2020年5月21日木曜日

ゆっくりと絵を描く




ゆっくりと、ゆっくりと、絵を描き始めた。


一ヶ月前の納品後、ニューヨークから仕事もなく、最近の日本の仕事も終わらせて、何もすることがなくなった。
昔の私だったら、焦って未来に繋げるために、何か「お金」になることを考えただろう。

だけどもうそれはしない。
それをやったって、どうにもならないことを知ってるから。
それは恐れを助長するだけで、その先には混乱しかない。恐れと混乱の中で、ぐるぐるとから回りし、余計に混乱して絶望に至ったことを何度も経験してる。


そのままにしておく。
静かの中にいる。
その平安の中でふと浮かんだものがあれば、体は勝手にやるだろう。

握っていた車のハンドルを手放す。(もちろん実際の運転のことじゃないよ)
今までは自分が運転していると思っていた。だけど本当は自分は運転などしていなかった。勝手にことは起こっていた。だけどずっと「私」が運転していると思っていた、そんな気がしていただけだ。
あるときに気がついた。
「これは私がやっているのではないのかも。。。」

恐る恐る手放すと、
ことは勝手に起きては消え、起きては消え、していた。

心の中も、湧いては消え、湧いては消え、していた。
それに伴う感情も、起こっては消え、起こっては消え、していた。

それはまさに「私」ではなかった。
なぜならそれを私は見ているからだ。見ているとは、それそのものではない。
今まさにパソコンを見ているから、それが私ではないように。





冒頭の話に戻る。

私は絵を描くことが好きだったに違いない。だがいつの間にか苦痛になった。
それはお金と引き換えになっていたからかもしれない。

お金という大事なものをもらう以上、人様にご迷惑をかけてはいけない。クライアントさんのいう通り、いやそれ以上のものを提出しなければいけない。
そういう呪いの言葉に私は長いこととらわれていた。そしていつの間にか、絵を描くことが嫌いになった。
「お金は我慢料」この世界で成功したある方がおっしゃっていた。私はまさに我慢料としてもらっていた。

だが本当は、クライアントのせいでも、我慢料の呪いでもなかった。
心の声に翻弄されていたのだ。自分のことを否定してくる心の声。
この声と戦い、ありとあらゆる方法で乗り越えようとしてきた。


長い声との闘争の末、私はあることに気づいた。

反応。

見たものに対する反応、それはいつも同じ反応だった。
私が絵を製作するときいつも抱いていた感覚。
プレッシャー、重さ、イヤーな気分。。。

すべての不幸は内側から起こる。
勝手に起こることに、嫌な反応を起こしていれば、また同じ反応になり、そこに葛藤や苦悩を生み出す。

それを選ばないという選択。それができることを知った。

そして別の反応に変えることができるのだということを。


ゆっくり。。。
ゆっくり。。。
そっと和紙に触れる。そっと和紙を切る。ちぎる。
そっと和紙を置く。
そっと筆を持つ。そっと絵の具をつける。そっと描く。

まるでリハビリをしているかのようだ。
それは絵を描くことに傷ついてきた心を癒すかのように。


忘れていたシーンを思い出す。
祖母のお屋敷で、祖母が庭いっぱいに広げてくれた雨戸。
幼い私は白いチョークを握りしめて、夢中で落書きをしていた。

バランスなど考えない、出来不出来など考えない、クライアント(祖母)が気に入るか、気に入らないか、など気にしない。ただただ楽しくて、嬉しくて、喜びでいっぱいだったあの日。

祖母は私の絵を消しもせず、そのまま雨戸として使い続けてくれた。

あの時の心が蘇ってくる。




絵:「アリスの森」


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