膝が痛いことをどう見ればいいのかわからなかった。
そしてずっとずっと聖霊に聞いていた。
「聖霊さん、この膝の痛みをどう見ればいいのですか?あなたの見方を教えてください」
そしてある時答えが返ってきた。
「愛しなさい」
え?
体を愛するってこと、、、?
コースはこの物理的な世界に具体的に関わることを無意味なことだとしている。。。ように私の解釈では捉えている。
それを愛するってどういうことだろうと考えた。
膝が痛いと考えるとき、私は膝を嫌っている。
「こっ、、、この膝さえ治ってくれれば、、、。
この膝のやろう、、、!」
他の部分が痛い時でもそうだ。
私はこの体を嫌っている。いや、呪っていると言ってもいいほどだ。
これは愛でもなんでもない。この体を否定しまくって、攻撃しているのだ。
ブスだとか太っているとか衰えたとか言って。
イヤイヤ、それは最近に始まったことじゃない。大昔から!
否定している。。。この体がいやだ!
いやなもんがあるってことは、この肉体を実在させ続けていたのだ。
「愛する」とは、この体に固執しろということではなかった。
そこに存在しているように見えているものを慈しみなさいと言っているように聞こえた。
先日、力を外に与えているということに気づいた。
この体がどうにかなってくれれば私は幸せになれると信じていた。
私は力を体に与えていたのだ。
私にとっては体も対象物。お金でも同じ。
体が健康になってくれれば私は幸せ。
お金がたくさん入ってくれれば私は幸せ。
でもそれは常に外のものに自分の幸せを依存している。
幸せのために、外を変え続けることになる。
そしてそれがこの世界を持続させ続ける。
どこに力がある?
私だ。私の心に力を取り戻す。
その心で体を愛する。
さて、ここで困った。
愛するとはどうすればいいのか?
愛し方を忘れているのだ。
この体をどう愛する、、、?
今まで嫌ったことはあっても、一瞬好きになったことはあっても、愛したことなどなかった。
夜、窓を開けてじっと聞く。
これをどう愛する、、、?
すると触覚が鋭い自分に気づく。ああ、触る感覚が鋭いよな。。。
耳も、そういやいい。
目も、見え方は悪くない、そりゃそうか、それを職業にしているくらいだもんな。ははは。
舌も悪い方じゃない。ああ、そういや鼻もきく。。。
って、そういうことじゃないのか。優れているから愛するってことじゃあないよな。
と思いつつ、そうか、それは事実であることだ。
この世でのこの五感の感覚の事実を認めることではある。
その与えられた道具(体)をちゃんと見定める意味はある。
そこで気づく。
私は自分の容姿を気にしているだけだ。それと運動が下手とか。
いい部分もあれば悪い部分もある。
人はほぼ自分の悪い部分しか見ない。だから嫌う。
でもそれがなんだ。
猫、可愛いよな。
どんなブスでも、なんだか可愛いよな。
その感覚に近いんかな?
全部ひっくるめて愛おしく思う心。
きっと膝を愛おしく思うと、膝さんは喜んでいるだろう。
それは神が自分を愛してくれていると思うんじゃないか?
これは私という心が、この体を自分の中で見ている感じ。
小さなものを慈しむように。
この心を養っていこうということなのか。
それは神の愛が大きすぎて受け止めきれない私のための、前段階の訓練。
愛されていることに気づくための、愛する訓練。
絵:「金木犀」
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