朝の目覚めがいい。
4時半から5時のあいだに、目はスコンと覚める。
目が覚めたと同時に、思考が動き出す。
前は、将来の不安、体の不安、親の不安、人間関係の不安、しなくちゃいけないこと、出来なくて悔やむこと、そういう思考がどどーっとおそってきて、
「そうだ、そうだ。こんな風にのんびりしている場合ではない。あれも、これも、それもやらなくちゃ。。。」
と、その思考に飲み込まれていた。
そしてだるい体を、
「お、おきなきゃ。。。。。」
と、ムリヤリおこしていたのだ。
思考はほとんどが否定的な考えだ。
「そんなことやっててどうする?」
と、おどしてくる。
おいしいお菓子を食べていても
「ほーら。そんなもの食べてると、太るぞ」
幸せな気分になっていると、
「よろこんでいる場合じゃないぞ」
そういう考えの先には、必ず、4コママンガのような不幸なシーンが待っている。
ヨレヨレになって、行き倒れて、誰にも助けられず、死ぬ私(笑)。
そういうばかばかしい考えが、思考のオドシにはくっついているのに気づいた。
それが私を不幸にし、不安定にし、イライラさせている原因だと。
私たちは、思考は自分のなかからわいて来るから、「自分のもんだ」と信じている。そして、自分のもんだから、それは自分の味方である、と信じてやまない。
だけどじーっと思考を見ていると、どっちかというと自分を不幸にしたり、破壊的なことを言うだけである。
どーみても、味方に思えないフシがある。
どーみても、自分を不幸にしてくれるフシがある。
一説によると、脳は考える力を持っているのではなく、ラジオみたいな受信機だと言う。
私が今とらえた思考は、今ここに漂っている、ありとあらゆる波のひとつにすぎないのかもしれない。
「これ、乗る必要があるのかな。。?」
それから私はその思考に乗っからなくなった。
わいてくる思考の否定的なオドシに気づく、ということを実践していった。
ふとわいてくる瞬間をとらえはじめる。
「あ、今、わいてきたな」と、気づくのだ。
思考はそれを止めようとすると、ますます止まらなくなる。
なので、その声を「聞いてあげる」のだ。
「ふ~ん。それで?」って。
思考から逃げようとすると、追いかけて来るけれど、こっちが追いかけると、思考は消えていく。
すると、朝のめざめがスコンとよくなりはじめた。
あたまの中の否定的な考えの声がどんどん小さくなっていく。
体は全くだるくなく、スッと起きることが出来る。
思考がどれだけ私たちの心や体のエネルギーを浪費しているのか、身をもって知る。
今朝は目覚めた瞬間、わいて来ようとする思考が、なにか否定的なものを探していることに気づいた。
「そこまでして否定的な考えを見つけてきたいんかいっ!」
と、おもわず思考さんにツッコミを入れる(笑)。
私たちは、目に見える現象世界にばかり比重を置いてきた。そこに問題を見つけ、それを解決するのに躍起になった。
自分の不幸は、外の現象のせいである。だからその現象を変えねばならないのだと。だが、そこに限界を見つけたとき、それは何かの合図かもしれない。
今まで外に向けていた眼差しを、くるっと振り返って、内側を観るということへ。
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