2020年5月5日火曜日

浜の思い出




寝苦しくて目が覚めた。
この不快なものを収めようと、考えが目まぐるしく巡る。

こう言う時、考えることによってその不快が収まりはしないことを何度も経験してきた。
観念して考えでごまかそうとするのをやめた。

布団で大の字になって全身を感じる。
全身が黒一色の人形に見える。パチパチと、あっちこっちに弾ける何かがある。ピキピキと割れるものがあり、体のあちこちが分解されていく。とにかく言葉では表現できないほど不快だ。

考えるより感じろ。
考えなど糞の足しにもならない。感じ取ることで、何かが動く。

胸のあたりがよじれるような、全身が分解されていくような、名状し難い不快感の中でじっと耐える。


しばらくすると、昼間に見た風景が現れた。海辺の風景。とてもいい感じの浜辺だった。私も海辺で育ったが、砂の色、岩の色、浜に広がる植生がどことなく違う。
それでも砂にめり込む足の感触は、懐かしいあの浜のそれと同じだ。

なんとも言えない思いが浮かんでくる。
心もとない何か。。一人でここにきてしまった寂しさ、悲しさ、不安感、孤独、、、。

今日あった彼のことを思い出していた。
独立して新たな道を選び、この土地に引っ越してきたものの、心もとない思いが彼の中にあるのだろうか。昼間の彼にそんな様子は微塵もなかった。

涙がこぼれ始める。これは私の涙だろうか、それとも彼の。。。?
一人ぼっちで寂しい。でも一人でなんとか生きていかねばならない。乗り越えていかねばならない。。
そんな思いが湧いてきた。

溢れてくる涙をそのままにし、心の中に現れる悲しさや寂しさを味わい続けた。



日頃、忙しい私たちは自分の闇を見る暇もない。どちらかというと、それは見ないようにしている。
特に幼い頃味わったものは、未消化のまま押入れの奥深くに隠して、そのままなかったことにする。

出来事は、必ずその人のために起こる。
出来事は、「ここに闇があるから消してくれ!」とやってくる。
海辺の街に行くことが、私のまだ未消化のものを消化するための出来事だったとは思いもしなかった。


私は最近物理的なものよりも、心の中にあるものの方が、より強烈に私たちに影響を与えると思い始めている。物質よりも、心の方がどれだけ力が大きいことか。

外にあるものが私たちを怖がらせるのではない。
私たちの心の中にあるものが、外のものをきっかけにして出てくるだけに過ぎない。
だから外のものが怖いからといって、その怖いものをどんなに消したところで、心にある恐れに向かい合わない限り、恐れはまた別の形を持って、現れてくるだけなのだ。


私は不快な思いが浮上するたび、それを正直に見出し、闇を押入れから引き出し、布団を干すように白日の元にさらす。その思いを浮上させて感じつくす。

その時、隠れているものはなんでも出てきていいんだとうながす。
孤独、不安、恐れ、悲しみ、怒り、なんでもあり。

怒りだからといっても暴れるわけではない。ただ体に現れる現象を「そうか。そうなんだ。。。」とそのままにしておく。静かにうごめく体の中の動きを、ただ眺めているだけなのだ。


意識にはわからない何かが、その時確実に働いている。
私たちの窺い知れないところで、それは確実に悲しみを消し、闇を消してくれている。
自分自身では全く解決できないことが、こうした明るみにする行為によって、勝手に解決されていく。
それは同じシチュエーションが起こった時、前のように反応しないその後の様子を見てわかる。


私は今、一人ではないことを感じる。

私はたった一人で生きているわけではなく、何かがすぐそばにいる。そばというよりはそれに包まれている。それはずっと前からあったのに、随分と忘れていた。
その何かが、人生の恐れや悲しみは、どうしようもなくあるものではなく、
それが全くない人生というものもあるのだと、教えてくれている。


不快だったものは、いつの間にか消えていた。

彼の中に、もし私と同じ思いがあったのなら、
それがなくなってくれていることを密かに願った。




絵:「夜の森」


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