2025年2月15日土曜日

愛されてしまいなさい

 

「惹かれて」和紙、水彩

ずーっと自分をいじめてきた。


なんでこんなに苦しいんだろう?

いつも身近な人に「お前は間違っている」「お前が悪い」と言われてきた。

それは子供の頃から。

父に、母に、旦那に。


だから必死で間違えないように頑張ってきたんだ。

だけどまた間違ってしまう。


その度に自分にダメ出しをし、

「こんなやつ、いなくなってしまえばいい!」

と本当に呪いつくしてきた。

その苦しさは言われた相手に飛び火し、

そいつまで呪い殺さんばかりになった。


やばい!どうにかしないと!


必死でこの世界にはいない存在に聞き続けた。

毎晩泣いてすがった。

教えてくれ!本当に!私には何もわからない。。。!






ある時、自分が人に「お前は間違っている」

と言わせているんじゃないか?と思った。


人が自分に言ってるんではなく、

自分が、人に言わせているんではないか?と。


なんで?


指摘された時、ドキッとする。やばい!またやっちまった!と。

その時、自分というものを強く意識するんだ。

固形化した独立した一個の人間という形に収まっているのを強く感じる。

自分と他人という境界線がはっきりある。


これが分離だ。


それを感じる時、恐れもくっついてくる。

自分は間違っていて、相手は正しい。

突き放された感じ。見放され感。

どーしようーという惨めで半泣きな気持ち。


この一連の思いが、自分に与えた罰なのだ。


なぜだか知らんが、私は小さい時から罪意識を持っていた。

生まれながらにして罪びと。

罪びとは、刑に処せねばならない。

だから苦しみという罰を与える。

私が一番苦しくなる言葉は「お前は間違っている」だ。


だからその言葉を外の誰かに言わせて、ゾワっとし、

孤立感を味わい、罪悪感の淵に自分を陥れるという、

せせこましい、ちっこい罰を与え続けてきたのだ。

罪悪感を感じるということ自体が、刑なのだ。


なぜそんなことを自分にさせたいのだ?と考える。


私は愛されてはいけない存在なのだという。


なぜ?


罪びとだから。


だからなぜ罪びと?


なんでか知らん。


と、同じところをぐるぐるする。


じゃあ、質問を変えよう。。。


いや、ちょっと待てよ。

愛されてはいけないとはどういう意味だ?


だから罪びとだから愛されてはいけないのだよ。


、、、ってことはよ?

その前提に、愛されているってことがあるんじゃね?


え?


愛されているってことがなければ、

愛されてはいけない、なんて発想出てこないよね?


あ、、、、。


ひょっとしたら、知ってるんじゃね?

とっくに愛されているってことを。


あ、あーーーー。


これ、立ち位置の問題じゃね?

罪びとでいたいのか、

神の子でいたいのか、

どっちに立ちたいの?っていう。


コースは言ってんじゃん。

あなたに罪はないよと。

それを受け入れるだけなんじゃね?


謎の罰ゲーム終わらせて、


もうさっさと自分に罪がないことを認めて、



愛されてしまいなさい。










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2025年2月13日木曜日

つ、つ、つくしのつ〜

「いとしさ」和紙、水彩


1月の展覧会も無事終わり、

ほっとするのもそこそこに確定申告に取り掛かる。


1年間の領収証やら、クレジットの明細を見ると、

あ~使ってしまった~って思いが出てきて、罪悪感でゾンゾンする。

というのが今までのパターン。


ある時から見方が変わってきた。

おお。こんなに使えるほど、お金持ってたんや。

すごいやん私、と。



お金使ってしまった~という考えと、

使えるほど持ってたんやという考え。


前者は、「こんなに使ってしまったんだから、今度から節約しよう」

という反省の意味を込めて計画を立てる賢い人。


後者は、あるだけ使う無計画なアホ。


計画立てる人は賢い生き方をする人で、

計画立てない人はその場しのぎのあかんやつ。


前者は働きアリさん。後者はキリギリス。そんなイメージがわく。


そんなイメージがくっついてくるから、

ちゃんと節約して正しく生きていかなあかん!という思いで、

毎年の確定申告は反省の嵐だった。


吹き荒ぶ「ちゃんとせなあ、あかんやろ~っ!」という嵐の音に

「ひえ~~~~っ!すんませんすんません!今年からちゃんとします~~~~~」

と、コートの襟を立てて嵐の中を孤独につき進むつくしちゃんでした。


そんなことを何十年も繰り返してきましたが、

学ばないこと山のごとし。

だから毎年「ひえ~~~~~」を繰り返していたわけだ。



で、ここに来てふいに湧く変な思い。

「使えるだけお金あったやん。お金なかったら使えへんで」


その言葉は私を楽にさせた。

肩の荷が下りた。


「あ、ほんまや。あったから使えたんや」


ふわ~と心が開いた。

なんかそれでいいんだよと言われた感じがしたんだ。


こんだけ使えたんやな。

ありがとう、お金さん!

って気持ち。



計画立てる時、過去を振り返って反省し、

未来を予測してこの世界をうまく渡れるようにと考える。

でもその心は恐れを含んでいる。

うまく渡らないといけない。

うまくやらないと恐ろしいことが起こるかもしれないと。


アホな方は、今にいる。

あ~良かった~とくつろいでいる。

未来の心配などしていない。



小学生の頃から、未来を想定して前進することを学んできた。

未来に向けて考えることがエライ。


でもその思いは、

絶えず恐れを生んでいるのだった。


今は頑張る時。今は努力する時。

ボーッとするな。


明日のためにその1。


立つんだ、ジョー!明日のために!

苦しくったって~、悲しくったって~、コートの中では、平気なの!

思い込んだら、試練の道を~行くが~男の~ど根性!



無理。

私、そもそもそんな性格してなかった。


こっちだった。


ゲ、ゲ、ゲゲゲのゲ~

朝は寝床でグーグーグー、

楽しいな、楽しいな、お化けにゃ学校も~試験もなんにもない!



つ、つ、つくしのつ~。

朝は目が覚めボーボーボー。

楽しいな、楽しいな、つくしにゃ学校も~試験もなんにもない!








追記:先月の展覧会の作品が、オンラインショップにて販売されています。

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2025年2月1日土曜日

安心

「明るい森」和紙、水彩

 

あの安心感は、どこへ行ったんだろう?


ふっとやってくる底知れない安心感。すべてが暖かく満たされている。


心にちょっと不安がよぎると、ほんの少し意識を向けると、もうそこにある安心。


どうして今までこんなにもいろんなことを心配してきたんだろう?

何も心配などする必要もなかった。

何の意味もないことをくよくよと心配してきたんだろう?


ただただ嬉しくて、ほっこりして、

小さなワクワクがそこにあって、心は凪のように静か。


それは例えば心をほんの少し1度ほど角度を変えるだけでそうなる感じ。


「何だ、ここにあったんじゃん。ずっとここにあったんだ。

完全に忘れてた。わっはっは!」

ってな感じ。


何ひとつ変わらない。何のいいこともない。

これからいいことがある予感や予定さえもない。

なのに心は嬉しい。


そんな感覚がつい三日ほど前まであった。

それがピタリと消えてしまった。



あの感覚はどこに行った?どうしてあれが今ないの?

心で聞いてみる。

「あの感覚はどうやったら取り戻せるんですか?」


そしてコオさんの動画を聞いている時、ふいに思い出した。



このところダンナが不調で苦しんでいた。

自分でなんとかしてこようとしてきた彼だが、

ここにきてもうにっちもさっちも行かなくなった。

体の不調に合わせて心も不安になる。

ダブルで襲ってくる不安。。。


はたから見たら、実に自分の意見をはっきり言うやつに見えるが、

自身の弱さについては、なかなかな硬い城壁に囲まれていて、語ろうとしない。

それがだんだんと溶け始めてきたのだ。

それは強くなってきたことの証しなのだろう。

彼の心の内にあったものを私に吐露し始めていた。

今、彼の中からいろんな隠してきた思いが表に出てきているようだった。


私はただ聞く。なんのジャッジもない。彼の思いに寄り添う。

彼の背中にそっと手を当てて、ただ祈る。

私は空っぽの筒になる。

そこを通って聖霊からの癒しが流れていきますように。彼の心が癒されますように。




そんなことをやっていた頃だった。

あの安心が私の中に広がっていたのは。


私は彼を癒してもらうために聖霊に来てもらっていたはずが、

実は私自身も癒されていたのだ。


こう書くと、癒されない人が自分を癒すために人を癒す、

みたいになっちゃうんだけど、それじゃあ本末転倒だな。

そういう欲がないから起こるんだと思う。


というか、神の力を願うことで、

もともとあった本質(安心感)を思い出すのではないだろうか。


人を祝福するとき、自分が祝福されていることを思い出す。

人の豊かさに気がつくとき、自分に豊かさがあったことを思い出す。

人の愛に気がつくとき、そこに愛があったことを思い出すのと同じだ。

もともと愛を持っていなければ、思い出すことさえもできない。


だから人は一人では悟れない。

人は一人では目覚められないのだろう。


眠りは分離の夢。




人のことを思う時、その人とわたしはひとつになる。








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