2023年12月2日土曜日

「愛しなさい」




膝が痛いことをどう見ればいいのかわからなかった。

そしてずっとずっと聖霊に聞いていた。


「聖霊さん、この膝の痛みをどう見ればいいのですか?あなたの見方を教えてください」


そしてある時答えが返ってきた。


「愛しなさい」


え?

体を愛するってこと、、、?


コースはこの物理的な世界に具体的に関わることを無意味なことだとしている。。。ように私の解釈では捉えている。


それを愛するってどういうことだろうと考えた。


膝が痛いと考えるとき、私は膝を嫌っている。

「こっ、、、この膝さえ治ってくれれば、、、。

この膝のやろう、、、!」


他の部分が痛い時でもそうだ。

私はこの体を嫌っている。いや、呪っていると言ってもいいほどだ。


これは愛でもなんでもない。この体を否定しまくって、攻撃しているのだ。

ブスだとか太っているとか衰えたとか言って。

イヤイヤ、それは最近に始まったことじゃない。大昔から!


否定している。。。この体がいやだ!

いやなもんがあるってことは、この肉体を実在させ続けていたのだ。


「愛する」とは、この体に固執しろということではなかった。

そこに存在しているように見えているものを慈しみなさいと言っているように聞こえた。



先日、力を外に与えているということに気づいた。

この体がどうにかなってくれれば私は幸せになれると信じていた。

私は力を体に与えていたのだ。


私にとっては体も対象物。お金でも同じ。

体が健康になってくれれば私は幸せ。

お金がたくさん入ってくれれば私は幸せ。


でもそれは常に外のものに自分の幸せを依存している。

幸せのために、外を変え続けることになる。

そしてそれがこの世界を持続させ続ける。



どこに力がある?

私だ。私の心に力を取り戻す。

その心で体を愛する。


さて、ここで困った。

愛するとはどうすればいいのか?

愛し方を忘れているのだ。


この体をどう愛する、、、?

今まで嫌ったことはあっても、一瞬好きになったことはあっても、愛したことなどなかった。


夜、窓を開けてじっと聞く。

これをどう愛する、、、?


すると触覚が鋭い自分に気づく。ああ、触る感覚が鋭いよな。。。

耳も、そういやいい。

目も、見え方は悪くない、そりゃそうか、それを職業にしているくらいだもんな。ははは。

舌も悪い方じゃない。ああ、そういや鼻もきく。。。


って、そういうことじゃないのか。優れているから愛するってことじゃあないよな。


と思いつつ、そうか、それは事実であることだ。


この世でのこの五感の感覚の事実を認めることではある。

その与えられた道具(体)をちゃんと見定める意味はある。


そこで気づく。

私は自分の容姿を気にしているだけだ。それと運動が下手とか。


いい部分もあれば悪い部分もある。

人はほぼ自分の悪い部分しか見ない。だから嫌う。

でもそれがなんだ。


猫、可愛いよな。

どんなブスでも、なんだか可愛いよな。

その感覚に近いんかな?


全部ひっくるめて愛おしく思う心。


きっと膝を愛おしく思うと、膝さんは喜んでいるだろう。

それは神が自分を愛してくれていると思うんじゃないか?


これは私という心が、この体を自分の中で見ている感じ。

小さなものを慈しむように。



この心を養っていこうということなのか。


それは神の愛が大きすぎて受け止めきれない私のための、前段階の訓練。


愛されていることに気づくための、愛する訓練。




絵:「金木犀」







 

2023年11月30日木曜日

これは、愛?


 

このあいだ、部屋の中で思いっきりコケた。

なんでもないものにつんのめって、そのまま前にどっかん。


手をついたけど、治りかけてた左膝と右膝もしたたかに打った。

倒れたままじっとして動かないこと10分。


やっちまったという思いと、妙な思いがごちゃまぜになっていた。


妙な思いとは「これは、愛?神の愛がやってきた?」と。(笑)

なんか妙に嬉しくなった。

部屋の片隅でコケたおばさんがじっとしたままニヤニヤ笑っているおぞましい光景。。。


頭の中で「神の愛がこんな攻撃的なことするかい!」という思いと、

神の愛がドカンとやってきたことの衝撃をこんなふうに私は受け止めたのか?

とか、わけのわからんことをもぞもぞ考えていた。


じと~~~っとしばらく倒れ込んで気が済んだ頃、ゆっくりと起き上がった。

痛い。やばい。もっとひどくなった?

そうだ、湿布。

こないだ整形外科でもらっておいた痛み止めの湿布を手首と両膝にペタペタ貼った。

ゆっくり動きながら、晩御飯を作る。


その日の朝のことを思い出した。

車を運転してプールに行く途中、猛烈に怖くなった。

運転するのも、これからのことも、何もかもが猛烈に恐ろしくなった。

その絶賛恐怖中に、変なことを思った。

この恐れ、、、ひょっとしたら、愛なんじゃね。。。?と。


なんでそう思ったのかわからない。だけど私は神の愛が私に投げかけられている時、それを受け止めきれないあまりに、それを「恐れ」として変換してしまっているのではないか?と思ってしまったのだ。


自我と一緒になっている私は、愛を恐れとして変換して受け止めている?


自我と一緒になっている時、私には罪があると信じ込んでいる。

その罪悪感がある限り、必ず罰を欲する。

だから、神の愛を、罰として受け止めるとしたら、それは恐れ以外の何物でもない。


愛は恐れに変換されてしまうのか!


じゃあ、今痛いという思いも、愛を恐れとして捉えているとしたら、、、、

さっきのコケたことも、愛がやってきた!ことを、

コケるという「いけないこと」として変換しているとしたら、、、

とかわけのわからんことを考えているうちに、なんだか嬉しくなってきた。


すると足と手首は痛いのに、幸せな感覚が広がっていった。

この時、状況と感情は一致しないことがあると知る。


通常、体が痛いと人は嫌な気分になる。

痛いのやだ。なんとかこの痛さを消したいと。

その時からだと感覚は「私」と一体になっている。


でも一体とならない時があるのだ。

体の痛さと「私」は別物。。。


「私」って何?

恐れって何?

愛って何?


なんじゃこりゃ~!





絵:マリーゴールド




2023年11月25日土曜日

外に力を与えていた


 

お金って、もらうなら、できるだけ多いほうがいい。

でも払うなら、できるだけ少ないほうがいい。


それが二人の間で行われていたらどうなるんだ?

駆け引き。腹の探り合い。


互いの妥協点を見つけ、「まあ、これくらいで」と決着をつける。


この世界はそんなことで動いている。


で、減ったら、また稼がなきゃ!と次の一手を考える。


ずーっとお金のことに縛られているなあ。


そーいや、仕事って、お金を稼ぐためにやることがほとんどだ。

いや生きるってこと自体がイコールお金を稼ぐことだ。

お金のために生きて、いっときの休息に息抜きをして、そしてまたお金のために仕事する。

それが人生ってもんさ。と、思っていた。




実は今、全くお金にならない仕事をしている。

こんなこと、今までやったことあるかなあ。

自分が動くこと、イコール、お金になる仕事、

もしくは、お金に結びつくよなあ~、

なってくれるといいなあ~という目論見のもとでやる仕事(笑)であったのだ。

それが全くお金にならない!


「これ、100万円単位の仕事だよ」と友達に言われて、

「おお!」と思った。

その時なんだか嬉しくなった。


旦那にそのことを話すと、

「そりゃ、天国に100万円分の貯金をしているんだよ」とも言われる。

さらに嬉しくなる。


お金って、あってもなくてもいいのか?(そこ?)


その時、私はお金に力を与えていた自分に気づいた。


お金の金額の高さ次第で仕事の喜びがあるものだと、今までなんとなく思ってたんだ。

でもこの間、すごく低い金額の仕事をした。

だけど自分が向かう姿勢は今までとなんら変わらなかった。


そしてここにきて、全くお金が発生しない仕事をやっている。

それでもそれに向かう姿勢は同じだった。


なんだ。お金の額次第じゃなかったんだ。

ましてや、支払いあるなし、関係なかったんだ。。。


今までどれだけお金に力を与えていたか。

それが増えた減ったということに心が振り回されていたか。

それで苦悩してどうにかしなければと躍起になっていたことか。


この感じ。この間、ノジマで感じたことの延長線なのかもしれない。


自分の外に力を与えていた。

その力しだいで、私は幸福にも不幸にもなると信じてきた。。。

ということも気がつかないほどの全くの無意識だった。


でも違ったんだ。

その力は外にはない。

私にあったんだ。


私の中で世界は動いている。


今まで、世界が私を動かしていると思っていた。

だから世界をコントロールしようと躍起になっていたんだ。



全ては自分から出ている。

外に見えるものは、私が信じている結果だ。


自分から現れてきたのだから、

その原因を自分に戻そう。

私にはその力がある。




絵:稲盛和夫似顔絵





2023年11月21日火曜日

オンラインショップ始めました





 ニューヨーク時代に、数々のラブロマンスやミステリーの表紙の仕事をしてきた。


その頃の手法は、今のパソコンでの仕事と違い、
紙を切って貼るというアナログな手法。

ファンシーペーパーという色がついた紙を絵の具がわりに使っていた。


一口に「色がついた紙」といっても、色紙じゃない。

ありとあらゆるテクスチャーがついたラブリーな紙なのだ。

マーメイド、レザック、ツムギ、岩はだ、などなど個性豊かな存在感のある質と色がある。

それを細いシャープなカッターで切って、貼っていく。


渡米する時、日本の紙屋さんであらゆる紙が揃ったのだから、

きっとアメリカにもあるだろうとタカをくくっていたが、実際住んでみてびっくりした。

ない!全然ないのだ!

そりゃあ、さすがアメリカ、中にはチベットの紙など、

なかなか手に入らない面白いものもあることにはあるが、色もお粗末なら、質も悪い。


ある日、ソーホーに新しい紙専門の店ができた。

喜んで出かけてみると、なんとそこで高級な紙として売られていたのは、

全部私がいつも日本で買っている紙だった(笑)。


結局、紙問屋の竹尾さんからまとめ買いをして、船便で大量に送ってもらい、

アメリカで日本の紙を使いながら制作をしていたのだ。


さて、その紙は日本からアメリカに送って、

そして帰国の際また日本にその紙は戻ってきたが、

まだその紙たちは色褪せない。

日本の紙の質の高さは、その昔の和紙の時代から脈々と受け継がれてきている。




そしてあの頃、ラブロマンスといえば、

「風と共に去りぬ」の劇画タッチのイラストが主流だったアメリカ。

マッチョな男性がか弱い女性を抱きかかえるという保守的なイラストが主流だった世界。


それが面白くねえなあ~と思い、逆に女性が男性をリードしていくというやり方、

そして大胆でポップな絵で勝負したのが私のイラストだった。

これも紙を切って制作すると、シャープなラインが出るという相乗効果を出していた。


あの時、先見の目で私のイラストを選んでくれたアートディレクター・Gailに心から感謝する。



さて前置きが長くなりましたが、

ニューヨークで制作してきたアメリカのペーパーバックの表紙ために作られた原画を、

オンラインにて売ろうと思いました。


テクスチャーの面白さは、オンライン上でどこまで伝わるかがわからない。

印刷物になっても、その切り絵としての魅力は、実際原画を見てもらわないとわからないところが、もどかしいところであります。


もしご興味があれば、ご一報ください。


URL:TSUKUSHI ART WORKS STORE