彼と会うと、私はいつも萎縮してしまう。
先日気づいた「対等」という視点が吹っ飛んで、
自分を下に置き彼を上に置く、いつもの上下関係に戻ってしまった。
相変わらず私は気を使い、素の自分ではいられなかった。
そんな自分を許し、相手を許し、そしてそれを知覚した自分を許していったが、
それでもその悶々とした想いはしばらく取れなかった。
ふとある友人のことを思い出した。
それは以前このブログでも書いた耳の聞こえない少年。今はろう学校に通うため、遠くに引っ越していったが、かつて通っていた幼児園で夏祭りがあり、一昨日お母さんが少年を連れてうちに寄ってくれたのだった。
久しぶりにあった少年は、少し大人になっていた。
かがんで彼と向かい合う。彼の大きな目をじっと見た。
彼には言葉がなかった。だから私に対するなんの評価も批判もない。ただじっと黙って無言で私を見返す。その静かな眼差しに引き込まれる。彼は私をその存在のままに受け入れてくれた。
沈黙の中で、私は癒された。
私たちの心の中には、絶えず言葉がある。
一度でも瞑想をしたことがある人は、自分の心の中が思いでいっぱいなことに気づかされる。そしてその言葉は、消そうとしても消えないことに驚かされる。
心はたくさんの解釈と判断と裁きであふれている。それが私たちを苦しめている。世の中の多くの修行は、その心の中の雑念を払うために生み出された。
そうだ。言葉だ。
私はその萎縮してしまう相手に、あらゆる印象を持っている。
彼の経歴、彼の肩書き、彼の行動、有言実行の実績、経験値からくる限りない博識。
全てに圧倒されているのだ。
しかしそれらは全部言葉でできている。
その言葉が私たちに差異をつける。
こっちの方が優れている。こっちの方がお金持ちだ。こっちの方が力がある。。。
その圧倒的な差異は、言葉/概念からくる。
私はあの少年のように、言葉をぜんぶとっぱらって彼を見た。
その時、彼自身が放っている、包み込むような温かい優しさを観た。
それは権力からでも行動からでも肩書きからでもない、彼自身が持っている存在的な包容力だ。
それを感じた時、私は急に胸が熱くなって泣いてしまった。
なんて素敵な人なんだ!
その時彼の本質を観たのだった。
言葉は自我だ。
私は彼を自我で見ていた。
自我のメガネで彼を見れば、当然肩書きや言動が目につく。そうすれば自分の位置を彼と比べて、低い自分を思い出さされる。とてもじゃないが対等とは言えない。
けれども言葉という概念を取っ払うと、存在同士が見えてくる。
それは本当の自己。神聖である私たち。
言葉がほんの少しの違いを見つけ出し、ここが違う、あそこのニュアンスが違うと言い争い、やがて言葉がまたさらなる説明のための言葉を生み、説明のための、そのまた説明のための言葉が続く。
最初はほんの少し違っていただけなのに、いつの間にか大きく違っていってしまう。
夫婦間でもよく起こる現象。
けれどもそれらの言葉を全部取り払って相手を見たとき、そこにあるのは、ただただ愛おしさだけではないだろうか。
言葉は違いを作り恐れを生み出すが、それが消えた時、
そこには愛があるだけなのではなかったろうか。
何をせずとも、何にならずとも。
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