2021年7月27日火曜日

罪をゆるすって?


 


コースのゆるし。

この独特のゆるしはかなり難しい。

自分なりに理解してきたことを書いてみたい。

まちがってたらゆるして。



ゆるすことは、一般的には人が罪を犯したことに対してゆるすことを言う。

これは人がする行為の中の一つ。


だがコースは、ゆるしをそのようには位置づけない。

この世界から自由になるための唯一の手段が「ゆるし」だという。

えらい大きく違う。めっちゃ重要やないけ!



「お前は罪を犯した。だけど私は寛容だ。だから私の心の大きさに免じてお前をゆるしてやろう」

と言うのがゆるし。

とまあそこまできつい言い方をしなくても、日常的にはこう言う言い方をする。


「もう~。しょうがないわねえ。ゆるしてあげるわよ」


言い方は違うが、実は最初の言葉と同じ。

君は罪は犯した。罪はある。あるけれど、ゆるす。


ゆるしとは基本そう言うものだと信じてきたが、これは自我の考えるゆるしなのだ。



コースのゆるしは違う。

そもそもそんな罪などなかった。だから、なかった罪をゆるす。


この世に罪は実在しない。ゆえにゆるすのだ。

これが聖霊のゆるし。


ちょっとピンとこないですよねえ(笑)。




コースは世界は実在しないという。

これはお釈迦さんもいってるけど。


つまりこの世は実在しない説でいけば、当然罪も実在しないわけだ。


「だって、やったじゃん!あんた、私にこんなことしたよねえ!罪あるじゃん!」


見ちゃったんですから。

じぇったいやってますよねえ。

だって私がそれ、見ちゃったんですから!


実はそこなのだ。

見たからある。




自我はそれ見たぞ!と言って大騒ぎする。

自我のゆるしはその「見た」ものを無理やりゆるす。

本当はゆるしてないけど、心が広いフリしてゆるしてあげる。


見たと言うことは、それが外にあると思うのが自我。

罪は外に実在すると確信している。

あるから見るのだと信じている。




しかし聖霊は、逆からのアプローチをする。

見るからあるのだと言う視点に立たせる。


あるから、見たのではなくて、

見るから、あるようにみえているのだ。

そうあなたが知覚したのだと。


意識をこちら側に向けさせる。

知覚の原因を自分の側にする。


量子力学でも出てくる話と同じ。

存在しているものを見ているのではなく、見るからそこに存在させる。






自我はゆるしを一人でやる。


しかし聖霊のゆるしは、自分一人ではやらない。

だからこそ、わざわざこう宣言をする。


「あなたを、聖霊とともにゆるします」


私たちは当たり前のように自我の視点でものを見ている。

それを自我ではなく、聖霊の視点からものを見るために、そう宣言するのだ。



そして、実はもう一人ゆるす。

もう一人とは、その罪を見た自分自身のこと。


「それを知覚した私を、聖霊とともにゆるします」




いくら外に罪を見ようとも、その知覚をしたのは私自身。

あるから見るのではなく、見るからそこに存在させたのだ。


つまりそこに罪を見た(存在させた)のが、私自身なのだから。



本当はないはずの罪。


だからこそ、そう錯覚した自分自身をゆるしていく。


メインはこっち。

自分の中に無意識に感じている罪の意識を、

自分自身がゆるして解放させていく。

聖霊と一緒に。





そうやってゆるしていくうちに、

目の前に輪郭を持って見えていた罪が、だんだん希薄になっていく。

重く固形化していた罪が、気体になって煙のようになっていくのが感じられる。


本当にそんなものあったのだろうか。。。

そう思い始める。




罪など実在しない。


その言葉が、知識ではなく体験を通して知り始める。





絵:新書表紙イラスト「なぜ取り調べにはカツ丼が出るのか?」
実は聖霊がカツ丼なのか?



2021年7月23日金曜日

完璧でなくてもええやん

 



「すいません。もうお米の販売やめたんですよ~」


いつも買ってる高知の美味しいお米。地元の農協さんが、私の大好きなお米を売らなくなった。

がっかりしてると、県外発送してくれるお米屋さんを紹介してくれた。

早速問い合わせしてお米を送ってもらう。


「農協さんより安いやん」

とニヤニヤしながら食べた。まずい。

「ゲーーーっ!なんやねんこれ!」

あの美味しいお米はどこ行った。

10キロも頼んでしまった。。。どーするんや、これ。


意気消沈していると、心に思いがやってきた。

「完璧じゃなくてええやん」


え、完璧?

そうか。お米は美味しくて完璧なのだ、という考えがあったな。

あれもこれも美味しくてこそ完璧。そうじゃなかったら撃沈。


なぜ撃沈するかというと、自分がやったことが失敗した!と思ったから。

罪悪感やね、これ。


「そうか。別に全部完璧でなくてもええやんか。なーんや。このまま食お💙






そんな話をしたら、ダンナが

「それは自分は欠陥があるって思ってるから、完璧を求めるんじゃね?」と。


そうや。キリストみたいな完璧な人が、完璧を求めるかな。




そもそも完璧であろうとするってことは、自分は完璧じゃない、欠けてるって信じてるからや。


だから完璧なお米やお菓子や、仕事や、人や、肩書きを、

めっちゃ無意識なんやけど求めるんじゃないかな。


完璧をいっぱい寄せ集めて、

「ほーら私って、か、ん、ぺ、き!」って言いたい。


だからお米が完璧(美味しい)じゃないと撃沈してたんだ(笑)。




完璧じゃなくてええやんという声は、


「もともと君が完璧だから、そんなの問題にしなくっていいよ」

って意味だったんだ。


完璧を寄せ集めなくても、その人が完璧なら、そんなもん引き寄せなくていい。


借り物の光物で自分を光らせることなんかいらない。

だってもともとその人は光ってるんだから。


引き寄せの法則は、そもそも自分が完璧じゃない、光ってないって信じてるから、

光物を引き寄せて安心しようとするんだろうな。


そう信じてるのは自分の中に欠陥が、つまり罪悪感があると信じて、

それを隠し持っているからなんだな。


だけどそんなもんないぞ。




ないって知るためには、自分がどんな信念を持ってるかを、

いったん表に出してこないといけない。


押入れの中深く押し込めている「こうあるべき」信念を、

ごそごそ引っ張り出してきて、

お日様のもとにさらす。


そうすればお化けが光の下で消えていくように、雲散霧消していく。


あ、なーんだ、そんなもん、最初っからなかったんだ!って気がつく。



地道な作業だけど、確実に自分の本当の姿を思い出してくる。


その作業がだんだん楽しくなってくる。

私、どんな信念隠し持ってる???って(笑)。



今日も良いお天気。


押入れの中のものを日干しするにはちょうど良い。





絵:新書表紙イラスト/「すごい駅」



2021年7月21日水曜日

言葉をとっぱらうと。。。

 


彼と会うと、私はいつも萎縮してしまう。


先日気づいた「対等」という視点が吹っ飛んで、

自分を下に置き彼を上に置く、いつもの上下関係に戻ってしまった。

相変わらず私は気を使い、素の自分ではいられなかった。


そんな自分を許し、相手を許し、そしてそれを知覚した自分を許していったが、

それでもその悶々とした想いはしばらく取れなかった。



ふとある友人のことを思い出した。

それは以前このブログでも書いた耳の聞こえない少年。今はろう学校に通うため、遠くに引っ越していったが、かつて通っていた幼児園で夏祭りがあり、一昨日お母さんが少年を連れてうちに寄ってくれたのだった。


久しぶりにあった少年は、少し大人になっていた。

かがんで彼と向かい合う。彼の大きな目をじっと見た。


彼には言葉がなかった。だから私に対するなんの評価も批判もない。ただじっと黙って無言で私を見返す。その静かな眼差しに引き込まれる。彼は私をその存在のままに受け入れてくれた。

沈黙の中で、私は癒された。






私たちの心の中には、絶えず言葉がある。

一度でも瞑想をしたことがある人は、自分の心の中が思いでいっぱいなことに気づかされる。そしてその言葉は、消そうとしても消えないことに驚かされる。


心はたくさんの解釈と判断と裁きであふれている。それが私たちを苦しめている。世の中の多くの修行は、その心の中の雑念を払うために生み出された。




そうだ。言葉だ。


私はその萎縮してしまう相手に、あらゆる印象を持っている。

彼の経歴、彼の肩書き、彼の行動、有言実行の実績、経験値からくる限りない博識。

全てに圧倒されているのだ。


しかしそれらは全部言葉でできている。

その言葉が私たちに差異をつける。

こっちの方が優れている。こっちの方がお金持ちだ。こっちの方が力がある。。。

その圧倒的な差異は、言葉/概念からくる。


私はあの少年のように、言葉をぜんぶとっぱらって彼を見た。


その時、彼自身が放っている、包み込むような温かい優しさを観た。


それは権力からでも行動からでも肩書きからでもない、彼自身が持っている存在的な包容力だ。

それを感じた時、私は急に胸が熱くなって泣いてしまった。

なんて素敵な人なんだ!

その時彼の本質を観たのだった。



言葉は自我だ。

私は彼を自我で見ていた。


自我のメガネで彼を見れば、当然肩書きや言動が目につく。そうすれば自分の位置を彼と比べて、低い自分を思い出さされる。とてもじゃないが対等とは言えない。


けれども言葉という概念を取っ払うと、存在同士が見えてくる。

それは本当の自己。神聖である私たち。



言葉がほんの少しの違いを見つけ出し、ここが違う、あそこのニュアンスが違うと言い争い、やがて言葉がまたさらなる説明のための言葉を生み、説明のための、そのまた説明のための言葉が続く。


最初はほんの少し違っていただけなのに、いつの間にか大きく違っていってしまう。


夫婦間でもよく起こる現象。

けれどもそれらの言葉を全部取り払って相手を見たとき、そこにあるのは、ただただ愛おしさだけではないだろうか。


言葉は違いを作り恐れを生み出すが、それが消えた時、

そこには愛があるだけなのではなかったろうか。


何をせずとも、何にならずとも。










絵:新書表紙イラスト「企業家たちの幕末維新」


2021年7月16日金曜日

言葉のない世界


 

ある朝、ある体験をした。

それは朝布団をあげている時のことだ。


いつもは聞こえてくる心の中の声が、まったく聞こえなかったのだ。


それは意識的に無言になったわけではない。

私の中に言葉がまったく消えていたのだ。


ほんの2、3分のことだった。

布団をたたみながら、この上ない静けさを味わっていた。そこには本当の意味での安堵があった。


静けさ、安堵、そして喜びがあった。

ああ、、、いいのだろうか。こんなにも幸せで。。。


そんな思いがよぎった時、いつもの私に戻っていた。


それは一瞬、言葉のない世界とはどんなものなのか、聖霊が教えてくれたのだろう。

一瞥体験とはそんなものなのかもしれない。劇的にやってくるのではなく、ほんの一瞬、真理を覗かせてくれる。だから一瞥なのだろう。


どこに向かっていいのかわからなくなった時、

「真実とはこのようなものだよ」

と、ヒントを与えてくれる。

人はそれを目指していくのだ。



言葉のない世界。。。

それで思い出したことがある。


むかし、絵本を三冊シリーズで出版社から出してもらった。

シリーズのタイトルは「ことばのない絵本シリーズ」


それぞれのタイトルは「ロードムービー」「センチメンタルジャーニー」「鈴木さんの場合」






その絵本には主人公の全体像は描かれていない。言葉もない。

何の説明もないまま、物語は淡々と進んでいく。

二つの物語に、三冊目の物語が串刺しのように貫いて絡み合っている。


絵は紙を切ってはる手法。

一見そうは見えないが、よく見ると紙の質感が浮き上がっている。

私の色の組み合わせが独特で、印刷屋さん泣かせだったようだ。


売り上げを重視する今の時代ではあり得ないような、

実験的な絵本をその出版社は出してくれた。

その思いを心から感謝している。



初めて告白するが、実はあの絵本三部作をNHKが取材したいと連絡があった。

あの当時の私はまだ若く、強気で、そしてあの頃とてもテレビを嫌っていた。

そしてちょうどその頃、ニューヨーク行きの準備でバタバタしていた。


いろんなことが重なって、

その売り上げにもつながる大きな話を、私はあろうことか断ってしまったのだ。

本当に出版社には申し訳なく思っている。




いや正直言うと、怖かったのだ。


この絵本たちは今でも私が抱えきれないものが含まれている。

何故あのような本ができたのか私にはわからない。

あれは観察者の意識だ。

色即是空だ。色をとらえる空の意識だ。


目の前に起こる出来事を淡々と見ている存在を描いた絵本だった。






絵本「ロードムービー」より


非二元の著者、ダグラス・E・ハーディングの本を見つけた時、

私が絵本に表そうとしていたことと同じことを考えていた人がいたことに驚いた。


絵本は、彼の言う「顔のないもの」そのものの視点だったのだ。


何年か前、彼の本を翻訳しておられる髙木悠鼓さんに、

私の絵本「ロードムービー」を見てもらったら、「そのまんまだ。。」とびっくりされていた。



あれから何年も経って、私はあの絵本の意味がいまわかり始めているのかもしれない。


だからあの時点でNHKの取材を受けても、

この絵本の本質は何も伝えられなかったと思う。


今おもえば、NHKの人も、

「一体なんだこれは!?」と言う思いから惹きつけられたのだろうと思う。






絵本「センチメンタルジャーニー」より



「ことばのない絵本シリーズ」は、あの朝私が体験したこと、まさに彼ら主人公たちの心の中に言葉がなく、安堵の中でこの世界を見ているお話だった。


だから何が起きても彼らは動じず、淡々とこの世界を通り過ぎる。


大きな決断をするものもあれば、異形の地に赴くものもいる。

その摩訶不思議な世界は、ダイナミックな私たちの心を表している。


この世界をどう作り上げるかは、私たち一人一人が鍵を握っている。


自我の心か、聖霊の心か。


言葉だらけの中に苦悩とともに生きるのか、

言葉のない世界で、安堵とともに生きるのか。


選択は常に今行われている。




絵本「鈴木さんの場合」より