いつものようにスーパーで買い物をした時のこと。
新しく見つけたスーパー。
美味しいものが食べたいので、あれやこれやとついつい手にとってしまう。
たくさん買っていっぱいお金を使ったことを後悔した。
胸にチクっと痛みがやってきたとき、
あることを思い出した。
それは先日のこと。
その内容はもう忘れたんだけど、
苦しさで悶々としていたとき、
「夢を見ているもののところに立て」というひらめきが来た。
その場所に立とうとした瞬間、私の中から苦しみが消えたのだ。
それを思い出したのだった。
スーパーの出口から大きな木が見えた。
赤く色づき始めている。
なんとなくそれを見ながら、
「私は夢を見ているもののところに立つ」と心で言った。
次の瞬間、それまで心にあった罪悪感が消えた。
目は相変わらずその大木に注がれている。
赤い葉っぱがハラハラと風に舞っている。
見ているものは何も変わらない。
しかし心が静かになった。
この世界の中に私はいなかった。
そのとき、私はこの夢の「主人公」ではなかった。
「夢を見ているもの」と「夢の主人公」の違いは、
私の捉え方としては、
双六の上にいるコマの一つの「夢の主人公」に対して、
「夢を見ているもの」は、
双六盤から垂直に上がった、
上の方からこの世界を俯瞰して見ているものなのだろうと思っていた。
これが本当に「夢を見ているもの」の視点かどうかはわからないが、
その視点に立った時、私は1ミリも動いてはいなかった。
全く同じ場所から夢を見ていた。
でも心は完全に違った。
なんの悩みも心配も消えている。
この世界を、ただ見ていた。判断一つなく。
静かで平安で、そしてここの住人ではなかった。
自分という形が消えていた。
判断は、この世界を実在させる。
判断は恐れを抱かせ、それをリアルにする。
お金を使ってしまった!という恐れは、
お金というものが実際にあって、それでものを買う。
そのお金は増えたり減ったりする。
その減り具合や増え具合で、人は一喜一憂する。
その時、私は夢を見るものではなく、夢の主人公になり、
モノポリや双六の上に立って、あてのない水平線上をウロウロする。ゴールは死だ。
私は死さえも、夢を見ているものとして見ていられるだろうか。
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