2025年2月1日土曜日

安心

「明るい森」和紙、水彩

 

あの安心感は、どこへ行ったんだろう?


ふっとやってくる底知れない安心感。すべてが暖かく満たされている。


心にちょっと不安がよぎると、ほんの少し意識を向けると、もうそこにある安心。


どうして今までこんなにもいろんなことを心配してきたんだろう?

何も心配などする必要もなかった。

何の意味もないことをくよくよと心配してきたんだろう?


ただただ嬉しくて、ほっこりして、

小さなワクワクがそこにあって、心は凪のように静か。


それは例えば心をほんの少し1度ほど角度を変えるだけでそうなる感じ。


「何だ、ここにあったんじゃん。ずっとここにあったんだ。

完全に忘れてた。わっはっは!」

ってな感じ。


何ひとつ変わらない。何のいいこともない。

これからいいことがある予感や予定さえもない。

なのに心は嬉しい。


そんな感覚がつい三日ほど前まであった。

それがピタリと消えてしまった。



あの感覚はどこに行った?どうしてあれが今ないの?

心で聞いてみる。

「あの感覚はどうやったら取り戻せるんですか?」


そしてコオさんの動画を聞いている時、ふいに思い出した。



このところダンナが不調で苦しんでいた。

自分でなんとかしてこようとしてきた彼だが、

ここにきてもうにっちもさっちも行かなくなった。

体の不調に合わせて心も不安になる。

ダブルで襲ってくる不安。。。


はたから見たら、実に自分の意見をはっきり言うやつに見えるが、

自身の弱さについては、なかなかな硬い城壁に囲まれていて、語ろうとしない。

それがだんだんと溶け始めてきたのだ。

それは強くなってきたことの証しなのだろう。

彼の心の内にあったものを私に吐露し始めていた。

今、彼の中からいろんな隠してきた思いが表に出てきているようだった。


私はただ聞く。なんのジャッジもない。彼の思いに寄り添う。

彼の背中にそっと手を当てて、ただ祈る。

私は空っぽの筒になる。

そこを通って聖霊からの癒しが流れていきますように。彼の心が癒されますように。




そんなことをやっていた頃だった。

あの安心が私の中に広がっていたのは。


私は彼を癒してもらうために聖霊に来てもらっていたはずが、

実は私自身も癒されていたのだ。


こう書くと、癒されない人が自分を癒すために人を癒す、

みたいになっちゃうんだけど、それじゃあ本末転倒だな。

そういう欲がないから起こるんだと思う。


というか、神の力を願うことで、

もともとあった本質(安心感)を思い出すのではないだろうか。


人を祝福するとき、自分が祝福されていることを思い出す。

人の豊かさに気がつくとき、自分に豊かさがあったことを思い出す。

人の愛に気がつくとき、そこに愛があったことを思い出すのと同じだ。

もともと愛を持っていなければ、思い出すことさえもできない。


だから人は一人では悟れない。

人は一人では目覚められないのだろう。


眠りは分離の夢。




人のことを思う時、その人とわたしはひとつになる。








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