あなたのことを口うるさく言ってくる人はいないだろうか。
あれが良くない。
そういうところがダメなんだ。
いつまで同じことを言わせるんだ。
それを聞くたびに私の心は震え、ああやっちまった!
やばい!なんとかこの悪い癖を直さなきゃ!
そう言って自分を正そうとする反面、
心の底に、あのやろう。このクソ野郎。死にやがれ。
という思いも潜んでいる。
私を「正しい方向」に導いてくれる人に対して、
それをやろうとする心と、それに反発する心が同時にある。
私はこの思いの中でずっと生きてきた。
あの人の言う通りにやらなきゃ!
でもできない。。。
ああ、私ってダメな人間。。。
。。死んでしまえ。。
でもあいつも死んでしまえ。。。
もうぐちゃぐちゃ(笑)
苦しみの中でふと気がつく。
あれ?
これ私が自分に言ってる言葉なんじゃないか。。。?
コースのテキスト最後の方に出てくる言葉がある。
”救いの秘密は「あなたが自分で自分にこれを行なっている」
と言うことだけである。
攻撃の形の如何にかかわらず、依然としてこれが事実である。”
これと同じ内容の言葉が、ここで4回も続けて書かれている。
自作自演。。。
これが依然として事実である。。。
私はこの言葉に惹きつけられる。何度も読み返す。
そして最後にこう締めくくる。
”聖霊は、あなたに痛みをもたらす苦しみの形にかかわりなく、
解放についてのこの包括的なレッスンを、
それが学ばれるまで繰り返す。”
うわー、それが学ばれるまで繰り返されるんだ。。。
冒頭の口うるさく言ってくる人の言葉、
「あれが良くない。
そういうところがダメなんだ。」
これ、自分が思っていることだからじゃないか?
自分は罪深いと思っている。
だからこそ、その罪深さを証明してくれる人を置いたのだ。。。!
え!?
そ、、、そういうこと。。。?
振り返ってみれば、思い当たる。
あいつはずっと私に「罪」を意識させてくれた張本人だ。
シナリオは私が書いた。
ドラマは主人公が罪深いことを演出するために、
周りに被害者を配置する。
「お前のせいで俺は不幸なんだ!」と。
世界は自分の心の中が投影されているのであれば、
自分の周りは私の思う通りになっている。
自分には罪があると思っていれば、
その罪を証ししてくれているだけなのだ。
原因に立ち返る。
原因はどこに?
私の心だ。
罪はあって欲しいのか?
自分が有罪でありたいのか?
否!
だったら、その自分の罪を証明する役者に
その役割を降りてもらうのがいいんじゃないか?
だって私がシナリオライターなのだから。
人に「お前は罪深い」というとき、
この世に「罪」というものがあると証明することだから、
その人もまた知らない間に罪を背負うことになる。
だが「お前は罪人である」と証明する役を降りてもらうと、
その人の心にも罪というものが消える。
どちらにも背負うものがなくなるのである。
どちらも解放される。
この道理が体験されることになる。
あの時からその人物は私の罪を証ししなくなった。
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