2016年12月21日水曜日

つくし紙絵展vol.3 小品展のおしらせ





さくさくと山間の道を歩くと、ステキな風景を足元に発見する。
「昨日は霜がおりたんだな。。」

冷たい地面を保護するかのように、枯れ葉が厚い層になって覆っている。赤や茶色に染まったいろんな形の葉っぱたちが、みんなそろって、白く薄化粧をしていた。

思わずしゃがんで、彼らの顔を見る。
どこに目をやっても、まるで抽象絵画のような風景が広がっていた。



裏高尾の小さな珈琲屋さんで、つくしの紙絵展の第三弾、小品の展示をいたします。

会期中、つくしは毎週日曜の午前中、珈琲を飲んでおります。

美味しい珈琲と、高尾の冬の風景、そして小品展にお越し下さいませ。

期間:2017年1月6日(金)〜30日(月)
東京都八王子市裏高尾町1254
電話:042-661-0798
10時〜17時(最終日16時)
定休日:火・水・木
高尾駅北口『小仏行き』バスに乗り、「裏高尾」下車徒歩1分
(本数が少ないので、時刻表をお確かめください)


今ここにいない



駅前で人の往来を見る。
一人の若い兄ちゃんが、スマホを歩く方向に向けて、にやにやしている。耳にはイヤホン。何か楽しいことでもやっているんかな。

その後ろを、老女が歩いている。キャリーカートを後ろ手に引っ張りながら、うつむきかげんに、誰に話すでもなく口が動いている。

私はそこではっとする。
駅に向かう人、駅から出る人、スーパーに入って行く人、キャッシュコーナーに並ぶ人、歩く人々、すべての人たちの心がそこにはない。
兄ちゃんは、イヤホンでなにかを聞いている。老女は、心の中でだれかと話している。ほかの人々は、口は動かないけれど、心の中でなにかと対話し続けている。

わたしたちは、今、自分がやっていることに感心がないのだ。

『私は今、歩いている。
ただ歩いていることにだけに意識を向けるほどバカなことはない。こうしているあいだにも何か「建設的」なことを考えるべきだ。
そうだ。あれはどうしよう。あれはどうやったら解決するだろう』
などと考えているのかも知れない。

賢者は「今ここ」に意識を向けろと言い続けている。
今、ここ?
そういわれても、なんか漠然としてて、つかみどころがない。
すると心は、みょうに居心地が悪くなって、自動的に何か他に掴むことが出来るものを探して、うろうろしはじめる。

あった。みつけた。あれだ。そうだ、あれを考えなくちゃ。
そういってまた考えはじめる。
心は今ここから、するりとすりぬけて、未来におもいをはせる。
『あれをやらなくちゃ』

兄ちゃんは、今歩くことが退屈で、スマホで遊んでいたのかも知れない。老女は、ただ歩くことはどうでも良くて、何か問題に向かって文句を言っていたのかも知れない。
人はただいることは退屈で、スマホで今をやりすごしているのかもしれない。
ただ夜を過ごすのは退屈で、テレビのチャンネルをカチャカチャ変えているのかも知れない。

無意識にやっていることに気がつくと、心はせわしなくなにかにすがりつこうとしている自分に気がつく。あたまの中が、どれだけ考えに満ちているかに気がつくと、あまりの量に呆然とする。

なにかを考え出せれば、きっとしあわせがやって来る。そう思って、人は考え続ける。


どうもそこには答えがないらしい。

絵:「冬の景色」

2016年12月15日木曜日

盲目的な旅


私たちは、しあわせになる条件を探している。

うまい珈琲を飲んでいるからしあわせ。
ケーキ食ってるからしあわせ。

「~だから、しあわせ」という条件つけ。

未来のためのしあわせの条件つけもある。

「~になれたら、しあわせ」
素敵なおうちに住めたら、しあわせ。
医者になれたら、しあわせ。
お金が入ったら、しあわせ。


わたしたちはなんでかしらんが、無条件でしあわせには、なれないようである。

イヤイヤ。なんにもしないしあわせもあるではないか。
仕事におわれることもなく、なーんにもしない1日がしあわせ。
でも、それも3日たち1週間たちすれば、何だか不安になって来る。
やばい。こんなにのんびりしているばあいじゃないぞ。なんかしなければ。と、なにかしないではいられなくなる。
実際3日どころではない。1日だって、そのうちなにもしない時間をもてあますはずだ。

私たちは、一瞬しあわせが満たされるとそれに飽きてしまい、次のしあわせを求めはじめる。
たとえうまかろうと、珈琲を何十杯も飲み続けられないし、ケーキも何十個も食べ続けられない。事実それをやれと言われた瞬間、しあわせは拷問になる。はれて医者になれてもそこからが苦しさの連続だし、素敵なおうちは1ヶ月ぐらいで、住んでいるのがふつーになる。

こりゃいったいなんなんだあー。




私たちの心。。。いつもなにかを探しているその心なのだ。
不足感。
これではない、なにか。ここではない、どこか。

『これで満足してはいけない。これで満足してはおしまいだ。人生もっとやれることがある。そうでなければ、お前の人生は路頭に迷うことになるであろう~~~。』
と言う、神のお告げを聞き続けている。

私たちは、自分の心の中で聞こえる声を「自分がいってる」とおもっている。そしてその声は自分の味方だと信じている。しかしよくよくその声の内容を聞いてみると、ある種のパターンに気がつくだろう。
せかす。焦らせる。不安にさせる。脅す。

味方だと思っているから、自分によいことを言ってくれるはずだ。だから焦らせるのは、私のために焦らせてくれるんだ。。。そう思って、あたまの中に聞こえる神のお告げのままに行動し、私たちは、しあわせになるための条件を探し求めて旅をする。
これははたしていつか満たされるのか?

あたまの中の言葉は、いつもそれではダメだ。あれでもダメだ。と言い続けている。
その声は、口うるさい小姑のようであり、こましゃくれた訳知り顔の少女のようであり、もったいぶったくそ坊主のようでもある。

そのことに気づくところから、旅はくるっと方向転換をする。あてのない旅、満たされることのない旅に気づき、元来た方向に帰っていく。
本当は私たちは、何の条件もつけないまま、しあわせそのもののようなのだ。
もともとしあわせそのものだった。

苦悩は、その声にふりまわされているから。

自分の中の声に気づいたかい?
その言葉の内容に、脅しは入ってないかい?
「あなたのためだから。。」というニュアンスはないかい?
そしてその言葉に、あなたはどこかおびえていないかい?
聞こえたとたん、身体がぎゅっと固まらないかい?
それはあなたの味方ではない。

それが聞こえたなら、ただ聞いている。
聞こえるまま、そっとしておこう。
それにあわせて、あわてて行動するのをぐっとこらえてみよう。
その声が、行き過ぎるのをただみていよう。

そんなちいさなことから、盲目的な旅はスピードを落としはじめる。


絵:ミステリーベーパーバック表紙イラスト&カットイラスト

2016年12月14日水曜日

いつか症候群


「いつかわたしも○○になれたら、しあわせになれる」

そう思い続けている人にあった。
だが彼女の現実はまったくそれとは違う場所にいた。
物質的にも精神的にも、その夢とはほど遠い場所にいた。気の毒にさえ思えた。
だがそう思い続けることによって、現実の自分をなぐさめていたのだ。こんな場所にいる私ではない。本当は特別な才能を持った私なのだ。。。。と。

そのとき、はっとした。
これはわたしではないのか。
いつか○○になったら、私はしあわせになれると、おもっているではないか。。。

人はしあわせになるために条件を付ける。
いつかCDをだせたら、ミュージシャンになれてしあわせになれる。
いつか本を出版したら、作家になれてしあわせになれる。
いつか大金持ちになれたら、わたしはしあわせになれる。
いつか個展を開けたら、私は画家になってしあわせになれる。
いつか挿絵が雑誌に載れば、私はイラストレーターになってしあわせになれる。

さて。現実はどうだろうか。
ちっともしあわせじゃなーい!

どうも私たちは、アレにヤラレている。
おとぎ話症候群(そんなもんあったっけ?)。
「いろいろ苦難がありましたが、最後には王子様と結ばれて、ずーっとしあわせに暮らしましたとさ。おしまい」の、お決まりのパターンだ。
そうなれたら、永遠に安定する幸せが待っていると、そう小さい時にカッキーンとインプットされた。

だがきっと、そのおとぎ話にはつづきがあるはず。
王子様とは性格の不一致で、いつもケンカばかり。その上姑が最悪。ほどなくして城内別居が始まりました。3人の子供も不登校になり、家族みんな、それぞれの部屋でひきこもりましたとさ。おしまい。(いやいや。おしまいじゃないって。)

と、このよーに、物語は、えんえんと続いていくのだ。
終わりなど、ないのだ。
ミュージシャンになれておしまいでもなければ、作家になれておしまいでもない。
大金持ちは大金持ちの苦悩があり、ミュージシャンや作家や画家には、売れるか売れないかの苦悩があり、イラストレーターには仕事が来るか来ないかの苦悩がありつづける。


冒頭の彼女は、ある意味幸せなのかもしれない。
なぜなら、それになれたときの苦労をしらないからだ。永遠に夢を見続け、自分を特別視しつづけ、もしそうなったときの、自分の実力を知らされることもない。

イヤ、待てよ。
本当はその実力を知りたくないがゆえに、ひたすら「いつかそうなれたら。。」という立ち場に立ち続け、本気でそうなることを本当は望んでないのだとしたら。。。

人はなんと狡猾なのだ。

私もまた、そうであることに気がつき、がくぜんとする。


絵:ラブロマンスペーパーバック表紙イラスト

2016年12月13日火曜日

「かゆい」というたびに。。。


夜中に背中がかゆくて目が覚める。
かこうにも手が届かないビミョーな位置。

そこで実験開始。
その身体に感じるかんじを、ただ感じてみる。
「どんなかんじ?」
「かゆい。。。」
という言葉が出て来ると、とたんにかゆくなる。

だが、今自分の身体に感じているもの、ぴりぴりしたかんじ、なにかおもたいかんじ、そこに何かが存在している感じ、など、そのものを味わっていると、「かゆさ」とは違うなにかの反応が起こっているのに気づく。
それだけを見ると、かゆさなんかどこにもないのがわかる。

だが、またあたまの中に「かゆい」というフレーズが出てきたとたん、かゆさが現れるのだ。

これはいったいなんなんだ?

だから私は、今じーっと背中に起こっているできごとにだけ触れ続けた。

気がついたら朝になっていた。


言葉は、現象をクローズアップしてしまうようだ。

あのころはよかった。。。(?)


あのころはよかったなあ。。。
と、ふとおもう。

おい。まてよ。
その「あのころ」の自分はどうだった?

幸せとか、よかったなどとは思ってもなくて、
「ああ、あのころはよかったなあ。。」
などと、その前の過去の自分を振り返っていたではないか。

今考える「あのころ」の自分は、今とちっとも変わりなく、今をなげいて、過去をしのんでいたのだ。

と、ゆーことは、ひとはひたすら、
「あのころはよかったなあ。。」
をつづけているのだ。

いつになったら、
「今がよいなあ~」になれるのか。

ってか、今そうおもえばいいのかいな。

(ムリヤリか?)

2016年12月7日水曜日

青菜の炒め物


 畑からとってきたアブラナ科の雑草、玄関にほっといたら、葉っぱが黄色くなって枯れてきた。

でもあいつらはしぶとい。
一番外の黄色い葉っぱを取り除くと、しっかりげんき。


しかも真ん中から、新たな葉っぱも続々と顔を出す。


根っこなんかなくったって、水なんかなくったって、へーきなのさ。何しか、肥料なしの自力で育った荒くれもんだもん。

こいつらは、むかしよくNYのチャイナタウンで食った「青菜の炒めもの」にすると、うめーんだ。

しかしよー。
青菜ばっかりで、そろそろあきた。

キュウリが食いたいw

2016年12月1日木曜日

私は私の側につく


小さい頃、両親と道を歩くと、すこしめんどうなことになった。

ふたりの歩く速度がちがうために、歩いていくうちにふたりの距離はどんどん開いていく。
幼い私は、父についていったり、あとからくる母の元に走っていったり、また父のもとに走ったり、母を待ったり、行ったり来たりしながら歩いた。
二人は決して、お互いのスピードに合わせようとはしなかった。

ふたりの考え方もまたちがった。
私はどっちの意見にも納得できたがゆえに、どっち側につけばいいのかわからなかった。

大人になって、ダンナとだれかに意見がちがうことに悩まされた。
どっちの意見も納得できたがゆえに、どっち側につけばいいのか、これもまたわからなくなった。

でも、このごろやっとおもう。
どっちにもつかなくていいや。
私は私の側につく。

たったそれだけでよかったんだと。

2016年11月30日水曜日

猫走る



畑に寝そべる。

立っていると肌に冷たい晩秋の風が、そよ風に変わった。
ほお、地面すれすれの植物さんたちは、こんなふうに風を感じているのか。
青く澄んだ空に、カラカラに乾いた大きな葛の葉がヒラヒラ3枚踊っていた。

今度はうつぶせになってみる。
雑草と化したパクチーが顔全部を覆った。
独特の匂いを嗅ぎながら、
しばしアジアンな瞑想(迷走か?)の世界へ。



畑に寝そべるのにもあきて、起き上がって缶コーヒーを飲んでいると、畑に猫がいるのに気がついた。

何やら口をモゴモゴさせながら、こっちに向かって歩いてくる。
やまんばは、じっと動かず様子を見る。

猫はふと顔をあげて、こちらのにおいを嗅いでいる。
「ん?これは人間のにおいだ。。。あん?かいだことのないにおいもするぞ。。。」

じーっとこちらを見る猫。
「人間のカタチをしているが、うごかんぞ」

警戒しながらもゆっくりこっちに歩いてくる。
数歩歩いては、立ち止まりにおいをかぐ。また歩いてはにおいを嗅ぐ。
そしてついに目が合った。
人間のカタチをした物体はぴくりとも動かない。

猫は身体の向きをゆっくり45度斜め前方に変え、フェンスの方に歩く。またしても時々立ち止まってこっちを見る。フェンスの向こう側に抜けても、まだこちらの様子を伺う。

真正面から、フェンス越しに互いの目が合った。じっと動かない物体ふたつ。緊張が続く。猫はゆっくりと歩きはじめた。
急に人間の鼻がもぞもぞし、思わずくしゃみをする。

「ヘーーーックション!」

その瞬間、猫は一気にアクセルをふんだ。
びゅう~~ん!

「ものすごいはやさだなあ。。。」

人間は缶コーヒーを飲みながらつぶやいた。


2016年11月29日火曜日

心は病気。。かもな。


「心は病気」という本を読んだ。
その中で、心は自分が一番偉いと思っていると書いてあった。

ウソだろー。
わたしゃ、エライなんてこれっぽっちも思ってないぜー。と、読みながらツッコミを入れる。

夜、ダンナとケンカになる。
相変わらず、痛い所を指摘してくるヤツだ。
心が炎のように燃え上がる。
バッキャロー!自分をなに様だと思っていやがるんだ!
もんもんとしながら床につく。

朝、もんもんは消えていた。
昨晩の事を思いだす。

あれ?。。。
ひょっとしたら私は「自分が一番エライ」と思っているから、腹立ったんじゃねえか?
そのエライヤツに向かって、意見を言うフトドキモノに、腹立ったんじゃねえか?

「この将軍様にたてつくヤツはだれだああーーっ!」って(笑)。

いやいや。そんなこたあない。
私ぐらいひ弱で、何の力もなくて、まちがいばかりを犯して、アホなことばっかりして、エライなーんて、これっぽっちも思わねえ、ミジンコのよーな、ちっけえちっけえケンキョな存在でござんすよ。へえ。

とかいいながら、昨日のことを思いだすたび、やっぱりこのやろーっ!っと、燃え上がる。
私はまちがってない!ぜーったいまちがってないんだもん!私はまちがっていないとしたら、あんたのほーがまちがってる!と、思いっきりエアー演説ぶちかます。

自分はまちがいを犯すアホなヤツ。。。っていってるそばから、まちがってない!って、言い張ってるこの大矛盾。

これ、ケンキョ?
ケンキョなフリしたゴーマン野郎?

ふむ。
やっぱりじつは隠れてこそこそと、
人にもわからないよーに、
ほんでもって、自分にもわからないよーに、
「この世で一番自分がエライ」とおもっているよーだ。。。orz

やっぱ、心は病気っぽいなあ。。。
きっと、私だけにちがいない。


絵:shadow/ミステリマガジン扉イラスト

2016年11月27日日曜日

絶対的な法則はあるのか。


先日、ある機械の故障で、ある種類の商品がまったく作れなくなった。それは売り上げの主要なもの。
今日の売り上げは半減するだろう。。。そうおもわれていた。
しかしふたを開けてみれば、半減どころかその月の売り上げトップになっちゃった。

従業員は首を傾げる。
商品が少なかったから売れたのか?
それとも雪の日の次の日だったからか?
いろんな憶測が飛び交う。

まったく理屈に合わない現象がおこっていた。

何かの理由にもとづいて、売れたり売れなかったりする。。。わけじゃないのかもしれない。私たちの思考でわかるもんじゃないのかもしれない。。。
と、常々思いはじめる今日この頃。

何か、まだ知られていない決定的な法則があって、その法則さえ掴めば、お金持ちになれる。その法則さえ掴めば、成功者になれる。
人の心は、どこかでその法則があってくれればと願う。

その思いの元は、安心を求める心。
あれがありさえすれば大丈夫。
あれさえあれば、安心。
専門家に聞けば大丈夫。
そうやって、あっちの専門家、こっちのプロフェッショナルを渡り歩く。

そやけど、もしそういう絶対的な法則があるのなら、この世の中はお金持ちだらけだし、成功者だらけなはずやん。けど現実は。。。。?

ヒマなやまんばなら、そういう絶対的な法則を必ずみつけだせるに違いない。時間が有り余ってるんだもの。。。。。


けど。
残念ながら、そんなものない。
そうおもう。

なにもしようがない。
そうおもう。

だけど、その、なにもしようのなさが、なんともいえず、開放感を与えてくれる。

もし何かの法則があるのなら、それを使えない私はまだ未熟だ、という無意識の焦燥感を生む。
けど、そんなものはないのだ、というアイディアは、その焦燥感を取り除く。


畑で、どんなにがんばったって、出来るときは出来たし、出来ないときは出来ない。
仕事でどんなにがんばったって、うまくいくものはいくし、うまくいかないものはいかない。


これは言い訳だろうか。

うん。言い訳だよ。
もっとがんばらなきゃいけないのさ。
今、うまくいかないのは、あんたの努力が足りないのさ。
自我はそういつも私に言ってくる。


じゃあ、冒頭の出来事は、なんだったんだろう?

私になにをおしえようとしてるのだろう?






2016年11月23日水曜日

自由農法?



秋の畑。
夏草が次々に枯れ、代わりに冬草が地面をおおいはじめる。


夏のあいだ、草たちは我先にと空へ空へと伸びて、地面に影を作る。強烈な太陽をさえぎり、地面はしっとりと濡れている。かれらは土に適度な湿り気を与え、微生物や虫たちにすみかを与える。

秋、その仕事をおえた夏草たちは枯れ、今度は冬草たちが地面をおおいはじめる。

夏とはちがい、かれらは空へ空へとは伸びずロゼッタ状に広がり、土を覆い隠す。緩やかな太陽の光と熱を葉の中に蓄え、その熱を土に伝える。冷たい北風が吹く頃、地面に低くはえ広がった草たちにおおわれて、畑の土は暖められる。



メヒシバなどが地面をおおいつくす。


畑8年目の冬がやって来る。
何度もくりかえされてきた草たちの仕事。あきらかに、土は肥えてきている。

冬草におおわれた地面に、長靴と靴下を脱いで、そっとつけた。
手袋もはずして、素足のそばに手もつける。
なんとも言えない安堵感が、からだ全体に広がる。

自然農法、自然農、自然栽培、炭素循環農法。。。
いろんな農法がある。
わたしはいろいろためしてみたけれど、
そのどれでもない。
どこにも行き着かない農法。
どこにも答えがない。
ただ現れては消えていく畑の生き物たち。

それをただ見ているだけの私。ただ見させられているだけだった私。
常識や、こうあるべき。そういうものから離れていく。
どうやっても、どんなに力もうと、かれらは、かれらのペースで生きる。
過ぎてみれば、それにゆだねることでしかなかった。
今思えば、それがどんなに心を自由にしてくれることだったか。

自由農法。。。
そう呼んでみようか(笑)。

芽吹きはじめたスナップエンドウ。
これから寒い冬を乗り越えて、春に私たちを楽しませてくれる。



2016年11月20日日曜日

つくし流麦道

ゆっくりと左手で缶ビール350mlを持ち、
やさしく右手の人差し指のつめでプルトップを引っ掛ける。
そのまま指先をすきまにすべらせ、
プルトップをぐっとおこし、
ぷしゅーっと缶ビールを開ける。

今度はそれを右手に持ち替えて、左手でワイングラスを持つ。
グラスの口元に、缶ビールの口元をかちんとあわせ、
ゆっくりとかたむける。
あふれてくる泡を押え気味に、
とぽとぽと、麦汁をグラスに注ぐ。

窓から見える高尾山にむかって、一瞬麦汁をかかげ、
ぐっと一息に飲み干す。


これ、つくし流茶道の所作なり。
もとい。
つくし流麦道の所作なり。

サントリー様。
結構な御点前で。

2016年11月13日日曜日

忘れていたものは感覚。



小さな気づきが起こる。

また、ひとつ。

ほんのかすかに、またひとつ。。。

そうやって、気づきが起こっていく。

内側で起こることは、ほんとにささいなこと。
だけどその気づきは、かすかだけど、安堵感や、小さな解放をもたらす。
そのことが、どんなに重荷を降ろしていくことか。

ああ、、、こんなことで不安になってたんだ。
ああ、、、この言葉が私を締め付けていたんだ。


目に見える、物質的に形を持った外の世界は、強烈に私たちに影響を与える。
景色、人、テレビの中、パソコンのモニターの中。
その映像を見ては、一喜一憂する私たち。

でもその一喜一憂は、どこで起こっているのか。
この、心の中。あたまの中。

だから、
私はその騒ぐ心の中、あたまの中を、観る。
ただ観る。

「ああ、こんな感情じゃいけない!」
「こんな考えをもったらいけない!」
そういう否定的な感情が起こっても、
それさえもただ観る。

今、どんなきもち?
今、どんな感情?

自分に問うてみる。
その感情とともにいる。
感情が起こるとき、身体が反応している。

ぎゅっとなるような、
がちっと固まるような、
胸の辺りがもやもやするような。。。
その感覚にだけ寄り添う。

頭で考えることには寄り添わない。
考えは、答えを出そうとする。
だけどその答えは、きっとまた、ぎゅっと心を締め付けるような、答えがやってくるだけだ。
私たちはそれをずっと繰り返してきた。

考えるよりも、もっと手前の、
感覚の中に意識を向ける。

外の刺激的な世界よりもっと手前の、
考えることよりもっと手前。

忘れていたものは、
自分自身の感覚。

指先に触れるパソコンのキーボード、目に映るモニターの画面、電車の音、かすかな石油ストーブの匂い、足の寒さ、舌に残る珈琲の味、体全体に感じるなにか。

そしてあたまの中を行き交ういろんな言葉、いろんな感情。。。
これもまた感覚。
そういうすべての感覚。

その感覚の中に、しずかにいてみよう。

その時、心はいまここにいる。


絵:「スギ林」/和紙、洋紙、水彩、クレヨン

2016年11月12日土曜日

そんなもん、あったっけ?


うまいサトイモを食っても消えていく。
うまい麦汁を飲んでも消えていく。
お金が入っても消えていく。
寝ていても目が覚める。
若いつもりでも老けていく。
安定した生活は長くは続かない。

しかし、
まずい料理も消えていく。
まずいぶどう汁も消えていく。
風邪も消えていく。
しんどいことも消えていく。
花粉症も夏になると消えていく。
貧乏がとまらないこともない。
金持ちがとまらないこともない。

ぜんぶが、現れては消えていく。

草も、野菜も、雲も、風も、光も、闇も。
怒りも、哀しみも、やったーっ!って気持ちも、
全部、みごとに、現れては消えていく。

なのに、人々は安定を求める。
「どこかに絶対的に安心できる法則があるに違いない。」
と、ずーっと求め続ける。

安定した収入、
安定した仕事、
安定した人間関係、
安定した健康状態、
安定した心、
安定した気候、
安定した国、
安定した政治、
安定した経済。。。

そんなもん、あったっけ?

ひょっとしたら、そんなもん、ないんじゃないか、はじめっから。
ないものを探し求めるから、苦しかったんじゃないか。

だからお釈迦さんは「人生は苦である」って、いったんじゃないか。

じぶんの人生振り返ってもそうやった。
ずっと同じことが続くことってなかった。
すべてが変化しつづけたし、今も変化し続けている。

ずっと変わらなかったのは、
この心の中の
「どこかに安心できる、安定した法則があるに違いない」
と、求め続けていた心だったんじゃないか。

その考えにしがみついていたのかも知れない。
不安だから。

その「安定したい願望」が、こころにあらわれたとき、
そこには不安な感情がある。
その感情を消そうとはせず、
ただその思いや感情とともにいよう。

それもやがて消える。


絵:「とらのお」/和紙、洋紙、水彩

2016年11月10日木曜日

まさかの展開



今年4月に制作した表紙のイラスト。

まさかこんな展開になるとは。

ある人が数ヶ月前に
「彼が今度のアメリカの大統領~w」
って、予言してたが、ほんとにそうなっちまった。

果たして、この本のタイトルのように、
アメリカは崩壊するのか?


そーなったら、今もアメリカの仕事もやってるし、こっ、、こまるなあ。。

絵:表紙イラスト/ドナルドトランプ

2016年11月6日日曜日

ウチの雑草、アブラナ科。


ウチの雑草は、アブラナ科の植物です。

アブラナ科の植物、白菜、小松菜、水菜、壬生菜、タアサイ、チンゲンサイ、、などなどを畑に植え、花が咲くまで置いておくと、春先になると菜の花が咲く。

これをゆでてたべると、甘くて甘くて、まーおいしいこと、おいしいことといったら、ほっぺたが落ちるぐらい。

これもまたそのままほったらかしにしておくと、アブラナ科の植物は、子孫を大らかに繁栄させ、種をつける。

夏野菜を植えつめるために、種を付けた彼らを根絶やしにし、畑のあっちゃこっちゃに山積みにする。

すると秋になると、その山積みからこぼれ種が、勝手にわらわらと芽を出しはじめる。
アブラナ科はいとも簡単に交配する。
一カ所から、ありとあらゆる形の葉っぱの植物たちが生えてくるのだ。

今日もやまんばは、スーパーの、スーパー高い野菜には手がつけられず、畑で勝手にはえてきた雑草アブラナ科の野菜(雑草?)を収穫する。

小松菜のよーで、小松菜でない葉っぱ、
水菜のよーで、水菜でない太い葉っぱ、
タアサイのよーで、タアサイでない葉っぱ、

など、奇怪な形の葉っぱたちをゆでて、マヨネーズで食べる。

これがよー、めーっちゃうまいんじゃ。


2016年10月27日木曜日

羽毛布団は、今夜までに乾いてくれるのだろうか。。?

 
ふとおもいついて、羽毛布団を大型コインランドリーにて洗いに走った。

1時後、ほわんほわんに膨らんだ羽毛布団に仕上がっているはずと、とりだした布団は、ぺっちゃんこ。。。

「イっ、、、イメージと、ちがーーーうっ!」

たまたまガス屋のおじさんが、ここのランドリーのガスの修理に来ていた所を、
「1時間だけやらせて~」
と、ムリヤリ押し込んだのだ。
これ以上ガス屋のおじさんを待たせるわけにもいかない。

「お、おじさん、、
も、もうちょっと乾燥機にかけたい。。。」
と、口に出そうになったが、ぐっとこらえて、
ペッチャンコな羽毛布団を持ってかえって、
しぶしぶベランダに干す。

20センチ四方の仕切りの中で、すみっこに固まって片寄りまくった羽毛を、しゅくしゅくと、ほぐほぐと、ほぐす作業を地味~~にやった。


西から雲が出始めた。
かっ、、、、乾いてくれるんだろーか、今夜までに。。。。

2016年10月17日月曜日

畑でもらうもの




先日のつづき。

畑で草を刈っていると、いろんな思いがよぎる。
さっきまで考えていたこと、昨日の出来事、ふいによみがえるちょっと前に感じたこと。
かと思えば、何十年も前に聴いた音楽のフレーズ。。。

あたまの中は、絶えずそういう考えや、音に埋め尽くされているのがわかる。
こう言うものは、風のようにやって来る。

目の前には、茶色い土、枯れかけて倒れはじめているメヒシバの根元、赤いゴミ手袋をはめた両手。右手にのこぎりガマ、左にはメヒシバをつかむ手。
見ていると、両手はせっせ、せっせと、草を刈り、草を抜いている。
しかし頭は、ここにない。

今しがた、風のように入ってきた言葉に囚われて、その言葉を追いかけ続ける。

あのとき、なんでああしたんだろう。
なんであんな言われかたをされなきゃいけないんだ。
だいたいわたしはどうしていつもああなんだ。
なんであいつはああなんだ。
今度はこう言ってやろう。
「それはね。。。。。。。。。」

そうやって、頭がエアー演説をしている。
まるで金八先生が教壇に立って、素晴らしいスピーチをし、みんなが納得し、
「さすがや!やっぱ、言うことが違うなあ~」
と、みんなを丸く納める姿。。。。

頭がそういう風に、
どんどん空想の世界に入ってるのに、はっときづく。

「また思考の中に巻き込まれている。。。。」

それは同じ所をぐるぐる回るだけの、きりのない思考の世界。
それに気づくと、今度はこうやってみる。

目の前にあるモノとはまったく違う所に心があるのを、ただ、ながめる。
おしゃべりをする「音」に、耳を傾ける。

するとあたまの中の「音」は、次第に消えはじめる。

「。。。。。」

そして、
ふと、気づきが起こる。

「ああ、、、私には、こう言う観念があったんだ。。。。」

あるときは、
「ああ、あの人は、こういうおもいがあったんだ。。。」

あるときは、
「ああ、これがこの思考の仕組みだったのか。。。。」


そのときわきおこる気づきは、さっきまでのトーンとはまるでちがう、
今まで考えもしなかった言葉や、こと。

それは開かれて、ゆるやかに、はればれとした、雰囲気を持っている。

頭で導き出した答えは、どこか窮屈で、ぎゅっと萎縮する感じがする。
それはどこまでいっても、おなじ。

しかし、何の感情も交えずに、起こっているものを見るだけになると、
あるときふいに、それはやって来る。

それは自分で考え出したものじゃない。
今まで思いもつかなかったこと。
それが心に入ってきたとき、今までとは違う空気感になる。
そのちがいが、はっきりとわかる。
今までぐずぐず考えていたことが、完全にほどけている。
心はぱあ~っと、開かれて行く。


私は立ち上がって、高尾の山並みを見る。
夕暮れの赤い陽射しが、山並みを染める。
自分が消えていく。


やまんばは、畑で野菜をもらう。
でもここは野菜だけじゃない、もっとおおきなものをもらう。



絵:「里山の秋」


2016年10月15日土曜日

野菜は勝手に育つ、とゆー農法(笑)


私は畑で、なにしてるかっちゅーと、
草を刈ってるか、草を抜いてるだけやな、って気がつく。

それから土がむき出しになった所をちょこっとスコップでほっくりかえし、平らにし、そこに種を蒔く。
それだけ。

あとは彼らが勝手に芽を出し、勝手に大きくなって行くのを、たまにちらっと横目で見て、気が向いたら、間引きをし、気が向かなかったら、間引きもしないでほっぽっとく。
あるいは、店で苗を買ってきて、それをつっこみ、そのまんま。

今年は、キュウリとシシトウのあいだに、こぼれ種のゴーヤが勝手に育ってきたから、てきとーに支柱を作っといたら、そこから、四方八方にツルを伸ばし、キュウリの上におおいかぶさり、シシトウの上におおいかぶさり、さらに陣地を広げ、八頭の葉っぱにまで到達した。
そのあいだに、草はぼうぼうはえ、その草にまでゴーヤのツルは絡み付く始末。

「え~~~。。。。草、刈れないじゃん。もーええわ。ほっぽっとこ。」

そのままほったらかしておいたら、キュウリ、ゴーヤ、シシトウ、ピーマン、八頭、メヒシバ(草)、あかまんま(草)たちは、共存共栄し、キュウリのあいだにゴーヤはみのり、ビーマンの枝にゴーヤがぶら下がっていた。
しかもいつになく結構な収穫(苦笑)。
(写真は、シシトウとゴーヤの葉っぱ)

「。。。。。」
どゆこと!?

一事が万事、こんなかんじ。

「雑草は取り除きましょう」
「肥料と追肥は忘れずに」
「しっかりと耕しましょう」
「お日様が入るように、苗の間は空けましょう」
の、家庭菜園さいてールールはここでは通用しない。
彼らは、好き勝手に育って行く。

ほんとに、なんにもしてない。

だから「私、野菜育ててマス!」
って、おこがましくって、言えねえ、言えねえ。。。。
「野菜、勝手に育ってマスっ!」
って、言うしかねえし。

こんなぐうたらなやまんばでも、
野菜は勝手に育ってくれているのだ。

ダイコンは、先日葉っぱを根こそぎ、だれか(虫じゃなくて、鳥かたぬきどん)に食われちまったし、
枝豆も、みごとに全部、おサルどんに食われちまった。。。

でも!
そんなこたあ、どーでもええのだ。

それよりももっといいものを、この畑でもらっているのだ。

つづく。



絵:「フキ」/和紙、洋紙、水彩、クレヨン


2016年10月14日金曜日

すこしだけ、かいまみせてもらった


お風呂につかってぽかんとする。
白い天井、白い壁、少しカビが生えたすみっこ。
浴槽のふちにあたまをのっけて、
首から下が、じーんとあたたかくて、
しろい湯気が、ほほの上でたわむれる。

「これ、しかないんだなあ。。。」

あたまの中は、さっきまでの出来事を追いかけようとする。
けれども今は、それがなんだか、
100mとおくのほうにいる。

さっきまでの出来事、思い、いろんな感情、
そんなものが、すっぽりぬけおちて、
ただ今、ここにある風景。
お風呂の風景、暖かさ、電車の音、湯気の香り、
それだけがここにあった。

この世には2つの次元がある。

目の前に展開する現象、
そして、
あたまの中でアレコレ考え、騒ぐ世界。

私たちは、あたまの中で騒ぐ世界に、
心のほとんどを占領されて、
右往左往する。
目の前にあるものを、
あるがまま、そのままみることがほとんどない。

非二元は、そんなふうに言う。

頭ではそれを知っている。
だが、それがどう言うことか、
身をもってわからなかった。

でも、今、
ただ見ている風景にしか、心はなかった。
心は、ぽかんとし、
しずけさがあった。


すこしだけ、それをかいまみせてもらった。

2016年10月12日水曜日

ジョロキア



さっき、近所の畑のおじさんに、
「これ、いる?」と、声を掛けられた。

「あ!それ!何?前から、ピーマンでも、シシトウでもなさそーな野菜、何かなーっ?っておもってたんだ~」
おじさん、にんまりしながら、
「からいの、好き?」という。
「うん、まあまあ。。(う、からいんか。。。)」
「じゃ、もってって!」

おじさんはピーマンらしき苗を、根元から切り落とし、
「はい!」とくれる。
「え~~っ?こんなに?いいのー?」
「もう、全部捨てるからいらないから、もってって!」

半ば押し付けられたよーなかんじで、赤や黄色やグリーンの、ピーマンのよーなシシトウのよーなものがぶら下がった枝をうけとった。

「あ、これ、その野菜の名前ね」
別れぎわ、苗についていたタグを受け取る。

歩きながら、タグの名前を読む。
「ジョ、、、ジョロキア、、、?」


帰り着いてネットで調べる。
「ジョロキア。ハバロネの10倍の辛さ。世界一からい唐辛子と言われる」

はっ、、はあ~~~~~っ?

「もはや、対人兵器。ひとくち口に入れて、救急車を呼んだ人物もいる」

おいおいおいおいおいおいおいおいっ!!!!

ギリシャのレストランで、とんでもない辛さのピーマンを口に入れて、そのあと七転八倒したことを思いだした。

ハバロネの10倍~~~っ???
こりゃ、とんでもないものをもらっちまっただよ~~~~。

どーすべ?

2016年10月3日月曜日

かぐわしいトイレの芳香剤の香り。。。。



キンモクセイがあたり一面、あまい匂いで世界を埋め尽くす。

やまんばは、鼻の穴をおっぴろげて、これでもかーってぐらい、嗅ぎまくります。

すると一緒に歩いていた友だちが、
「あ、これトイレの芳香剤の匂いや」
と、のたまいやがる!

「ちゃう!キンモクセイのカグワしい香りや!」
「え~~~、エステーの芳香剤の香りにしかおもえない」
「アホかーっ!これはほんまもんや。あっちはニセもんの匂いや!」
と、道ばたでケンカする。
しかしだんだんトイレのイメージがふくらんでくる。。。

89歩あるいた時、
「うん。やっぱりこれはエステーの匂いや」
と、納得する。


ピヨピヨ

(ちゃうやろーーっ!)

2016年10月1日土曜日

産道を通る夢



夢を見た。

機械なのか、人なのか、生き物なのかわからない存在が、わたしの額に手を当てて、「お前の中のものよ、現れろ」みたいなことを言った。

灰色の泥の中に、人の頭のような物が現れて、それがどろどろと溶け出し、骸骨のようなものが現れたかと思うと、それも溶け出し、その中から、わけの分らんものが現れては溶け出し、そしてまた何かが現れては溶け出し。。。をみていると、自分が母親の胎内にいるのに気がついた。

声が聞こえる。あ、父と母の声だ。。。
真っ暗な生暖かい中でふたりの声を聞いていた。
と、突然、身体がある一方方向に引っ張られて行く。
あ、ここからでようとしている。。。
頭がぎゅーっとどこか狭いところに入って行く。。。
うわーっ、くるしい。。。!頭が、伸びて行く。。。!
息ができなくなくなって、ちょっと向きを変えると、隙間があって、そこで息をする。でももっとぎゅうぎゅうに押し込められて、息ができなくなる。
くっくるしい、死んじゃうーーーっ!
声、母の声、看護婦さんの声?
自分のまわりの壁が、つるんとしてて、生暖かい。でもくるしい。。。
もうすぐ抜ける。。。きっと明るい所だろう、とふむ。
しかし出た先は、灰色の石がゴロゴロしたような風景しか見えなかった。

そこで目が覚める。

はーっ。何ちゅー夢を見たんだ。
おきてぼーぜんとする。

じっさい、わたしはかなりな難産だったらしい。
出てきたときは、長ーい頭。ほとんど死産にちかかったそうな。
医者は、わたしのからだを逆さに持って、背中を強くばんばんたたいた。
しばらくのち、息をしたらしく、その最初の産声は「おぎゃあ」ではなく、病院中に響きわたるような大声、「わあーーーーーーーっ!」だったそうな。

考えたら、産道を通るあいだは、まだ肺呼吸してないわけだから、息ができないわけないけど。。。。?
夢じゃから、いーかげんなもんだw

しかし、産道の、ヌメッとした、ぬるっとした、つるっとした、なんともいえない触感は、妙にリアルだったし、あの狭い空間を自分が通って行く感覚もはっきりかんじた。出る!出る!ってなかんじw

それにしても、そういう自分をその中だけでなく、どこからかそれを客観的に見ている視点がそこにはあった。

泥の中に形態を変えて行く姿も、ひょっとしたら体内で、は虫類、魚類、哺乳類へと変化する過程だったかも知れない。

今もほほに、まだ母の産道の感覚が残っている。

絵:「クモマツチョウ」/洋紙、和紙、水彩

2016年9月30日金曜日

「何となく。。そうなってた。。」



登りつめた人が言う。
「なんとなく、そうなってたんだよね。。。」

他の成功者たちにも聞いたんだそう。
どうやってそこまで?って。

するとみんな、
「何となく」とか「気がついたら。。。」
というそうな。

仕事が入る、絵が売れる。。。
がんばって仕事をゲットしたわけじゃない、がんばって絵を売りに行ったわけじゃない。
気がついたら、絵が売れていたし、仕事も入っていた。。。

振り返ると、わたしの人生はそんな感じだった。
その時は「がんばって」仕事したよ、もちろん。

だけど。。。
人生って、あるとき、ふと、出来事が起こる。
それは本人がまったく意図しない所からわきおこる。

だから。
人生がうまくいってないなあっておもっても、
きっとその人の努力不足じゃないんだろうな。っておもう。

そして、人生がうまくいってる人もまた、
その人の努力の結果でもないのかも知れない。。。

そうおもうと、
人の出来事をうらやんだり、

後ろめたさを感じる必要もないんかもな。


絵:「葛」洋紙、和紙、水彩/「つくし紙絵展vol.2」

2016年9月29日木曜日

その手にゃ乗らん



しばらく、ブログを書くのを止めていた。

日々、心の変化はどんどん起こっていたが、あまりに繊細な変化なので、それを言葉にすると、ものすごい大づかみになっちゃうなあ~ってゆうのと、
この変化を言葉にしないで味わっていようというおもいがあったのかもしれない。


一日の間でわきおこって来る思考と感情を、時には巻き込まれて、時にはただ観察して。そういうことを繰り返していると、自分の中に出てくる感情や、思考に、パターンがあるのに気がついて来る。


今朝、
「あ、コタツ布団とホットカーペットを大型コインランドリーで洗いにいってこよっかな?」
って、思考がふと浮かぶ。

するとそくざに
「いや。止めとこう。車の運転が怖いし、あのホットカーペット、大き過ぎて洗えないかもしれし、溶けてきえちゃうかもしれないし、コインランドリーまでの道のりは通学路やから、生徒さんをひいちゃうかも知れないし。。。。」
と、怒濤のごとく心配の要素を思い起こすんだ。

今までのわたしだったら、その言葉に耳を傾けた。
「そうだそうだ。危ない危ない。それに今日は雨振ってるし、乾き切らんかも知れないし、それに雨でコインランドリー、人で一杯かも知れないし。やめたやめた」
と言うふうに。

わたしの自我は、どうも「恐怖あおり作戦」のスペシャリストのようだ。
「つくし、やめとき。あれやったら、あーなって、こーなって。。」
と、もし行動を起こせば、最悪の事態がやって来るよ、と、囁き続けるのだ。
自我の訴えに巻き込まれると、
「そうだそうだ。やめといたほうがええ。」といって、その声に同意する。

そういうことをずっと繰り返してきた。

それが「輪廻」というらしいことがわかってきたのは、つい最近の話しだ。
自動反応。
起こってくる出来事に、おなじように反応して、おなじように行動する。
するとおなじ結果を生み出す。
これが輪廻だ。

そこからの解脱は、
「その手にゃ乗らん」ことだ。

だから「大型コインランドリーで布団を洗う」というアイディアに「恐怖あおり作戦」で、いちゃもんを付けてきた自我さんに、
「その手にゃ乗らん」と、聞き流すことをした。

布団を車に積んで、運転している最中も、色々言って来る。
だけど、心を「今のここだけ」に置いた。
ただ運転する。ただ心の声を聞くだけ。
聞くけれど、ただ聞き流して行く。

終ってみれば、ただのたいしたことのない出来事だった。
だけど自我はそれを重要視する。
物事をどんどん深刻に導いて行く。

そういう「自我」の特徴に、とことん気づいていく。
その手にゃ乗らなくなって行く。
すると、だんだん気楽になって行く。。。
そんな日々です。

絵:「さるとりいばら」/ファンシーペーパー、和紙、水彩
 ただ今開催している『つくし紙絵展vol.2』で、展示しております。


2016年9月16日金曜日

展覧会のお知らせ/つくし紙絵展vol.2

展覧会のお知らせです。
5月の「つくし紙絵展」にひきつづき、
今度は大阪で「つくし紙絵展vol.2」の展覧会を開きます。
さらにバージョンアップしたつくしの紙絵をごらんください!

期間:9月23日(金)〜9月30日(金)
場所:ギャラリー&ティールーム The 14th. MOON
   〒540-0021 大阪市中央区大手通1-1-10
   tel: 06-6943-5892
時間:平日12:00〜19:00
   土、日、最終日12:00〜17:00

作家は、23日、24日の二日間在廊しております。





2016年8月15日月曜日

ぐだぐだな盆踊り。だけど。。。



きのうは毎年恒例の夏祭り。
ウチの町内会は、80世帯ぐらいしかない小さな村。

やまんばは、町内会の夏祭りで、20年ぶりに盆踊りを復活させた実行委員のひとりなので、曲の進行やだんどりで、いつもばたばたする。

なぜなら、音響設備が、いつもどっかから借りてきたカラオケ設備。
懇親会で飲んで酔っぱらったオヤジどもが、機械の扱い方がわからず、それ、カセットテープが入らないだの、CDがうまくならないだのと悪戦苦闘。

そんなこんなで、今年も案の定、盆踊りのCD流せば、マイクが入らん、マイクを付ければ、CDが流せない。
マイクに差し替えているあいだに、酔っぱらいがハウリングをおこして、会場中不協和音にさらされる(笑)。

夏祭りの司会進行役らしき人もいない。
盆踊りの曲をスイッチオンしてくれるお人も、オフしてくれるお人もいない。

やまんばは55歳であるが、他の大御所踊子隊はみな70過ぎなので、下っ端のわたしがなれない浴衣姿でひとり会場を走り回る。

ぐだぐだはそれだけではない。
やまんばが間に入れる曲の説明も、曲名も、途中でわからなくなり、
「次は、炭坑節と、東京音頭と、えーと。。。。、なんだっけ?
。。では、そんなかんじで、はじめます」
と、いってしまう始末。

しかも、ウチのダンナが録音してくれた、きれいな音のCDは、いつのまにか消えていて、大御所のところで録音された、とてつもなくひどい音のCDにすり替えられていた。

ひどい音の盆踊り、ひどいアナウンス、ハウリング。。。。
ひどいことづくめの盆踊り。

でもいつのまにか、たくさんの人が来てくれていた。
小さな子供たちは、かわいい浴衣姿で、見よう見まねで踊っていた。老人たちも艶やかな浴衣姿で踊る。大人も子供も一緒になって、ひとつの大きな輪が、たのしんでいた。



自分の中の美意識をおもいしらされる。

きれいな音でなければいけない、
アナウンスはちゃんとしなければいけない、
進行はちゃんとしなければいけない。。。

そんな「こうであらねばならない」が、ことごとく潰されていく。

それでもなぜか、たのしいのだ。
あらねばならないものなんて、なにもないのかもしれない。

きのうはもう、すでにここにはない。

ただ、胸のあたりに、ほっこりした何かの残像がのこっている。。。


絵:アメリカで出版された絵本「The Drums of Noto Hanto」

2016年8月8日月曜日

アロイトマト消えるの巻


ナスとトマトのマリネが作りたくって、畑にトマトを取に行く。
東側のフェンス近くに、7、8個、赤い実がたわわに点々とあるはず。。。。

ん?
みどり色しかみえない。。。。
ない。。。赤いトマト。。。わたしのアイドル、無肥料栽培の関野さんの貴重な種を購入し、育てたアロイトマト。。。
木っ端みじんに消えていた。

足下には、食い散らかしたトマトの皮がすこしだけあった。
サッ、、、サルのやろう。。。。。

心はぐるぐるする。
あ~~、きのうまであったのにい。。。
昨日じゃまだ赤くなり切ってなかったなあ。今日だからこそ、ちょうどいい赤さだったのにい。。。だから今日ナスとトマトのマリネを。。。。。

草を刈りながらぶつぶつ言う。
しばらくぶつぶついう。
言ってる自分に気がつく。
しばらく言わせておこう。。。


立ち上がって、トマトの苗の方を観る。

サルどもは、食いかけをほっぽりっぱなしにはしなかった。皮こそ残したが、後はきれいさっぱり食べていったのだ。

どっかで彼らは糞をするだろう。
そおすりゃ、この山のどこかで、関野さんのアロイトマトがなりはじめるかも知れない。。。
想像するとおもしろくなった。
サルがした糞から、トマトがなる。それをまた食う野生動物たち。するとあっちこっちに、アロイトマトが。。。
やまんばは、山に分け入って、アロイトマトを収穫するのだ。

うまかったんかな。
だって、残してないもん。
そうおもうとうれしくなった。

あのトマトは、わたしの口であのうまさを味わってないだけやな。
でもサルは、確実にあのうまさを味わったんや。。。
そう思うと、何だかどっちが食べてもいいじゃないか、って気になってくる。

これって、母親が子供に食べさせて、おいしがっているのをみてよろこぶ、それににてね?
げげーっ。
わし、サルじゃねえし。

ひとり妄想して、頭を振る。

でも、どこか心が温かくなった。


(自分もサルもおなじになっちまったのか?)

絵:「東京五輪で日本はどこまで復活するのか」新書表紙

2016年8月7日日曜日

縄文人と弥生人のはざまで



どこで聞いたのか、忘れたけど、縄文人の狩猟採集から、弥生人の農耕に変化したときから、戦いが始まったと聞いたことがある。

それまで、山に分け入って、野草や実や、時々狩猟をして、生きてきた民族には、自分たちが所有する「土地」というものがなかった。そこでは、野生も人も共存が出来ていたし、季節ごとに移動し、取り尽くさないと言う、自然なバランスが保たれていた。

しかし自分たちで土地を耕しそこに野菜を育て生きるという、一定の場所に固定された生活を選んだときから、ここは誰々の土地でありはじめた。

場所によっては、水はけのよい場所もあったであろうし、また悪い場所もあったであろう。川に近い土地もあるだろうし、水を確保するのに大変な場所というちがいもあっただろう。
やがて土地の大きさを競い合い、野菜の収穫量を競い合い、そして権力の象徴としての土地になっていく。村どおしの争いになり、民族通しの争いになり、豊かさとは、いかに土地を確保するかに心が割かれていった。


わたしの畑は、山と村のちょうどはざまにある。
山からは、絶えずサルや、イノシシや、タヌキや、ハクビシンなどがやってくる。村からは、猫もやって来る。
畑にいくたび、
「はて?ここにあったはずのきゅうり。。。?」
「あ~~れ~~~、ダイコンがあ~~」
と、なくなる野菜たちや、荒らされている畝を見る。

これは、あの狩猟採集の時代となにがちがう?

「そろそろあけびがいいころあいだ。明日にはちょうど熟れ時。。。ぐふふ。。」と、翌日行くと、もぬけのから。。。(笑)。
おんなじじゃねえか!
野生と人間が共存している世界だ。

ちがいがあるのは、弥生人的に土をホックリ返し、草を取り、種をおろすことが行なわれているだけ。
後は、自然の中で行なわれていることと同じ。野生も人もいっしょくただ。

土地を耕し「これはわたしの土地だ!」といい、他人も野生も受け入れない弥生人的な発想には、戦いが生まれる。電気コードを畑のまわりに張り巡らせ、野生も人も寄せつけない。
ちょっと前にあった事件をおもいだす。シカよけに付けた電気コードで、人が亡くなった事件。。。

だからといって、めぐらしてある柵を全部取っ払うことはしない。ほどほどに柵を作ってある。それでいい。

私の畑は、作物をいかに育てるか、ではなく、
自分の心のあり方を問われている気がする。

そんなことを考えていたら、ダンナが、
「福岡のじっちゃんもそうだったんじゃないか?
自然農法を通して、人間という生き方を問う、
そういうことを言ってたんじゃないか?」
といった。

わたしは縄文人と弥生人のはざまに立っている。
福岡のじっちゃんは、あまりにも先を走っていた人だ。

今、わたしはその入り口に立っているのかも知れない。


絵;「釣り」

眼をつぶって音を聴く


眼をつぶって、音を聴く。

蝉の鳴き声、コオロギの声、電車の走る音、時々走り抜ける車の音、そして、自分の内側でしゃべっている声。。。

外の声と、内の声。

どこがちがうんだろう?
どこに境界線があるんだろう?

内側の声は、耳で聞いていないのに、聞こえて来る。

どっちも「聞こえて来る」

眼をつぶって「音」をきくとき、
自分と、外、との、境界線が曖昧になっている。
あれは蝉の声だ、とか、あれは車のタイヤの音だ、とか、これは自分の声だ。。。と言う、境はどこにあるんだ?

みんな聞こえて来る。

あるのは、真っ暗な闇から聞こえて来る、たくさんの音だ。

一瞬、この音の世界が、全部「自分」の中から聞こえてきているような気がした。


まるで、この世界すべてが「自分」であるかのように。



2016年8月1日月曜日

そんなこともあるんかのー


先日、「すごい挑戦ですね」と言ったお客さん。

その後、まったくわたしに気がついてないそぶり。
あのときの会話は一体なんだったんだろう。。。?
と、おもう。

フツー、あそこまで会話すると、何となく知り合いっぽい会釈もあるってもんだ。だけどいっさいない。あの瞬間だけが、まるで知り合いのような会話だった。

それ以降は、以前のように、まったく眼も会わさない、いつものそぶりのまんまだ。あの出来事はなかったかのようだ。

あれこそ、世に言う、メッセンジャーだったのかもしれぬ。
どこかのだれかがわたしに向かって、外から伝えたかった言葉。その言葉を、彼女の声を通して、わたしの耳が受け取る必要があった。

そんなこともあるんかのー。


2016年7月29日金曜日

ただ草を刈るだけのバカ


私の畑の作業。
ひたすら草を刈る。
ひたすら草を刈る。
ひたすら草を刈る。
それだけ(笑)。

後は、勝手に野菜が育つ。
後は、勝手にタヌキが食う。
勝手に荒らしまくる。

実験用に残しておいた野良ジャガも全部食われたし、
ちょっと早めに蒔いたコリアンダーも荒らされた。
秋蒔きの野菜はどーなるんだろ?
いいさ、いいさ、先のことは先のこと。

そしてひたすら草を刈る。
土の感触がうれしい。
どんどんやさしくなってくる土。

うまいことタヌキに荒らされなかったキュウリやトマトやピーマンは、勝手に育ってくれる。
ひたすら草を刈るだけで、勝手に育つ野菜たち。

こんなバカもいてはいーではないか。

ただ草を刈るだけのバカ。

2016年7月27日水曜日

「すごい挑戦ですね」



「だいぶなれましたね」
早朝、お客さんにいきなりそういわれた。
「え?あ、はい。おかげさまで。。」

なれないバイトを始めたのが1年前。初めの頃から、ずっと見てくれていたのだ。
それまでスムーズに動いていた手が、急にぎこちなくなる。

「そういわれると、なんだかきこちなくなっちゃいます。。」
苦笑いしていると、

「すごい挑戦ですね」
歳の頃は50代後半、出勤前のきちんとした身なりの彼女は、私にむかってにっこりと笑った。

挑戦。。。。
彼女の言葉が耳に残った。

そういえば、私はずっと挑戦を続けてきたなあ。
美大時代に、親にナイショでもうひとつ音楽の学校に行ってたこと。
デザイン事務所を転々とし、早いうちからフリーのイラストレーターになったこと。
ニューヨークでイラストレーターとして挑戦したこと。
アーティストグリーンカード取得に挑戦したこと。
グリーンカードも手に入り、いいレップに入り、仕事もがんがんに忙しかった。
しかし悠々自適なニューヨーク生活にピリオドを打ち、
日本での田舎生活を始めたこと。
200坪の畑で、無肥料栽培に挑戦していること。

そして、今、バイトをしていること。。。。
これは、挑戦なのだろうか。。。。

きっかけは1年前の個展。11年ぶりの東京での個展は大盛況だった。
作品の中に、あたらしい道が開けた実感があった。
そしてその時を境に、イラストレーターの仕事がぴったりと止まったのだ。。。

生活のためにバイトをしている今の現状。
これのどこが挑戦なのだ?
挑戦というよりは、苦しみだ。屈辱だ。
まるで「きみの才能は地に落ちた」と言わんばかりの仕打ちではないか。。!



今までは、はっきりとした「目標」があった。
だが、これは「私」が意図しないところの、運命の「目標」であり、ひょっとしたらそれを今、挑戦中なのかもしれない。。。。

先程の彼女は、単に私が60過ぎに見えて、
「こんなご老人がこんな所でバイト。大変だろうな。。」
と言う思いだったのかも知れぬ。

確かにこのバイトは、今の社会の人々の生活を垣間みる。イラストレーターであったら、決してのぞけない世界。その社会の断片を見ながら、私は日々、洞察をもらい続けている。今まで気づけなかったことが、どんどん気づきはじめて来る。

ここから先は、何が起るのか全くわからない。
何を目標としているのかもわからない。
ただ、私は「何か」に挑戦しているようだ。。。。



絵:「くもまつまきてふ」
9月の個展に向けての作品。素材/洋紙、和紙、水彩、クレヨン


2016年7月23日土曜日

共感の時代だよね



共感の時代だよね。

みんなとおなじ事を考えて、同じ感想を言い合う。
それってほっこりするよね。

でも人はそう単純じゃない。
みんなと同じ考えもあるけど、また違う感覚も持ってる。

でもなかなかそれは言えない。その場の空気が変わるからね。
けど、それを言う勇気いるなっておもう。

だって、こう言う情報の渦って、ひとつの意見に対して
「そうだそうだ!」
って、共感しあっているうちに、
どんどん巨大な流れになって行ってしまうから。

それはときには危険な流れさえも作ってしまうんじゃないかな。

だから自分はこう思う。という勇気、ほしいんだな~~。
(、、って、言ってねえのか。おい!)



2016年7月21日木曜日

それ、問題?



「これは問題である」と思わなければ、どこに問題がある?
これは「”それ”は在る」という本に出て来るラメッシの言葉だ。


人に会うと、それぞれが抱えている問題を垣間みるときがある。
そうだよなー、あれは問題だよなーって、ついおもう。

だけど「それって問題?」って自分に問いかけてみると、
「はて?」とおもう。

人の問題は人の問題であって、自分の問題じゃない。
彼彼女の問題を、自分の問題として取り込むことじゃないし、彼らが抱えている問題を「ああ、それは問題だ」と、思ってさし上げる必要もないではないか。


彼らの「問題」を「それ、問題?」
っていちいち自分に問いかけているうちに、
「いや。これ別に問題じゃないなあー」っておもいはじめる。

人のことだから、妙に引けて見ているのかも知れないし、単に薄情なだけかもしれんw

でも彼らの問題を、ここにいるわたし一人が、
「それ、問題に一票!」って、投票して差し上げるよりは、
「無投票。」
にしておいたほうが、彼らにとってもちょっとは問題の荷物が軽くなるよーな気がする。妙な理屈じゃが。w



そーやって考えていくと、自分に向けている「問題意識」も、ひとつひとつ吟味してみると、そこまで重要じゃないかんじになってくる。

ふとなにかをやろうとする自分に、そのきっかけになっている観念があることに気がつく。「こうでなければ問題だ」という観念。

そこですかさず問うてみる。
「それ、問題?」
「そりゃ、やらないとだめだろう!」
「ほんとに?」
「え。。。?」

いきなり、それ問題かい?って聞かれると、とまどうのはなんだろね。
そうやって、聞いていくと、だんだん、そのことが重要ではなくなってきて、何だかどっちでもいいよーな感じになって、それまで抱えていた荷が軽くなるのは、なんだろうね。
ぎゅーっと凝縮していた身体のこわばりが、それに対する疑問を持つことによって、じょじょに、ほどけていくかんじがするのは、なんだろうね。

問題を意識すればするほど、それは固形化していき、はっきりとそこに存在しはじめる。だけどそれを重要視しなくなればなるほど、それはゆるゆるとほどけていき、問題の対象物が希薄になっていくのだ。

そうやって、自分の問題も他人の問題も、何だか希薄になってゆるゆるとほどけていくと、この世はだんだん軽くなって見えて来る。


それ、モーマンタイ。


絵:ラブロマンス表紙の絵

2016年7月16日土曜日

ゴッホより〜、ふつーに〜、草が生えている方がっ、すっきーーーっ!




庭がジャングル状態である。
「おお!よくもまあ、ここまで大きく育ったものよ!」
ひとり植物の偉大さにほくそえむ。

と、おとなりを見れば、草ひとつないお家。白亜の豪邸。
やまんばの胸がちくりとする。

これはいわば、胸毛も脇毛もはえ放題の原始人と、脇毛も足毛もきちんとお手入れ済みの文明人が隣り合って座っているよーなもんだ。
よく見るとツル科の植物が、我が家の木をよすがにとなりの広々とした空間に進出しようと企んでおる。
「おっと、やばいやばい」

やまんばはフルヘルメットに軍手をはめて、重装備でジャングルに潜入した。

今朝までの雨でじっとり濡れている草の根元をぐっと刈る。ミミズがグニュ~~っと出てきた。何層にも重なった腐葉土で土がふっかふかになっている。

篠竹、クサノオウ、オニシバ、三つ葉、ツユクサ、ドクダミ、フジ、ミズヒキソウ、をガシガシ刈っていると、大葉やグラジオラスが顔を出した。
「お!」
まだつぼみのグラジオラスは、花瓶に生けとくと花が咲くはずだ。3本ゲット。でっかい大葉は、今晩の薬味に添えよう。


となりへ進出するツル科の植物(おそらく長いも)をひっぺがして、ものの10分でジェングル潜入終了~。

草を生やすのはよくない。
そういう観念がわたしの中にある。
しかしその観念よりも、草が生えている方が好き!という観念の方が勝っている。

そーはいってもよそ様の目が気になる。
草はやしたい。
でもはやしちゃいけない。
でもはやしたい。
でもはやしちゃいけない。。。
と、ぐるぐるするw

でもさ。
起こってしまったわけだ。
草はやかすほうを選ぶ、という行為が。

こりゃーもー、どーしよーもねえでしょ。

自我が訴える「ダメでしょ」攻撃を、ただ何もしないで、受け取るだけである。

常識より〜、ふつーに〜、非常識がすっきーっ!


さて。
今年9月にまた個展を開きます。
舞台は大阪です。
またおって、お知らせいたします。

今日の一枚はそのDMに使われる予定の作品です。
タイトルは『ヤマユリ』
ファンシーペーパーと、和紙と、水彩の合体作品です。
道ばたに咲いていた、大きなすすきの葉と、それをつたうツル科の植物と、ヤマユリの美しさにほれました。

ほらね。草ってうつくしーのよ。おほほ。






2016年7月14日木曜日

絵本作家さんのインタビュー記事を読んでおもうこと


ある絵本作家さんのインタビューを読んでいた。

絵本が出来上がるまでの過程の話しを読みながら、
「これって、大人が大人を説得しながら作っているなあ~」
とおもった。そこに子供の視点はないかんじがする。

大人は、「子供の世界はまだまだ小さい。だからこの世の素晴らしさを教えてあげるんだ」という前提に立っている。

はて。
子供はこの世の素晴らしさをまだ知らないんだろうか。
大人が考えるこの世と、子供が考えるこの世は、はたして同じ路線にあるんだろうか。

大人がいうこの世とは、たんにこの世で生きるルールを知っている、ということではないか。
そのルールを教えることは、これからこの世で大きく育っていく子供にとってもちろん重要なことや。そんなんあたり前田のクラッカー。

なーんかわたしは思うのだ。
えらそーなことは言えないけどよ。

子供が生まれてすでに持っている広大な感覚を、絵本を通して『大人が知っている』狭い世界を教え、「これがこの世なんだよ」といいながら、無意識に彼らを小さくしていくように見えてしまうのだ。
子供はそんなバカじゃないよ、、、といいたくなる。

それをえんえんとやってきて、今のこの、しょーじきいって、世知辛い世があるんじゃね?そこんとこ、どーなのよ。
この世で生きはじめる始まりのころに教わるものって、スッゲーだいじな気がするんだな。


じゃあ、そうでない絵本とはなんなんだ?
う。。。わかんないよお〜〜。え〜〜ん。。。
このジレンマを、どう解釈して言葉にしていいのかわからない。
だけど、なんかちがうううう~~~。

それはわたしがまだどこかで子供の頃の感覚を覚えているからかもしれないし、
単にわたしの頭がおかしいのかもしれない。

でもさ。
大人が印刷して出版する絵本なんだから、まず大人を説得しなきゃなんないわけさ。
そこで「あ~~~~、ムリかなあ。。」と、頭を抱えてしまうw

ま、起こるときゃ起こる。
起こらんときゃ、何も起こらん。


お日さん、西西。
注:土佐人のくちぐせ。何があっても(台風で家が飛んでも)ことは粛々と過ぎていく、の意


2016年7月12日火曜日

道にダイコンが落ちていた



近所の八百屋さんで、ダイコンを買おうかどーしよーか迷った。
買わずにウチに帰る途中、道ばたにダイコンが落ちていた。

動揺するやまんば。
「こっ、、、これは、わたしに拾え、とゆーことか?」
持ち上げてみると、確かにダイコンだ。

誰がこんな所に落としていったのだ?
それとも天の計らいで、
「つくしよ。。。これはお前のダイコンか?」
と、天女が道の下からあらわれて、わたしを試しているのか?

「いえいえ。天女さま。それはわたしのダイコンではございません」
「では、これか?」
といって、銀色のダイコンを差し出して来る。
「いえいえ、メッソーもございません。そのようなダイコンではございませぬ」

「では、これか?」
といって、金色のダイコンを差し出す。

おもわず、
「はい。私のダイコンはまさにそれでございます。。。」
というやいなや、
天女さまはいきなり巨大な大魔王に変身し、
「お前は、ダイコンなど買ってないであろう~~~~っ!」
と、やまんばの上に馬乗りになり、息が出来なくなり、気を失いかける。。。

と、一瞬の妄想が。。。。

やまんばは、首を振りふり、
「いやいや。だれかが落としていったのであろう。そのうち取りにもどるはずだ。。」
そー言って、あと髪オモイックソ引かれながら、その場を立ち去る。

後日、ダイコンを買って、その道を通った。
ダイコンは跡形もなく消えていた。
ダイコンがあった場所には、こぎたない軍手が一個落ちていた。
「はて?ひょっとしたら、この軍手がダイコンに見えたのか。。?」
軍手がダイコン?

7月の、ある夏の暑い日のできごと。
やまんばはタヌキにでもバカされたのであろうか。

ちゃんちゃん


2016年7月3日日曜日

じっとする。


八王子のホームで、突然怖くなる。

ーーさっき画材屋さんで選んだ額は、あれでよかったのだろうか。
もっといい額があったんじゃないだろうか。
もうひとつの額の方でやった方が、よかったんじゃないだろうか。。。。

心はどんどん動揺しはじめる。心臓がばくばくして、思考が爆走する。

ーーいやいや、あれでよかったんだ。
どうしてかって?
なぜならあの額を選んだのは、これこれこーゆーワケがあって。。。。

ーーえ?ほんとにそう?
選ばなかった額の方がもっといいものができたんじゃないの?

ーーえ~~~~っ。今ごろ言わないでよ!
じゃあ、今からまた戻って、あっちにする!?


あ。。。。
やってる。。。

あたまの中で行ったり来たりを繰り返しているわたしに気がつく。
自分が選んだ額に、一人がジャッジし、もう片一方が、言い訳をし、それに反論を繰り返している。


自分の中を見始めると、心は、今ここにないものに奪われ続けているのに気がつく。

わたしは今、八王子駅のホームに立って、中央線を待っている。ただそれだけなのに。

心は何か問題をみつけだして来る。
今ここに何も問題がないと、どこかからわざわざ探し出して来る。
高尾行きの電車はもう間もなく来る。そこに何も問題はない。心は、額を選んだことに問題点を見つけてきたのだ。

わたしは、この心の中で、えんえんと会話する二人に、何の解決策もないことを見出す。


思考観察をしていると、思考が何の解決法も見出せないことを知りはじめた。思考が思いつく解決法は、たいてい消極的で、自分を小さくまとめる、つまらない解決策だ。ああなったら困るから、こうしておこう的な、どこかで聞いたことのある解決策。


電車がホームに入ってきた。
おじさん二人にはさまれて座る。

わたしの中で聞こえる会話に乗っからず、ただじっと感情の中に座る。
まちがった額を選んでしまったかも知れないと、怖がっている感情の中に。

恐怖をかき消そうとせず、
恐怖に抵抗せず、
その恐怖の中に、
ただじっとしている。

高尾のホームを歩きながら、さっきまでの恐怖が消えているのに気がついた。



私たちは、感情的ななにかを見つけたり、肉体的ななにかの変化を見つけると、
直ぐさま反応をし、「なにかをしよう」とする。
いわば混乱した状態で、なにかをしようとしているのだ。それは混乱をより大きくするだけなのだ。

何もしないというのは、逆に怖いことなのだろう。
それはなにかをすることによって、何かしらの解決が待っているから大丈夫だ、という安心があるように見えるから。


でも。

じっとしていることは、自分を強くする。
ぐちゃぐちゃになる自分の心をシンプルにする。
フクザツに絡まり合った心の紐をほどいていく。



2016年6月19日日曜日

思考のオドシに乗らない(笑)


朝の目覚めがいい。
4時半から5時のあいだに、目はスコンと覚める。

目が覚めたと同時に、思考が動き出す。

前は、将来の不安、体の不安、親の不安、人間関係の不安、しなくちゃいけないこと、出来なくて悔やむこと、そういう思考がどどーっとおそってきて、
「そうだ、そうだ。こんな風にのんびりしている場合ではない。あれも、これも、それもやらなくちゃ。。。」
と、その思考に飲み込まれていた。

そしてだるい体を、
「お、おきなきゃ。。。。。」
と、ムリヤリおこしていたのだ。



思考はほとんどが否定的な考えだ。
「そんなことやっててどうする?」
と、おどしてくる。

おいしいお菓子を食べていても
「ほーら。そんなもの食べてると、太るぞ」
幸せな気分になっていると、
「よろこんでいる場合じゃないぞ」

そういう考えの先には、必ず、4コママンガのような不幸なシーンが待っている。
ヨレヨレになって、行き倒れて、誰にも助けられず、死ぬ私(笑)。

そういうばかばかしい考えが、思考のオドシにはくっついているのに気づいた。
それが私を不幸にし、不安定にし、イライラさせている原因だと。


私たちは、思考は自分のなかからわいて来るから、「自分のもんだ」と信じている。そして、自分のもんだから、それは自分の味方である、と信じてやまない。
だけどじーっと思考を見ていると、どっちかというと自分を不幸にしたり、破壊的なことを言うだけである。
どーみても、味方に思えないフシがある。
どーみても、自分を不幸にしてくれるフシがある。

一説によると、脳は考える力を持っているのではなく、ラジオみたいな受信機だと言う。
私が今とらえた思考は、今ここに漂っている、ありとあらゆる波のひとつにすぎないのかもしれない。


「これ、乗る必要があるのかな。。?」


それから私はその思考に乗っからなくなった。
わいてくる思考の否定的なオドシに気づく、ということを実践していった。

ふとわいてくる瞬間をとらえはじめる。
「あ、今、わいてきたな」と、気づくのだ。

思考はそれを止めようとすると、ますます止まらなくなる。
なので、その声を「聞いてあげる」のだ。
「ふ~ん。それで?」って。
思考から逃げようとすると、追いかけて来るけれど、こっちが追いかけると、思考は消えていく。


すると、朝のめざめがスコンとよくなりはじめた。
あたまの中の否定的な考えの声がどんどん小さくなっていく。
体は全くだるくなく、スッと起きることが出来る。

思考がどれだけ私たちの心や体のエネルギーを浪費しているのか、身をもって知る。


今朝は目覚めた瞬間、わいて来ようとする思考が、なにか否定的なものを探していることに気づいた。
「そこまでして否定的な考えを見つけてきたいんかいっ!」
と、おもわず思考さんにツッコミを入れる(笑)。



私たちは、目に見える現象世界にばかり比重を置いてきた。そこに問題を見つけ、それを解決するのに躍起になった。
自分の不幸は、外の現象のせいである。だからその現象を変えねばならないのだと。だが、そこに限界を見つけたとき、それは何かの合図かもしれない。

今まで外に向けていた眼差しを、くるっと振り返って、内側を観るということへ。