。


でも下に広がる雲の中がとても魅力的で、その中でもがき苦しみながら楽しんでいる。

そこはどんな問題も解決されない。

たとえ一瞬解決できたように見えようとも、また別の問題に翻弄され続ける言葉と形の世界。。。



私たちはこの形象の世界にうまく適応するために自分自身を改造してきた。

世界とは人生とはこういうものだと自分に言い聞かせながら。


だが彼はその本当の自分を、うまく改造することができなかった。

その本質をオブラートに包むことはできず、
むき出しの状態でこの世界に生きていた。


私はそれを知らずに触れていた。

そしてその美しさに癒されていたのだ。。。




その後、私たちは別々の道を進み、

そして今私は改めてその心に触れている。

この暗い世界に住む一輪の花のような存在に。


その無辜性に触れて、私は私自身を思い出す。

そしてその空をも超えて、神を思い出していこう。


ありがとう。



2020年10月2日金曜日

神様の絵の依頼を受ける

 


今、依頼を受けて神様の絵を描いている。


一時期、別の世界にいる空想の存在を描き続けていたことがある。

天狗、龍神など、私がイメージする神の世界だ。


彼らはとても静かで、私の心の中にサーっと入ってくる。

彼らは言葉を発しない。沈黙したまま、私の中に住んでいる存在。



依頼された神は、木花佐久夜毘売( コノハナサクヤヒメ)。

瓊瓊杵命(ニニギノミコト)に求愛されたこの上なく美しい女神。

美しいだけでなく、強い意志を持って自身の運命を切り開く。


依頼主のイメージが神のイメージと重なってくる。

この神が彼女の中に入って、世界を輝かせてくれることを願う。


制作中、この位置にはこれを配置し、

ここにはこれが必要、これはここにおいてはならない、、。

なぜだか知らないが、そういう決まり事が次々に浮かんでくる。


突然胸の奥に強烈な熱い想いを感じ、私は泣いていた。


遠い昔、宗教的な絵を仕事にしていた時期もあったのかもしれない。

そんな思いがよぎった。




今の私は、神を外に見ない。

私にとっての神は形を持たない。


それはここにある、あそこにあるというものではなく、すべてだ。

あまりにも大きすぎて、あまりにも強烈な光を放ちすぎて、

私たちには捉えることができない。

今の私たちの力では、それを見た瞬間、気が狂ってしまうだろう。


だからこそ、遠い昔から私たちはその捉えきれないものを、

私たちが感じられる範囲の小さな形に置き換えて、

祭り、大事にしてきたのかもしれない。



神を感じられるものは唯一、喜びによって。


胸の奥がジーンとする、暖かくなる、

そして大いなる静けさと平安の中に、神を認識する。

今の私にとって、それが最大の神からの贈り物だ。



女神の絵には、彼女の胸に大きな光を添えた。

この光が全てに満ちていきますように。




絵:「ドラゴン」