2020年5月30日土曜日

玉ねぎの皮をむく



一日のうち、心の中を見ている時間の方がはるかに大きくなった。
それまでは外で起こっていることに意識が向けられて、外の問題をなんとかしようと躍起になっていた。今は内側を見ることに費やされている。

外で起こっていることは、すべて内側を見せるためのきっかけであることを知った。自分の内側を外にみているだけなのだ。

だから外で何が起こっても、その時に反応した自分の心に向かい、問いかける。
「これは何を私に教えようとしているのだろう?」

内面にばかり向いているからといって、外のことがおろそかになるわけではなく、むしろ落ち着いて対処できる。




内側の信念が外に現れているとするなら、内側を変えれば外が変わり、状況が変われば幸せになれると思ってきた。しかしそうではなかった。思考が現実化するわけではなかった。私はその考えにずいぶん振り回されてきた。

この世界を変えようとするということは、この世界は実在すると信じているからだ。
覚者はこの世界は幻想だといい、それをなんとなく私は信じてきたが、なんとなくだった。「知ってる知ってる言葉では。知識としてね」と。
しかしそれを本当のこととして、生きてはこなかった。

思考が現実化するなら、その思考を変えればいいと思っていた。
ポジティブ思考のような、都合のいいアファメーションではなく、
自分が本当に、本当に、信じていることを手放していけば、状況は変わるのではないかと。

しかしそれもまた同じことだった。
状況が変わるというのもまた、この世界があると信じ、その世界の一部を変えようとし、
その変わった証拠をひそかに見たいと望んでいたのだ。
これこそが、この世界が実在すると信じている証しに過ぎなかった。

「この世は幻想?知ってる知ってる、言葉でね」と。





では冒頭の、内面を見、自分が何を信じているかと知るのはなぜか。
理由は自分の反応の意味を知ることによって、何で自分がそういうふうに反応せざるを得なかったのかという謎が次々解き明かされていくからだ。
そしてその結果、平安がやってくる。

状況は変わらない。変わる必要もない。
なぜならその状況に対する自分の反応が、以前のそれとはまるで違うことが明白になる。

前は状況さえ変われば幸せになれると思ってきた。だから必死で外を変えようとしてきた。あれを手に入れたら、あの人が変わってくれたら、、、と。
だけど手に入れても変わらないものがあった。それは欠乏感。ものでも埋まらない、人でも埋まらないとてつもなく私たちを追い立てる焦燥感。

その正体を見る。
そのおもてに決して現れてこない、影で操るその正体。
私たちをいつも不幸に連れていくその正体。

その正体を光ものとに連れてくる。途端にそれは消える。
それは元々存在しないものだからだ。
そしてその正体こそが、この世界をあるかのように見せていた張本人。
覚者はそれを知っていた。



正体とは、私が持っている信念。この世でいきるために教わってきたあらゆる信念。
その信念を見、それが自分に必要かどうかを問うていく。
それは玉ねぎの皮をむくようなもの。

自分が持っている信念の皮を一枚一枚むいていく。
そして最後の皮がなくなった時、この仮想現実ではない別の世界が、本当は元々そこにあったのだということを教えてくれるだろう。



絵:「初夏の庭園」


2020年5月21日木曜日

ゆっくりと絵を描く




ゆっくりと、ゆっくりと、絵を描き始めた。


一ヶ月前の納品後、ニューヨークから仕事もなく、最近の日本の仕事も終わらせて、何もすることがなくなった。
昔の私だったら、焦って未来に繋げるために、何か「お金」になることを考えただろう。

だけどもうそれはしない。
それをやったって、どうにもならないことを知ってるから。
それは恐れを助長するだけで、その先には混乱しかない。恐れと混乱の中で、ぐるぐるとから回りし、余計に混乱して絶望に至ったことを何度も経験してる。


そのままにしておく。
静かの中にいる。
その平安の中でふと浮かんだものがあれば、体は勝手にやるだろう。

握っていた車のハンドルを手放す。(もちろん実際の運転のことじゃないよ)
今までは自分が運転していると思っていた。だけど本当は自分は運転などしていなかった。勝手にことは起こっていた。だけどずっと「私」が運転していると思っていた、そんな気がしていただけだ。
あるときに気がついた。
「これは私がやっているのではないのかも。。。」

恐る恐る手放すと、
ことは勝手に起きては消え、起きては消え、していた。

心の中も、湧いては消え、湧いては消え、していた。
それに伴う感情も、起こっては消え、起こっては消え、していた。

それはまさに「私」ではなかった。
なぜならそれを私は見ているからだ。見ているとは、それそのものではない。
今まさにパソコンを見ているから、それが私ではないように。





冒頭の話に戻る。

私は絵を描くことが好きだったに違いない。だがいつの間にか苦痛になった。
それはお金と引き換えになっていたからかもしれない。

お金という大事なものをもらう以上、人様にご迷惑をかけてはいけない。クライアントさんのいう通り、いやそれ以上のものを提出しなければいけない。
そういう呪いの言葉に私は長いこととらわれていた。そしていつの間にか、絵を描くことが嫌いになった。
「お金は我慢料」この世界で成功したある方がおっしゃっていた。私はまさに我慢料としてもらっていた。

だが本当は、クライアントのせいでも、我慢料の呪いでもなかった。
心の声に翻弄されていたのだ。自分のことを否定してくる心の声。
この声と戦い、ありとあらゆる方法で乗り越えようとしてきた。


長い声との闘争の末、私はあることに気づいた。

反応。

見たものに対する反応、それはいつも同じ反応だった。
私が絵を製作するときいつも抱いていた感覚。
プレッシャー、重さ、イヤーな気分。。。

すべての不幸は内側から起こる。
勝手に起こることに、嫌な反応を起こしていれば、また同じ反応になり、そこに葛藤や苦悩を生み出す。

それを選ばないという選択。それができることを知った。

そして別の反応に変えることができるのだということを。


ゆっくり。。。
ゆっくり。。。
そっと和紙に触れる。そっと和紙を切る。ちぎる。
そっと和紙を置く。
そっと筆を持つ。そっと絵の具をつける。そっと描く。

まるでリハビリをしているかのようだ。
それは絵を描くことに傷ついてきた心を癒すかのように。


忘れていたシーンを思い出す。
祖母のお屋敷で、祖母が庭いっぱいに広げてくれた雨戸。
幼い私は白いチョークを握りしめて、夢中で落書きをしていた。

バランスなど考えない、出来不出来など考えない、クライアント(祖母)が気に入るか、気に入らないか、など気にしない。ただただ楽しくて、嬉しくて、喜びでいっぱいだったあの日。

祖母は私の絵を消しもせず、そのまま雨戸として使い続けてくれた。

あの時の心が蘇ってくる。




絵:「アリスの森」


2020年5月12日火曜日

私って、もともとスローだったんだ




コロナ騒ぎが始まって、ある変化があった。
それは世の中がスローモードになったこと。

いつも3時に散歩に出かける私が、この頃よくご近所さんたちと道で会う。

みんなフルタイムの仕事がゆっくりになったり、リモートワークになったりと、家でいる時間が増えたため、運動不足になるから散歩を始めたんだそうな。

私は人が集まるところへは行かず、引きこもりがちで、もともとが自粛生活みたいなものなので、ほとんど変化はないが、関係ない私までがスローになった(笑)。



それは庭の草刈りで気づく。
今まで、焦って刈っていたのだ。

草刈りだけじゃない。
早く、早く、早く、、
早く仕事を終わらせて、早く休みたい。。。
早く休んだら、その次早くあれやって、、、
それが終わったらこれやって、
それのためにはこれを急いで終わらせて。。。
そうやっていっつも何をやるにも、焦って急いでやっていた自分に気づいた。


ああ、別に焦ってやらなくていいんだ、、、と思うとゆっくりになり、
草一本一本を感じながら、ていねいに刈る。
するときれいに刈れて、庭もきれいになり、
それがとても草刈りを楽しくさせる。


考えてみれば、世の中はほとんど「仕事ができる人」が基準になっている。

早く草刈りができる人が褒められて、のんびり草刈りをする人が怒られる。
基準はいつもできる人基準だ。
だから仕事がゆっくりな人はいつもダメ出しをもらう。しかしゆっくりな人が慌ててやるもんだから、ドジる。そしてまた怒られる。。。そんな繰り返し。



ああ、私ってスローだったんだ。
小さい時からいつもスローと呼ばれてからかわれた。
だからスローの私がいけないんだ、なんでも急いでやらなければいけないんだって思ってきたけど。。。

私、無理してたんだ。
もともとゆっくりな私が、何をやるにしても、急いでやらなければ!と思ってたから、とても苦しかったんだ。
だから何をやるのも億劫になってたんだ。


こうやって、ゆっくり草を刈るのはとても楽しい。
本当は、誰に咎められるわけでもないのに、無意識に慌てていた。自分のペースじゃないもんだから、イヤイヤやる。このイヤーな気分をなんとかやり過ごそうと、早く終わらしてしまおうと焦ってた。


ただ自分ペースでやればよかったんだ。
ものすごい単純な気づきなのに、本来の自分を取り戻したような開放感がある。

急いで、テキパキと、仕事ができる人基準で回っていたんだなあ、この社会。
私のペースじゃなかった。

でも、誰の?

本当はみんな、誰ともわからないものに後ろから突っつかれながら、やらされていたのかもしれない。
目に見えない魔物にあやつられながら。

その魔物は私の中にも住み着いていて、私を後ろから突っつく。
「ほら、つくし。何やってんのよ、はやくやんなさいよ」


魔物の声だけ聞くと、それがいるかのように思える。だからずっとその声を聞き続けた。その魔物のいう言葉を信じてやってきた。そして苦しんできた。

私はもうその声を聞かない。
それは振り返れば、そこには何もいないことを知っているから。




絵:「苔」


2020年5月5日火曜日

浜の思い出




寝苦しくて目が覚めた。
この不快なものを収めようと、考えが目まぐるしく巡る。

こう言う時、考えることによってその不快が収まりはしないことを何度も経験してきた。
観念して考えでごまかそうとするのをやめた。

布団で大の字になって全身を感じる。
全身が黒一色の人形に見える。パチパチと、あっちこっちに弾ける何かがある。ピキピキと割れるものがあり、体のあちこちが分解されていく。とにかく言葉では表現できないほど不快だ。

考えるより感じろ。
考えなど糞の足しにもならない。感じ取ることで、何かが動く。

胸のあたりがよじれるような、全身が分解されていくような、名状し難い不快感の中でじっと耐える。


しばらくすると、昼間に見た風景が現れた。海辺の風景。とてもいい感じの浜辺だった。私も海辺で育ったが、砂の色、岩の色、浜に広がる植生がどことなく違う。
それでも砂にめり込む足の感触は、懐かしいあの浜のそれと同じだ。

なんとも言えない思いが浮かんでくる。
心もとない何か。。一人でここにきてしまった寂しさ、悲しさ、不安感、孤独、、、。

今日あった彼のことを思い出していた。
独立して新たな道を選び、この土地に引っ越してきたものの、心もとない思いが彼の中にあるのだろうか。昼間の彼にそんな様子は微塵もなかった。

涙がこぼれ始める。これは私の涙だろうか、それとも彼の。。。?
一人ぼっちで寂しい。でも一人でなんとか生きていかねばならない。乗り越えていかねばならない。。
そんな思いが湧いてきた。

溢れてくる涙をそのままにし、心の中に現れる悲しさや寂しさを味わい続けた。



日頃、忙しい私たちは自分の闇を見る暇もない。どちらかというと、それは見ないようにしている。
特に幼い頃味わったものは、未消化のまま押入れの奥深くに隠して、そのままなかったことにする。

出来事は、必ずその人のために起こる。
出来事は、「ここに闇があるから消してくれ!」とやってくる。
海辺の街に行くことが、私のまだ未消化のものを消化するための出来事だったとは思いもしなかった。


私は最近物理的なものよりも、心の中にあるものの方が、より強烈に私たちに影響を与えると思い始めている。物質よりも、心の方がどれだけ力が大きいことか。

外にあるものが私たちを怖がらせるのではない。
私たちの心の中にあるものが、外のものをきっかけにして出てくるだけに過ぎない。
だから外のものが怖いからといって、その怖いものをどんなに消したところで、心にある恐れに向かい合わない限り、恐れはまた別の形を持って、現れてくるだけなのだ。


私は不快な思いが浮上するたび、それを正直に見出し、闇を押入れから引き出し、布団を干すように白日の元にさらす。その思いを浮上させて感じつくす。

その時、隠れているものはなんでも出てきていいんだとうながす。
孤独、不安、恐れ、悲しみ、怒り、なんでもあり。

怒りだからといっても暴れるわけではない。ただ体に現れる現象を「そうか。そうなんだ。。。」とそのままにしておく。静かにうごめく体の中の動きを、ただ眺めているだけなのだ。


意識にはわからない何かが、その時確実に働いている。
私たちの窺い知れないところで、それは確実に悲しみを消し、闇を消してくれている。
自分自身では全く解決できないことが、こうした明るみにする行為によって、勝手に解決されていく。
それは同じシチュエーションが起こった時、前のように反応しないその後の様子を見てわかる。


私は今、一人ではないことを感じる。

私はたった一人で生きているわけではなく、何かがすぐそばにいる。そばというよりはそれに包まれている。それはずっと前からあったのに、随分と忘れていた。
その何かが、人生の恐れや悲しみは、どうしようもなくあるものではなく、
それが全くない人生というものもあるのだと、教えてくれている。


不快だったものは、いつの間にか消えていた。

彼の中に、もし私と同じ思いがあったのなら、
それがなくなってくれていることを密かに願った。




絵:「夜の森」


2020年5月1日金曜日

森の散歩






山に入ると、深呼吸する。
山が「ようこそ!」と、招き入れてくれる。
私は「きました!」と、答える。

一歩一歩、山の砂利を足の裏で噛み締めながら、杉の林の向こうに見える青い空を眺める。
足元は見ない。だけど足が知っている。足は勝手に歩く場所を見つけてくれる。

周りを見渡すと、若葉が太陽を吸い上げて、ますます輝いている。

「いらっしゃい!」
「ありがとう!」
森の感謝の心が私に届く。
私もその感謝を受け取り、また感謝で返す。
そうすると、また森から感謝が帰ってきて、
私はまた感謝を返す。

そうやって心の中の喜びがどんどん広がっていく。
全身が喜びで満たされていく。森も一緒に喜んでる。
私も森も一緒くただ。



私の心の中はずいぶんと静かになった。
あれほど葛藤していたものはどこへ行ったのだろう。
一体何を悩んでいたのか、ほとんど忘れてしまった。

ずっと訓練していた。
自分の内側を見ること。
どんな些細なこころの動きも見逃さずに、表に出してくる。
そしてそれを裁かずに観る。
たとえ裁いてしまっても、それを赦す。
赦して赦して赦して、そしてまた赦す。

人は他人を責めているようで、実は自分を責めている。
だからひたすら自分を赦す。

そんな時にであった胸の奥にある喜びの火種の話。
胸の奥をいつも意識して「喜びは?ある?」
自分に問う。

じーっと静かにしていると、「あ、あるある」と、見つける。
そしてその喜びとともにいる。

行為は、何もいらない。
何もしない。
することといえば、心を正直に見ることだけ。
どんな心があっても自分を裁かない。
その出てきたものは、本当の自分ではないのだから。

心が静まってくると、そこにもともとあった喜びに気づく。
ただその喜びにフォーカスする。

喜びだけが本当のものだった。
あとはみんな存在しない。

気がつけば、全てが喜びでできていた。





絵:「見上げた空」