2025年7月11日金曜日

我思うゆえに我あり


 

ある朝目覚めたら、ものすごい喜びでいっぱいになっていた。

うれしくて飛び跳ねたくて、その場でぴょんぴょんしてもいいくらい。

ちっちゃな子供がはしゃぎまくって最高に楽しい!って感じ。


な、なんだこれは?

その理由を探した。

ずっと手こずっていた自分の作品集の版下作業が終盤に入ったからか?

そんなことでここまでうれしくなるかなあ。

なるとしたら、完全に入稿が終わってからだろうに。


とにかく謎の喜びのまま、ジムに行く。

車の運転は苦手な私。いつもおっかなびっくり運転している。

それが危うい接触事故を起こしそうになった瞬間も平然としている。

あ、抜けた。よかったね。終わり。

いつもだったら「ヤバイヤバイ、あんなことしなきゃよかった。もしぶつかってたら今頃、、、ああ、なんてことをしでかしたんだ私。。。。」と延々と続くはず。



ジムでマシーンを使いながら周りの様子を見る。

私も含めてみんな必死で体を鍛えようとしている。


そういう様を見ながら、

自分は体ではないという思いがあることに気づく。

私は今、体というものを味わっている感じがした。


ややこしい言い方だけど、こんな感じ。

「完璧じゃないものをわざわざ作って、完璧を目指す」

ということを物質という体を作って味わっていると。


できる、できない。

達成する、達成できない。

自分は未熟だ。

そういうことを味わっている。

ひたすら味わっているのだ。


だから、たとえ目標を達成しても、そこで満足できない。

またすぐ新たな目標を探し始める。


そのまんまでいられない。





だがこの体が私という観念がなかったら、

私に物質はない。

私という考えだけがある。


朝の喜びは自分と体はくっついてなかった。

ただ爆発的な喜びだけがあった。


思いだけがあり、

その思いには形はない。


それこそが完璧なのではないか。



その思いが、物質という衣をまとったとたん完璧さを失う。

その衣は、衰え朽ち果て、やがて死んでいくのだ。


私はただ不完全さをずっと味わっている。。。

マシーンを使いながら、その不完全さを味わっている自分を見た。


これに終わりはない。

ここに満足は見出せない。

この先には何もない。。。。



自分は体ではないという不思議な感覚をずっと持っていた。

こういうことなのか。。。

これは言葉にはしずらいなあ。。。



その夜、草刈りをしていない庭のことを突然思い出し、

ほったらかしにしてジャングルのような庭にしてしまった自分の罪悪感に引っ張り込まれ、一晩中その苦しみの中にいた。


草ぼうぼう、大家さんに怒られる、周りにみっともない、だらしない私、やらなければいけない、でも暑くてやりたくない、膝が痛くなる、、、、。

私は肉体で限界があり、老体にムチ打ってやらなければいけないことが山のようにあり、、、、。


昼間に味わっていた思いと真逆な自分にあぜんとする。

一睡もできずに朝を迎えた。






「我思うゆえに我あり」


デカルトがそこまでわかっていたかどうかは定かではないが、

これは最もシンプルで真実だ。


我の思いは、どこにくっついているかで、地獄と天国がある。


形という分離にくっついていれば地獄があり、

形のない思いの中にいれば、天国がある。



光と闇を行ったり来たりの体験をしている。







和紙で制作した作品のオンラインショップができました

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2025年7月2日水曜日

心の解放




 起こる出来事は、心の解放のために起こる。

そんなことをひしひしと感じる。


ある人の行為についてLINEで三人で話をしていた。

三人の意見はまったく同意見。私はわざわざ口を挟むまでもないと思ったが、

まとめる意味であることを書いた。

ところが私の言葉の一つ一つにそれはどうかなと、

他の二人の心にひっかかる何かを及ぼして、

二人対一人の状況におかれる。


思いは互いに同じであるのに、

言葉とは時に誤解を招き、それが一人歩きをする。


恐れと怒りが出てきた。

でもこんな時は同じところで話をしても拉致があかないので沈黙した。

その日は用事があり、もやもやする思いを抱えながら自転車で出かける。

風に吹かれながらある感情に気がついた。


寂しいんだ、私。

一人のけ者にされる寂しさ。

いじめられっ子でみんなから汚いものとして扱われてきた時のあの感情が吹き出した。


ああ、この感情。。。

持ってたなあ。。


日頃あまりそんな感情を感じたことがなかった。

それは小さい頃味わったいじめや親の暴力のおかげで、

どう言えば人と同調できるか、争い事を起こさずにすむか、

密かに技術を身につけてきたおかげで、

そういった思いをせずに回避できてきていたのだ。


ところが今回はそれが否応なしにやってきた。


誰からも突き放された、たった一人ぼっちになった寂しいという感情。。。


坂道を猛スピードで降りながら、

その感情を存分に味わった。




出来事は、この世界をどう渡り歩くかを学ぶために起こるのではなく、

心の中に隠し持っている感情を表に出してくるために起こる。


これは私が実際体験しながら気がついていったことだ。


冒頭の誤解を「いやいや、そうではなく。。。」と、

彼らの誤解を解くために奔走する必要はない。


普通はそうやって誤解を解いていくものだ。

しかしそれは私と他人という分離の上に成り立った行為。

分離しているという前提に立ってこの世界で行為をする。


長いことそうやってきたが、ここにきて、そこじゃなかったと気づく。


心なのだ。


心の中に隠し持っている、悲しみ、怒り、恐れ、、、諸々の、

喜びではないものを光の下に持ってくる。

それこそが一番重要だったのだと。


「神さま。私は今こんな寂しさを抱えています。この思いをあなたに渡します。」

と、渡すことで、消してもらうために表れてくれているのだと。


闇は光の下に晒された瞬間消える。






私たちは日頃ネガティブな感情に気がついた時、即座にそれを否定する。


いやいや。こんなに怒ってはいかんだろう。

いやいや。こんなにしんどいのはいかんだろう。

いやいや。こんなに嫌ってはいかんだろう。


そうやって瞬時に心の奥に隠す。


その思いを味わいたくない、そんなものもっていてはいけない。


その自分の感情への否定がことを複雑にする。


出てきた感情を否定し、即座にこの感情にさせた誰かが悪い。あいつをどうにかしてくれよう。

出てきた感情を否定し、即座にこの体が悪いのは、あの治療をしたら治るのだ、どの治療方法がいいのかと「どうすればいいか」を考え始める。


そうしてこの世界をますます重く苦しく、リアルな世界に持っていくのだ。


苦しんでいる自分、嫉妬している自分、拒絶している自分、はたまたお金がないと嘆く自分、

その一見醜い自分のすべてを受け取って、味わう。


それは自分自身を赦すことになる。



自分を責めると、相手も責めることになる。

自分を赦すと、相手も赦すことになる。


なぜならそれはひとつだから。





心の中にある感情を拒絶せずじっと味わっていると、

それが消えていくのがわかる。


心が広がったり、軽くなったり、明るく見えたり、喜びが出てきたりする。

その微妙な違いを知る。


最初は微妙かもしれない。でもだんだんそれがはっきりと見え出す。


その違いに驚く。一体これはなんだ?

こんな変化、今まで味わったことがないぞ。。。

それを知り始めると、もうそこにしか心は向かわなくなる。


それまでは外の何かを変えたら得られるはずだと思っていたが、今は違う。

指一本動かしていないのに、心が解放されていくのだ。

その想いとともにいることで。


それは外に何も求める必要はない。

すべて心の中で起こる。



『このコースは愛の意味を教えることを目指してはいない。それは教えることのできる範囲を超えているからである。しかし、愛の現存を自覚できなくしている障壁を取り去ることは、確かに目指している。愛の現存そのものは、生来あなたが受け継いでいるものである。愛の対極は恐れであるが、すべてを包み込むものに対極はありえない』ー奇跡講座「テキスト」序文




私の中にある愛が、すべてを溶かしていく。









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