2024年2月23日金曜日

コインを握りしめていた


 

今回の冊子作りの中で、自分がいかに評価というものに

囚われ続けてきたかということをいやほど知らされた。


イラストレーターの私は、

クライアントが私の作品を見て、気に入れば「いい」となり、

クライアントが気に入らなければ「悪い」となる。


一個一個の仕事に常にクビがかかっている。

「悪い」と判断されれば、そのあとの仕事には繋がらない。

その恐ろしさに夜も寝られないほどであった。

そこまで?と笑われても仕方ないのであるが、本人は本気。

フリーランスには何の後ろ盾もない。


あれから40年(きみまろ風)。

その癖のツケが今回束になって私を襲った。




私は評価という名の一つのコインをずっと握っていた。

表には「評価される」と書いてあり、

裏には「評価されない」と書いてある。


ピンっと空中に飛ばし、手の甲に表が出ればホッとし、

裏が出れば、落ち込む。

表が出るか裏が出るかは運次第。


どうにかして表ばかりを出してやろうと必死に頑張ってきた。

しかし所詮コインだ。

そのコインには必ず喜びの背後に苦しみが寄り添う。これが二元の世界。

どっちを求めてももう一方がくっついてくる。


このコインは、罪のコイン。

罪悪感を持っている限り、このコインをつかんでいる。


「いい」作品を作ること。

それは人によっていいか悪いか違うという曖昧なものであるにも関わらず、

それが絶対的な掟のように、

評価されることが自分がここにいていいと了解を得ることだと信じている。


人によって違う評価を絶対的なものにすることは、

苦痛しかないにも関わらず、それにすがってきたのだ。



そしてもうこのコインを握りしめていることは

苦痛以外の何者でもないとはっきりわかった時、

私はそれを手放そうと思った。


ところが手放せなかったのだ。


この商売の持って生まれた性質というものであろうか。

評価された時の快感は、この上ないものだったのだ。


評価されないことへの苦しみと同時に、

評価された時の喜びは天にも登る気持ちになった。

その時の一種の快楽は、

同じ商売をしている人たちにわかるものだと思う。


特別性。

それは誰でもない、自分が作った自分の作品への評価。

その「自分」というものの特別性に魅了されるのだ。




だが反面、40年間「よかったよ」という言葉にホッとし、

その言葉に励まされてもきたんだ。


「あなたはここにいていいんだよ」とその瞬間だけ、

この世界にいる許可をもらった気になった。




特別性とホッとすること。


この二つはどういう違いがあるのか。


特別性には、優位性や優越感に浸る、

一個の独立した「私」というものがぬっと立ち上がる。

そしてどこか人を見下す立ち位置にいようとする。


しかしホッとする方は、優位性や優越感ではなく、

他人との境界線が入った独立した私ではなく、

フワッと溶けて消えていくような開放感があった。


罪のコインを握っている限り、「認められなければいけない私」がいた。

欠けている私、足りない私。

だからこそ人に認められなければ、埋められない私がいた。


ホッとした時、そこに認められなければならない「私」は消えていた。

いつでもそこにいてよかったのだ。



そしてだんだん気づいてくる。

あれは「私」が作った作品だったのか?

ただ作らされていただけなのではなかったかと。


自分のものにしたいという欲求と、自分のものではないという解放。


マトリックスの1シーンが思い出される。

ネオがエージェントと戦っている最中、ただ戦いを見ているだけのあの静かなシーン。


あれが「夢の主人公」ではなく、

「夢を見ているもの」の位置なのか。



その位置から世界を見たい。



絵:「ミツバチのささやき」




2024年2月20日火曜日

町会の歴史を辿るということは、、



町会の冊子が出来上がってきた。

印刷状態も良く、製本も美しくほっとする。


さて次の恐れがやってくる。

これを見た町会の人に何を言われるんだろう?

どんな間違いを指摘されるんだろう?


だが一番うるさかったオヤジが、「よくやった」と褒めてくれた。

それだけでこれまでの苦労が泡となって消えていった。



200メートルぐらいの長さの東西に伸びる町会には神社が4つある。

その一つ一つの歴史も冊子で辿ったので、一つ一つにお礼を言いに行く。

またそれぞれのいわれのあるお地蔵様たちにもお礼を言いにいった。




夜、小さな恐れが私を悩ます。

ああ、またきた。。。どうすればいいんだろう。。?


そうだ。これは消えていくために現れているんだと思い出した。

小さなゴミのような恐れがいくつも中に浮き上がって、だんだん上に上がっていく。


こうやって消えていくんだな。。。

私はそれをじっと見守る。


するとある人のことが頭に浮かんだ。

そうだ、あの人の心が癒されますように。

そっと祈る。


祈れば、次に別の人の顔が浮かぶ。

ああ、この人も苦しんでいたよな。

そうやって、町会の人々の顔が浮かんでは祈ることが続いた。


小さなゴミのような恐れは次から次へと現れては上に上がって消えていった。





町会の歴史を刻むことは、過去を定着させることになるんではないかと思っていた。

そういう意味ではこの世界を実在化する。そんな恐れがあった。


しかし別の解釈があったのだ。

この小さな町会に埋もれていた歴史を表に表すことで、それは浄化され消えていくのではないか。

恐れが表に出てきて浮上し、消えていくように。


私が調べられた範囲は、ほんの少しの江戸時代の話と、せいぜい戦後のことだ。

文献もなく、ご長老は次々に亡くなっていき、語る人もいなくなる。

でもそれでいいのだ。


今の生きている人たちの背後に脈々と続いてきたものがある。

そこに触れたことで、過去の恐れや苦悩を浮上させ、昇華させるのではないだろうか。




私は民俗学者の宮本常一さんが大好きだった。

著書『忘れられた日本人』の中の、「土佐源氏」馬喰の話には心が震えた。

彼は名もなき物語を浮上させ、人々の心を癒す役割を担っていたのだろう。


あるいは私もまたこの町会の背後にあるものに、

動かされていたのかもしれない。




絵:おぼろ月夜




2024年2月16日金曜日

愛からは、愛が生まれる

 


一年半関わっていた町会の冊子作りの版下がついに入稿された。


ホッとしたのもつかの間、ひっきりなしに思い出され、恐れが浮上する。

あれは大丈夫だっただろうか。

あの書き方はまずかったんじゃないか。

あれほどチェック入れたけど、まだどこか抜けているんじゃないか。

とんでもないものが抜けているかもしれない。。

あとでどんな言われ方をするんだろう。。。

恐れで震える。


たまらなくなって、ダンナに話す。

「あんなものは、5分見たら忘れる。文句があってもそのうち忘れる」だから気にすることはないという。

「そうだよね。」彼の優しさに一瞬ホッとしながらも、やっぱり恐れは消えなかった。


彼と話している時、一瞬あるものが見えた。

それは私というものが、この小さな体に入っているというビジョン。


次に出てきた疑問。


「本当の私は?」


あ。私はカタチじゃないんだった。

この体に入っている「私」じゃなかったんだ。


じゃあ、本当の私は?


なんの形もない存在、それは言葉にするなら、愛だ。

そうだ。私は愛だ。。。。




私はあの冊子を、愛を通して作ろうとしてきた。

この町会の人々のことを思い、愛で作ろう、愛で作ろうと試みてきた。


梨の木には、梨の実が、リンゴの木には、リンゴの実ができる。

では愛という存在が作ったものは、愛なのではないか?


そう考えた時、私は見ているところを間違えていたことに気がついた。


この小さな体の中から見るならば、必ず恐れを見つけ出す。

それは個別の私という分離から見られたものだから、分離しか見えない。


言葉という分離、自分と他人というカタチの違いの分離、正しいと間違いという考えの分離。。。


肉眼の知覚から見るならば、違いを見る。


しかし愛の視点で見るならば、それをはるかに超えていく。


肉眼の知覚から見るならば、恐れの材料を見る。

愛の視点で見るならば、愛しか見えない。


どちらを選ぶ?

私は今選ぶことができる。


そう気付いた時、私の心は初めて平安になった。




絵:ラブロマンス表紙イラスト




2024年2月6日火曜日

石の静けさ



最近、ダンナが石を写しだした。


目の前の河原で拾ってきた石たちが家のそこら中にある。

石を写していると、心が静かになってくるというのである。


彼は被写体によって、自分の心が変化する面白さに気がついていた。

花には花の華やかさと楽しさが、枯れ木には枯れ木の美しさがあるが、

石はまったくの沈黙の中にいて、それが心地よいのだそうだ。

試しに私が持っているアンモナイトの化石を渡したら、

「これはうるさい」とのことであった(笑)。


私は毎晩窓を開けて夜の山を眺める時間を作るのだが、

興味本位でその中から一個の平べったい石を選び、

両手で包んで目をつぶってじっとしていた。


すると心がどんどん静けさの中に入っていく。

心の中の声が消え、さらにその奥まで入ってくようだった。

面白くなった私は、枕の下にその石を入れて寝てみた。

眠りに入る前から心は静かなまま。朝も本当に静かなまま起きた。


あれから私はその石と共に寝る。

人はこうやってこの石に特別な思いを込めていくのだろうか。


でも私はその石が特別な石だとは思えない。

石は単に私に静けさを思い出させてくれたのだ。

心の静けさとはこういうものだと。




昨日は雪が降った。

いつも雪と聞くとソワソワする高知県人の私が、

なぜか心がソワソワしていなかった。


最近、どこかボワーンとしている。


今まで、世界は私に爪を立ててきた。ネコが爪を立てるように。

この世界は私が気を緩めると、とんでもない悪いことが起こる。

だから常に見張ってないといけないと思っていた。

この世界はとてつもなく私に悪さをする世界、罰を与える世界、

悲劇を与える世界、強烈にリアルな体験をさせてくる世界だった。


ボワーンは、その実感がないのだ。

今は爪を引っ込めて、ネコのもふもふの手で、もふもふ触られているような。

この世界にリアル感がなくなってきている。



この感じ。ちっちゃい時にあった。

何もかもがボワーンとしてて、あったかくて安心している感じ。


でもいきなり「なにしよらあ!」「なにしゆうがぞね!」

と、訳も分からないまま親に怒られて、そのボワーンの中でいられないことを知る。

そして必死にこの世界の中に入ろうとした。


そしてある日、この体の中にかっちり入ったのだ。

「あ。入った」と、入った瞬間を覚えている。


今、そこに入る前の私に戻っている。

(気がするw)


静かで、あったかくて、安心している。





絵:おしゃべり