2018年10月23日火曜日

野葡萄



信号で待っていると、土手に生えた草に目がいった。
秋がだんだん深まって、植物たちがその姿を変えはじめている。

すこし黄色がかってきたイタドリの緑の葉っぱが、赤い水玉模様を作っていた。あいらしさにおもわず見入る。あっちにもこっちにも。

緑一色から、赤い水玉模様に服装を変えたイタドリの葉っぱたち。モスグリーンの地の色に、レンガ色の大きな水玉模様を大胆にあしらった、ウールのコート。
茎や葉脈が赤く、それがなぜか赤いヒールを思わせる。
まるで芯の強いOLみたい。

その横には季節外れのよもぎが凛と立っている。
青みがかった緑色のスーツを着た中年の紳士のよう。

勝手な妄想の中、じーっと草たちに見とれていると、信号が青に変わっていた。あわてて渡る。


柿の葉っぱなんか、芸術家の極みだ。もうどの葉っぱを手にしていいかわからなくなるほど、最高傑作だらけ。葉っぱの一枚一枚に向かって、その美しさをほめたたえたいぐらい!でもそんなことしてたら、日がくれちゃうね。

いつもこの美しさをぐっと所有したくなる衝動にかられる。
けれども家に持ち帰ったかれらは、ほどなくその美しさを終らせていく。
それもまた潔いかっこよさ。


だからじーっと目に焼き付ける。
あんたらの美しさをどれだけ味わっているやつがいるか、わかってる?
ここにへんな一人の人間がいること、かれらは知っているのかなあ。
まあ、そんなことへともおもわず、かれらはかれら自身がその美しさを謳歌しているのだろう。



今日の作品は先日制作した野葡萄。

わたしの絵の生徒さんが、昔スケッチしたという水彩画の野葡萄の絵を見せてくれた。それがとても強烈な印象を私に残した。
ふしぎなカタチの枝、葉っぱ、カラフルな野葡萄。

私は植物の正しいカタチを描くことが苦手。それはいくら正しく描こうとしても、かれらの調和のとれた美しさにはかなわないのだもの。
だから私は私の印象で、かれらを表現してみたい。
それは今日であったイタドリのOLさんのように。


2018年10月21日日曜日

7才のわたし。



夜寝る前に窓を開けて、真っ暗な山を見る。
「今、どんな感じ?」
心の自分に問うてみる。

胸の奥が、ふるふるとふるえている。
「これは、なに?」
問うても誰も答えない。
ただ、不安なふるふるではない。
たとえていうなら、明日楽しいことがある前の、期待のようななにかのふるふるだ。

「私は今、いったいいくつなんだろう?」
そんな疑問がわいた。
「。。。7才。。。」
心の声にびっくりする。
「え?7才。。?」

今57才のわたしが、たった7才の自分?
50年分はどこへ消えた???

でも考えたら、意識は今でもそのぐらいなのかもしれない。あのころの私と、何ら変わっていない。

じゃあ50年間分の知識や歴史はどこへいった?

知識とは、単なる「社会」という名前がついたゲームのルールを知っているというだけだ。双六や、野球や、サッカーのルールと何ら変わりない。私の歴史とは、そのルールに必要な、ボールやコマを持って、そのルールに沿って生きて来た。そういう歴史だ。

でもまったく変わらない何かが私の中にある。
それは「私」という感覚。
その私は7才なのかもしれないし、なにでもない、なにかなのかもしれない。

暖かな布団の中にもぐりこんでイメージする。

誰でもない7才の私。
過去も未来もない、ただそこにある存在。


絵:天狗舞い






2018年10月19日金曜日

心という車の運転免許



バイト先で知り合う若い女の子たちがおもしろい。

まだ二十歳前後。彼女らの母親は私より若い。そんな彼女たちとしゃべっていると、ある共通項に気がつく。

ウザイ、イラつく、キレル、ウケる、などの感情を表現する機会が多いためか、彼女らは自分が何を感じているのかをつねに気づいているようだ。

そのため、逆に言えば、その自分の感情が大きく心の中を占め、ふりまわされやすくなっている。クローズアップされた自分の感情に気がつくと、それを否定しようとするため、二つの感情をもつことになる。
1。イラつく自分
2。それを否定してイラつく自分。
この二重苦で、自分というものをうっとおしいとまで感じている。

また別の子は、そういう自分をおもしろがっている。
どっちにしろ、自分の中で発令される感情に気がついているのは、時代が変わって来ているからか。



このことはとても面白い現象だと思う。
通常大人の私たちは、自分自身が感情的になっていることにあまり気がついていない。
その感情と自分が一体化してしまうからだ。

本当は、どこかで気がついてはいるが、感情的になってはいけないと言う、根深い道徳観念が、それをおさえこむ。
もしそのことを指摘しようものなら、火のようになって怒る(笑)。



私たちは、外のものを見ることを学んできたが、心の中を見ることをまったく学んで来なかった。
例えていえば、車の運転技術はあるが、心という車の運転免許をもってないようなもんだ。

せいぜい動き出す車の前に立ちはだかり、フンムムム~~~っ!と、力づくでおさえこんで、感情が表に出ないようにするという、原始人のような(原始人さん、失礼)、心の車のコントロールしかしてないのだ。

ギアやブレーキやアクセルがあるように、心にもちゃんと仕組みがある。今こんなにも精神を病む人たちが増えているのだ。その仕組みを真剣に学んでいく時代に入っていると思う。


でもいかんせん、感情について話しをすれば、人はすぐさまぱたっ!と心を閉ざしてしまうぐらい、感情に対してあまりにもアンタッチャブル。
日々の忙しさの中で、感情が動く自分を見ないようにする。
はたまた誰かにグチって、気が晴れたかのように装う。
おさえこんだ感情はいつのまにか、病気や精神的な病いなどの形になって現れてくる。



ほんの少し、意図的に静かな時間を作り、自分の心に聞いてみる。
「今、私、何を感じてる?」と。

その感じているものに抵抗をせず、ただ受け取ってみる。
その感情は、決して悪いことじゃない。
あなたが生きて来たこれまでのいきさつが、
どうしようもなく持たざるを得なくて、持った感情なんだ。
それを肯定する。

いいよ。感じて。
いいよ。怒って。
いいよ。悲しんで。
いいよ。いいよ。いいよ。。。

そのほんの少しの時間が、心の扉を開いていく。
心が溶解していく。


2018年10月18日木曜日

バーチャルしあわせ



「あたし、何だか幸せじゃない。どーやったら幸せになれるんですかー?」
若い女の子が、ちょっとイラ立ちながら私に聞く。

彼女は現役の大学生。今卒論制作の真っ最中。来年にはIT企業に就職も決まっている。顔は超美人。スタイルもセンスもいい。頭も切れるし、まわりの気遣いもうまく、これ以上出来ないぐらい仕事上手だ。

そんな前途有望な彼女が「あたしは幸せじゃない!」と言い放つ。
それを人生下り坂のおばばに聞くかー。
わたしにゃ、あんたがもってるもん一個ももっとらんわー。



私たちはしあわせ探しをする。今ここにないものを探す。
ないものをゲットできたらしあわせになるだろう!と信じて、日夜探し続ける。

おいしいものを食べる、
楽しいことをする、
行きたい所に行く、
すてきな人と出会う、
はたまたすごいグルに出会う。。

ところが、そのしあわせはそう長くは続かない。すてきなパートナーとだって、やっとゴールインしても、今じゃ粗大ゴミあつかい。

これってなに?!
しあわせって、そんなもんなん?

これが二元の世界。「ゲット」すれば「失う」というおまけもついてくる。コインの裏表。



どうもそれは本当のしあわせではないらしい。
そのしあわせの後ろには、必ず失う悲しみやむなしさがあることに気がつくことだ。

かりそめのよろこび。
ひとときだけのたのしみ。
やがて消えるもの。
そして失ったらまた求めるエンドレスの衝動。

欲しがる、ゲットする、失う/忘れる。
また欲しがる、ゲットする、失う/慣れる。
また欲しがる、ゲットする、失う/飽きるw。
また欲しがる。。。

そういう形状のしあわせを、どっかで引いて見ている視点をもちつづけることかもしれない。(あまりうれしかあないかもしれんな。浸れないんでw)





ほんとのそれはある日、唐突に、ふと、ほんの少し、そこはかとなくやってくる。

何の条件づけもなく、なんのきっかけもなく、
目の前のものがキラキラしはじめる。
何かわからないものが、内側からあふれてくる。
ああ、、と、心が膨らんでくる。
自分と他人という境が消えてくる。
それは時に、強烈なエクスタシーにもなり、
これ以上ない静けさにもなる。


条件づけのしあわせは、このしあわせを感じたいがための、
自我の、バーチャルしあわせの試みなのかもしれない。



絵:「Witch」私の好きな魔女。彼女はこの絵の顔によく似ている。



2018年10月16日火曜日

痛み


スナップエンドウやソラマメなどを蒔くために、何日かジャングルになった畑の草刈りをしていたら、また左肩が強烈に痛くなった。やっぱり動かしちゃあいかんのやな。

夜中に何度も痛さで目が覚める。
民間療法の玉ねぎショウガはちみつのお湯割りも効かない。

こうなったら、イメージで行く。
「神の使者」で有名なゲイリーの新しい本「愛は誰も忘れていない」の中に書いてあった彼のからだの痛みの取り方をマネしてみる。


まず左肩に意識を向ける。その左肩の中から光が現れるのをイメージする。
ひ、光が、現れるのを、、、、
ん?現れない。。。

気を取り直して次!
からだの中に光が満たされるのをイメージする。。。
ひ、光が、、、現れるのを、、、、、イメージ、、、、、
できんやないけ!

あたまのイメージでは、からだの中に光が現れて、その光が自分の身体をおおう、、、
はずであった。

撃沈。。。



これでも私、表現者やで。
イメージのひとつもつくり出せんで、どこが表現者やねん!
と、ひとりツッコミを入れる。

んが。
ふんむむむ~~~~~っ。。。!
と、イメージできない苦しさにもがいているうち、そのたびに痛みが消えているのに気がついた。

光は見えないが、そこに意識を向けている間、痛みが消えているのだ。
ま、、、、こんなんで、、、、ええんかいな、、?
と、どっか納得いかないまま、寝てしまう。



明け方、うつらうつらとする中で、あるイメージを見る。
光のカタマリのまわりにこびりついた黒い破片たち。

それは私のからだの部分だった。そのからだの部分たちが、光の中で溶けていく。
その映像を見ながら、
「ああ、、、私の不満やネガティブな意識が、この世界に闇を作っていたんだ。それがカタチになってこの世界を作っているんだ。。。。」
そう教えられた気がした。


起きる前に見るビジョンは真理をついていると私は思っている。
それは自我がああだこうだと、屁理屈を言いはじめる前のものだからだ。


痛みは、私に肉体を意識させる。
「私は肉体だ」と言って聞かせるにはもってこいの症状だ。

と、同時に、痛みがなぜ発生するのかも教えてくれる。
私の中にある、あらゆる不満や罪悪感がそれを生み出してくる。それは攻撃を自分に向けているからだ。たとえ攻撃を他人に向けようと、それは自分に還ってくる。
その痛みを自分で味わうのだ。


きのうの夜もまた、やってみたが、相変わらず光は見えない。
しかし自分の身体が消えていくのに気がついた。

中身が空っぽなだけではない。からだ全部が消えようとしていた。

と同時に痛みも消えて来た。




絵:「ルパンとショームズ」/ミステリマガジン扉イラスト


2018年10月5日金曜日

過去の背負子


「最近やってることはねえ。過去を消すのよ」
「は?どうやって?」
「えーと、、、後ろに続いていると思ってる長ーーーーーい過去の記憶をぷっつんと切るの。そしたらねえ。未来も消えるの!」
「。。。。」

きのうの飲み屋での会話。
飲んでてする会話ではないわな。
いんや。。。飲んでるから出来る会話かな?

私たちは、「自分」というものを過去の記憶によって作りあげている。
私の名前、私の仕事、私の家族、私の出身地、私の友だち、私の趣味、好み、考え、クセ、習慣。。。
そういうものをどこかで携えて生きている。

出来事や名前や肩書きが固形物なら、記憶はノリ。記憶というヤマトノリで、関西ならフエキノリでくっつけて、そのカタマリを背中に背負い込んで生きている。

過去この考え方で生きて来たから、当然その考え方で、未来も進む。
と言うことは、未来はある程度予測できる。過去の延長線上に未来があるからだ。その予測できる未来が気に入らないなら、過去を捨てることだ。

過去を消す、捨てる。
一見難しいけど、過去は今ここにはない。あたまの中の記憶としてあるだけだ。
きのうああしてこうしてあれ食ってあれ飲んで~。。。
思いだそうとすればいっぱい出て来る。
たのしかったなあ~またやろう~とか。

でも目の前にあるのはパソコンと文字。いつもの部屋の中の風景。

過去は重たい。過去を思いだすと思考が動き出す。
ああしてこうしてああなって、ああ、ああすればよかった、こうしておけばよかった。。。。
楽しいことばかりじゃない。心がすこし苦しくなる。
今まではそれが当り前だった。過去を振り返って、反省し、未来に繋げる。人生とはそういうもんで、大人とはそうするもんだと思って来た。

でも過去を今に持ち込まないと、軽くなる。
今?私?誰でもない何かがここにある。

あたまの中だけが騒いでいたんだ。
あたまの中だけが、あれじゃないこれじゃないと、苦悩していただけなんだ。
ことは勝手に起こっている。今も動き続けている。
それに判断を下していたのはあたまだけだった。判断が苦しくさせていたんだ。
過去に居続けたのは、あたまだけだった。

過去がつまった背負子をおろすと、安堵が広がる。
過去がどれだけ重かったのかを知る。

目の前に風景が広がる。
軽やかな何かが存在している。




絵:「主」/紙絵