高知にいた頃、お遍路さんの菅笠に「同行二人」という文字を見つけた。
「あれはどおゆう意味なが?」と母に聞く。
「お遍路さんには、いっつもお大師さんが一緒に歩いてくれゆうという意味ながよ」
「へえ~」
あの頃のお遍路さんはいつも一人だった。
チリンチリンという音が聞こえると、自然とその音の主を探す。
さっそうと歩いている人もいれば、背中に何かを背負ったまま歩く人もいた。
日常の中で彼らを見ることは、そこだけ別世界を垣間見ているような不思議な感じがしたものだ。
それでもその文字が目につくと、私をホッとさせてくれる。
そうか。お大師さんがそばにいてくれてるんだ。
幼い私にそれは自然と心の支えとなった。
いつも誰かがそばにいてくれている。
それはお遍路さんから来たものか、もともと持っていたものかはわからない。
けれども幼い頃の私には、いつもそばに誰かがいる感覚があった。
墓場で一人で遊んでいるときも、祠で一人で遊んでいる時も、庭の木に登ってイヌマキの実を食べている時も、熱でうなされている時も、誰かがいた。
それは人の形はしていなくて、何かわからない、暖かい眼差しを持った空気のようなものだった。
成長するにつれ、私はその存在を忘れていった。
自分で自分をなんとかしなければいけないという思いに何十年も取り憑かれていった。
そしてもう自分では、どうしようもないというところに達した時、私は思い出した。
一人ではなかったことを。
ある夜中、私は言葉ではない言葉を受け取っていた。
「見逃してなどいない。
一ミリたりとも。一瞬たりとも。
あなたのすべてを見ている。
そしてあなたに与えられる出来事は何一つ不平等なものはない。
すべてあなたのために向けられたものである。」
確信に満ちた大きな暖かさで告げられる。
この世界は、たとえそれが一見不平等に見えたとしても、誰一人一ミリたりとも見落とされることなく、出来事はその人のために起こる。
それはまさに誰かが常にそばにいない限り、わからないことではないだろうか。
起こる出来事は、全て私のために起こっているのなら、何を心配することがあるだろう。
それでも自我は「こんなはずじゃない!」と叫ぶだろう。
自我はその都度、判断し、解釈し、問題を見つけ出す。
だが私はこれまで自我のその言葉を聞いて、苦悩してきたのだ。
自我は起こる出来事は問題だと教える。
だがもう一つの存在は、起こる出来事は私を解放するためにあると教える。
目の前に起こる出来事、目の前に見えるもの。。。
すべてを解釈なしでは見られないように訓練されてきた私たち。
パソコン、机、椅子、すべてに意味があると教えられてきた。
自分と他人は分かれていて、世界と自分は別れていて、机とパソコンも分かれているという概念の世界。
この概念の世界こそが自我が作り上げたものだった。
私はこれまで自我とともに旅をしてきた。
自我が教える概念とともに旅をしてきた。
だがそれが架空であると気づいた時、
この世界に生まれる前からいた存在を思い出した。
今、60年間の概念の蓄積を少しづつ減らしながら、
同行二人で神への帰路の旅が始まっている。
先日「私の神様の絵を描いてください」という依頼を受けた。
ニニギノミコトに求愛された美しい女神。
優しさの中に強さを兼ね備え、富士山の象徴としても表される神。
依頼主の彼女が、この神とともに幸せな旅が始まりますように。
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