今回の冊子作りの中で、自分がいかに評価というものに
囚われ続けてきたかということをいやほど知らされた。
イラストレーターの私は、
クライアントが私の作品を見て、気に入れば「いい」となり、
クライアントが気に入らなければ「悪い」となる。
一個一個の仕事に常にクビがかかっている。
「悪い」と判断されれば、そのあとの仕事には繋がらない。
その恐ろしさに夜も寝られないほどであった。
そこまで?と笑われても仕方ないのであるが、本人は本気。
フリーランスには何の後ろ盾もない。
あれから40年(きみまろ風)。
その癖のツケが今回束になって私を襲った。
私は評価という名の一つのコインをずっと握っていた。
表には「評価される」と書いてあり、
裏には「評価されない」と書いてある。
ピンっと空中に飛ばし、手の甲に表が出ればホッとし、
裏が出れば、落ち込む。
表が出るか裏が出るかは運次第。
どうにかして表ばかりを出してやろうと必死に頑張ってきた。
しかし所詮コインだ。
そのコインには必ず喜びの背後に苦しみが寄り添う。これが二元の世界。
どっちを求めてももう一方がくっついてくる。
このコインは、罪のコイン。
罪悪感を持っている限り、このコインをつかんでいる。
「いい」作品を作ること。
それは人によっていいか悪いか違うという曖昧なものであるにも関わらず、
それが絶対的な掟のように、
評価されることが自分がここにいていいと了解を得ることだと信じている。
人によって違う評価を絶対的なものにすることは、
苦痛しかないにも関わらず、それにすがってきたのだ。
そしてもうこのコインを握りしめていることは
苦痛以外の何者でもないとはっきりわかった時、
私はそれを手放そうと思った。
ところが手放せなかったのだ。
この商売の持って生まれた性質というものであろうか。
評価された時の快感は、この上ないものだったのだ。
評価されないことへの苦しみと同時に、
評価された時の喜びは天にも登る気持ちになった。
その時の一種の快楽は、
同じ商売をしている人たちにわかるものだと思う。
特別性。
それは誰でもない、自分が作った自分の作品への評価。
その「自分」というものの特別性に魅了されるのだ。
だが反面、40年間「よかったよ」という言葉にホッとし、
その言葉に励まされてもきたんだ。
「あなたはここにいていいんだよ」とその瞬間だけ、
この世界にいる許可をもらった気になった。
特別性とホッとすること。
この二つはどういう違いがあるのか。
特別性には、優位性や優越感に浸る、
一個の独立した「私」というものがぬっと立ち上がる。
そしてどこか人を見下す立ち位置にいようとする。
しかしホッとする方は、優位性や優越感ではなく、
他人との境界線が入った独立した私ではなく、
フワッと溶けて消えていくような開放感があった。
罪のコインを握っている限り、「認められなければいけない私」がいた。
欠けている私、足りない私。
だからこそ人に認められなければ、埋められない私がいた。
ホッとした時、そこに認められなければならない「私」は消えていた。
いつでもそこにいてよかったのだ。
そしてだんだん気づいてくる。
あれは「私」が作った作品だったのか?
ただ作らされていただけなのではなかったかと。
自分のものにしたいという欲求と、自分のものではないという解放。
マトリックスの1シーンが思い出される。
ネオがエージェントと戦っている最中、ただ戦いを見ているだけのあの静かなシーン。
あれが「夢の主人公」ではなく、
「夢を見ているもの」の位置なのか。
その位置から世界を見たい。
絵:「ミツバチのささやき」