2019年12月19日木曜日

存在しないものを怖がる




人が自分の内側を見ないようにするのは、
もし自分の中を覗こうものなら、
何か恐ろしいものを見るような気がするから。


自分の中の声/自我が訴える。

「見るなよ。見るなよ。見たら最後だ。
日頃お前が外に向かって何を悪態ついているのか、おれは知ってる。
お前がどんだけイジクソが悪いか、おれは知ってる。

お前の本性を見たいか?
ああ。。。とてもじゃないが教えられねえ。
お前の残酷さはおれがよく知ってる。
おれは肝要なんだ。だから今まで付き合ってやってんだぜ。
見たっておれはお前を守ってやらねえからな。知らないぞ。
だからいいか?ぜったい見るなよ」

自我は最初に大声で訴える。

日頃自我の声と友だちだとおもっている私たちは、
その言葉を聞いておそれおののく。
「あーやだやだ。ぜったい見ない!」



そうやって、自我は私たちが内面を見ようとすることを妨げる。
それはなぜか。自我が困るからだ。
私たちが内面を見るということは、自我の正体を知ることになる。

ほんとうは、自我など、どこにもいないことがバレるからだ。



私たちが見ないことによって、自我が温存されている。
しかし見ることによって、自我の解体が始まる。

自我は罪の意識をでっち上げ、それで私たちを縛り付ける。

自我とずいぶんと長いこと仲良しだった私たちは、自我がいうことは正しいと信じて疑わない。自我は私たちの味方だと信じて疑わない。


そうやって自我は私たちをコントロールする。

自分が「犯したかもしれない罪」
(そう思わせることによって)その「罪」を見ないと選択させることで、
私たちをこの世界に縛り付け、自我を温存させている。

だがそんなものは本当は存在しない。



後ろにお化けがいるような気がして、恐怖におののく。
いやだいやだ見たら絶対そこにお化けがいる!
といって見ないでいることによって、
そこにお化けを存在させる。
しかし勇気を持ってふりむくと、そこには何もない。


だた、そう思い込んでいることだけが、
それを存在させているのだ。




絵/ミステリー表紙


2019年12月16日月曜日

橋の上で

この橋の上で。写真は去年1月まだ父が生きていた頃。



先日、高知で母の引っ越しの準備をするために、あちこち行ったり来たりしていた。
鏡川にかかる橋の上で、対岸のビル群を見ながら思った。

「ああ。。この見えている世界の中に、何一つ救いはないのだ。。。」

その言葉がよぎった時、
私は全身の力が抜けると同時に、なんとも言えない解放感と、深い安堵が広がった。

「もう、、、どこも探さなくていいんだ。。。」


私たちは心の救いや癒しを世界に求める。
どこかにあるはずだ。どこかにその兆しがあるはずだ。この世界を探せば、きっとどこかに私を救ってくれる何かを見つけるはずだ。。。!と。

そうやって何十年も探し続けた。聖地に、巨石に、文献に、人に、思想に、精神世界に、、、。
私はずっと外に探し続けた。自分の外にあるものに。

そして今、鏡川の上で、この、今見えている世界には、
その救いは何もないことを知った。
(高知にないって話じゃないよ)



見えている世界は、私の心が現れたものだ。
つまり今見ている世界は私の自我が反映されたもの。
自分で抱えきれない恐れと罪を、自分から突き放して投影させた。
その恐れと罪の形の中に、いくら救いを求めても、そんなものありはしないことを、
なぜ今まで気がつかなかったのだ。

「あるわけないじゃん!」
私は橋の上で、ひとりツッコミをしていた。




私たちは人生がうまくいかないと、うまく変わるようにあらゆる努力をする。
ところが一瞬変わったように見えても、また問題が浮上する。
そしてその問題に取り組み、変えようと努力をする。


ほんとうは、現れているものをなにひとつさわらなくていい。
なにも変えなくていい。

なぜならそれは、ただ結果が現れているだけなのだから。


普通は問題があるから、それを変えようとする。
問題(原因)が先にあって、変える(結果)ことをする、というふうにおもって来た。

しかし本当は現れているものは、結果に過ぎないというのだ。
問題は原因ではなく、結果なのだと。



そもそもの原因はなにか?
心だ。

最初に心の原因があって、それが結果としてこの世界に現れる。
だからこの世界に原因を求めることは不可能だ。もともとこれはすべて結果なのだから。

では問題はどのように解決するのか。
それは見方を変えることだ。
今まで現象に対して、同じ解釈、同じ反応をしていた自分の、見方を変えていくことなのだ。


同じ反応に気づき、
もうその今までと同じ反応はしないと決めること。
そして別の見方をしたいと切に願うこと。




橋を渡りながら考えた。

私はこの高知でありとあらゆる価値判断を育てて来た。
生まれて知る世界、そして学校。小学校、中学校、高校。。。


ほぼ今の自分を作った基礎の部分をなしている。
そしてその価値判断が私を苦しめているのも事実。

ならば、この地で、この考えを培って来たのだから、
この地で、それを解体する!


強い決意を持って、私は橋を渡り切った。



2019年12月12日木曜日

母の決心3

母の油絵一番最近の作品。ほとんど抽象画になっている




スタッフの方々に挨拶をしてのち、母が先に行った食堂に向かった。

わたしはそこで、食堂のテーブルに車いすで座っている母の後ろ姿を見て凍りついた。
そこには見知らぬ老人たちに囲まれて、えんじ色のコートを着て固く身をこわばらせた彼女がいた。

「こんなところに母を置いてしまった!」
どこに彼女がいるのかを現実的に直視したと同時に、大きな後悔の念が押し寄せた。

全身の血の気が引いて罪悪感に押しつぶされそうなまま、彼女に近寄った。
老人たちの奇異の目が私たちに向けられる。
私は母の手を強くぎゅっとにぎった。
「がんばって。。!」

それ以上何も言えなかった。
映画、楢山節考を思いだした。
私は山に母を捨ててくる息子の気持ちになった。




初日から連続でほとんど寝られなかったが、この夜はそれがピークを迎えた。
母を施設に送った罪悪感で頭がいっぱいになる。

もっと自分が稼げてたら、もっといいところに行けたのに、もっといい方法があったのかもしれないのに、自分の稼ぎのせいで、今彼女を苦しめている。。。!


日頃から自分の内面と向き合い、何を考え、何を感じて、どんな感情を引き起こしているのかを見て来た。そして一番の自我の特徴である罪悪感とも、長い時間をかけてていねいに対峙して来た私だった。

それが木っ端みじんに吹っ飛ぶ。
怒濤の思考の嵐に悶絶する。
おびただしい言葉の渦が私を襲う。
そのすべては自分を裁く言葉だ。自分のいたらなさゆえの母の苦悩。そういう図式がぐるぐるとエンドレスでまわり続ける。



私はベッドの上でゆっくりと座った。
頭は完全に冴え渡り、荒れ狂う頭の中の言葉の嵐を
その声と同一化はせず、ただその声を静かに聞き続けた。

過去の出来事が走馬灯のようにパッパッと一瞬現れては消える。そこには幼いころの私の母とのシーンも浮かぶ。
その頃培われて来た考え、そして大人になってからの考え。。。

その時、自分がどれだけ彼女の考えが基盤になっていたかを知る。
自分の考えだとおもっていたものが、ほとんど彼女の考えに似ていたことをはっきりと見た。それと同時に私の思考の7割が、彼女に関することばかりだったことを。

そうだ。夜中にトイレに起きるたび、ああ母は今ごろどうしているだろう。。苦しくなければいいが。。。そんなことを何万回、何百万回考え続けて来たのだ。

私の罪悪感の大本は、彼女への罪の意識だったのだ。

それは幼い子どもが、この世ではじめて見た母への、せつないほどの愛情表現だったのかもしれない。


私は自分が彼女に感じていたすべての罪の意識をゆるした。
そしてすべて手放すことにした。




母の日本画




翌朝、母のいないアパートにいく。大家さんにアパートの鍵を返すためだ。
母が描いて来た日本画や油絵や着物や食器も、ありがたいことに友だちにけっこうもらっていってもらえた。あとの処分は業者さんにお任せして、私は鍵を返した。

帰りの飛行機の前、時間がまだあった。
「おかあさんとこ、寄る?」
最近は、行きも帰りも高校時代からの友だちの車に乗せてもらっている。
「う~~ん。。。いいや。。」
「なんで?」
「だってえ。。。会いたくないとおもうよ。彼女。。」
といいつつも
「流れに身を任す」
とかなんとか言っているうちに、
友だちは、母のいる施設に車のナビをあわせていた。



母の部屋に顔を出すと、案外元気な顔で迎えてくれた。
「お母様、昨晩も今日もごはんを召し上がられなかったんですよ」
スタッフの方が心配して顔をだしてくれた。
「徐々になれてくとおもいます。気長によろしくおねがいします」

「お味噌汁、おいしかった」
と、彼女。
「え!ああ!そうですか!ああよかった~。心配してたんですよ。おいしくないんやろか~って」
スタッフさんも十分気づかってくれている姿がうれしい。


施設はいつも彼女が朝食べていたものに出来るだけあわそうとしてくれていたが、彼女は頑として断る。しばらく押し問答していて気がついた。

彼女は本当にここにきたのだ。ここにきたからには、ここのルールに従う。
そういう覚悟がはっきりとみえた。



帰り、彼女に呼び止められた。
「なに?」
「いってらっしゃい」
彼女は手をふった。

「はいっ。いってきま~す!」
私も手をふり返した。
それはあのアパートでいつもやっていたように。


もうここは彼女の家になった。



絵:上/母の油絵
  下/母の日本画




2019年12月11日水曜日

母の決心2

母が描いた日本画 ヒメジョオン
翌朝、母のアパートに行く。


三日連続で彼女の妹がやってきて、アパートにあった茶箪笥、鏡台、螺鈿入り漆塗りの座卓、自転車、絨毯、椅子、花瓶、漆器、お重、鞄の数々を持っていったらしい。

すこし空間が開いた部屋に、すこしだけ小さくなった母がわらって迎えてくれた。


六畳の部屋のまん中に、四つの衣装ケースと縦長の籐のタンスと布団。
それだけが彼女のすべての持ち物となった。


「お茶、入れよか。お急須は?」
「ない。妹が持っていった」
「お急須まで!?」
2人で大笑いする。
母と2人だけで過ごす最後の時間に、暖かいお茶はなかった。仕方ない。コンビニでペットボトルのお茶買って来よう。


お茶を習い、お茶の味に精通し、長年仁淀川の近くで取れる高級な緑茶を好んで飲んでいた母。毎年そこの新茶を送ってくれ、私もその味に親しんでいる。そんな彼女であるにもかかわらず、もう高級茶葉を名残惜しむ様子はない。彼女の覚悟が一瞬見て取れた。



父との離婚後、30年間住んで来たこの部屋を引き上げる。
今日一日で事務的なことをすべて終らせ、明日彼女は施設に向かう。


はじめは私とダンナで一週間ぐらいかけて、この部屋の処分をするつもりだった。
だがケアマネさんが機転を利かせてくれ、業者さんに一気に処分してもらう手はずを整えてくれた。そういう例をたくさん見て来られた方は、その判断が早い。遠くにいる身内の状況をよくわかってくださっているのだ。

ここまでの道のりを作ってくださったケアマネさんには、本当に感謝している。母のことで、彼女にはずいぶんとご苦労をおかけした。
地元を遠くはなれて住む娘には、じっさい何の力も持ち合わせていないことを思い知る。介護の人々の支えがないと、私たちはまったくここまで来れなかった。




母はいわゆるお嬢様だった。
「世が世なら、あなたはお姫様」と言われたらしい。
それがどういう意味なのかは置いといて(笑)、県庁に勤めるまで、彼女は「お金」という存在を知らなかった。浜まで出るのに、他人の土地を踏まずにいけた。360度見渡すかぎり、自分の土地だった。屋敷にある蔵の階段は大理石、築山にはいつも美しい花がきれいに手入れされていた。
没落貴族。その言葉がよくにあう彼女。


アパートに残っていたありとあらゆる高級品はすべて捨てていく。
着物、食器、漆器など、一切持っていかない。
「これ、ほんとに全部捨ててええが?私も持っていかないよ」
「えい。全部いらん。もう十分楽しんだ」

自分が描いてきた絵までもいらないという。
その中でたった一枚だけとりあげた。それは果物が描かれた絵だった。


「美味しいものがいっぱいあるから」

美味しいものが大好きで、それを極めて来た彼女。
その彼女がこれから人が作った料理をいただき生きていく。
ゆいいつもって行く果物の絵の中に、その心の救いがあるのだろうか。


母が描いた油絵




海に面した小高い丘の上に、その施設はあった。
古いけれど、だいじに丁寧に使われている。山の上のロッジのような内装。中庭には花壇もあった。
母の絵は何枚か気に入られて、もらってもらった。
なによりもほっとしたのは、施設で働く人々がとても感じのいい人たちだったことだ。



施設に着いた彼女は毅然としていた。
元貴族の風格は今でもある。まるで武士の妻のごとくその帯に懐刀をしのばせ、いざとなったら死をも怖れぬ覚悟を持った母。
泣き言は一切言わなかった。

施設では2人部屋。

これからどんな生活が待っているのか。
つづく。。。




絵:上/母の日本画(賞を取ったもの)
  下/母の油絵


2019年12月10日火曜日

母の決心

母が描いた日本画/ケイトウ



「今月中に引っ越すことになりました」
高知の一人暮らしの母の支援をしてくれているケアマネさんから11月中頃電話があった。

ついに来たか。。。

母は30年前父と離婚して以来、ずっとアパートで一人暮らしをしていた。
今年3月、父の一周忌で高知にもどったとき、母のケアマネさんから聞いた。
「お母様は施設に行かれる決心をなさいました」

その言葉を聞いたとき、胸にぐっと来るものがあった。
どれだけ彼女のことを考え続けて来ただろう。いつか彼女の面倒を見なければいけない、どうにかしなかればいけないと。。。

ニューヨークで仕事が軌道に乗って来た頃、彼女は仕事をやめていた。それ以来彼女に仕送りをしてきた。帰国後だんだん私の仕事が減っていく。毎月の彼女の仕送りのためにバイトも始めた。じつは離婚した父から法的に彼女への生活費の支給が出来ることも知っていた。しかし父はその後再婚している。最後までその言葉を言い出せなかった。「わたしがなんとかする」と。

しかし実際、わたしにはなんともできなかった。
彼女は9年前にある難病が発見され、からだが徐々に動かなくなっていた。
母をここ高尾に呼ぶか?と考えるたびに心が苦しくなる。
この家に母を迎え入れたのち、どうなっていくのかはたやすく想像できた。彼女の日々の行動へのサポート、およびダンナからのサポート、病院通い、先の見えない現実に心が互いのストレスへと発展して行くさまが見てとれた。やがてうちでは面倒見切れなくなり、母は生まれ育った故郷からほど遠い、どこかの施設に送られていくのだ。
そう思うと、心は踏み切れなかった。



「さいきん高知に帰るときは、いつも悲しいなあ。。。」
真っ暗な海から着陸態勢に入った飛行機の窓から見える高知の小さな明かりが、心をキュンとさせる。
父の入院、手術、遺言、葬式、49日、初盆、一周忌。
そして今、私は母を施設に入れに行く。
初老になってから、大好きな高知に帰る時はいつも悲しさがともなう。
ゆいいつ高校時代の友だちとおいしいものを食べる時だけが救いだ。

高知に帰るときいつも使うホテルがある。母のアパートのすぐ近くにあり、こぎれいで心地よいホテル。最低限のサービスだけど、ベッドは心地よく静かだ。私はこのホテルの部屋でどれだけ泣いただろう。どれだけ考えただろう。時には仕事を持ち込んで、ここでスケッチをしていた。
そんなホテルとも今回でお別れだなあとおもいながらチェックインする。
するとホテルマンにいわれた。
「いつもご利用ありがとうございます。じつは今年いっぱいでこのホテルを閉じます」

あいた口がふさがらなかった。

すべてが消えていく。
そんな言葉が浮かんだ。

つづく。。。かな?




絵:母の日本画「ケイトウ」