2018年8月30日木曜日

幸せ感




ちいさいとき、欲しいものを手にしたとき、天国にも昇るような気持ちになった。

寝る前に枕元にそれを置き、眺め、幸せな気分になり、朝起きてそれに気がつくと、また天国に昇るような気分になった。

しかしそれも四日と持たない。五日目にはそれがあるのが普通になり、枕元には置かなくなり、やがておもちゃ箱の片隅に葬り去られる。

大人になっても同じことが繰り返された。
いや、大人になったらもっと幸せ感が短くなった。
二日。。。いや、一日で終る。
やった!ゲット!幸せ~~~♥となるも、次の日には、
「ありますけど、それがなにか?」となる。

おいしいものを食べても、「う~~ん、おいちい!」と、幸せ感がマックスになるが、口からその味が消える頃には、幸せ感が消える。
だからもう一口、もう一口と食べ続ける。
しかしじょじょに幸せ感は薄れ、食べ過ぎた頃には逆に不幸な気分になる。

最初の出会いが大きくて、その幸せ感を再現しようとその店に通うが、最初の衝撃は二度と味わえない。回数が増えるごとに幸せ感は急速に薄れていく。

若い時は、仕事をゲットした時によろこび、納品した時によろこんだ。
今は、仕事をゲットしたとき、ほっとし、納品してほっとする。これは若い時の幸せ感とは微妙にちがう。幸せ感というよりは、「すこし寿命が延びた」的な安堵だな(笑)。

どうも人の幸せ感は、何かを手に入れて感じるもののようだ。
ある条件があって、それをクリアしたとき幸せを感じる。条件づけの幸せ感。それは時間とともに消える。最初マックス。それからじょじょに落ちていく。
そのあとの何かしらの心もとなさは、次の幸せ感を求めてさまよう。今日はあそこであれ食べよう~!あのお店に次の新しい秋ものの服があるかしら?
それもまた人生の醍醐味。味わい。

でもどこかむなしさを感じる。
ずっとなにかをゲットし続けて、幸せをもらっているだけなのか?
ずっと何かをクリアし続けて、幸せをもらっているだけでいいのか?

幸せは自ら生み出せないものなのか?
何の条件も持たず、ただ幸せではいられないのか?
なにもせず、ただぼーっとしているだけで、幸せになはれないのか?
そう考えながら、庭の木々たちを眺める日々が続いた。


それはあるときふいに来た。
バイト先でトレイを拭いている最中に、唐突に来た幸せ感。
何の条件づけもない。何もゲットしていない。しかもつらいバイトをしている最中。
すべてが愛おしくなった。
目の前を通り過ぎるおばさん、おじさん、わかいおねえちゃん、おにいちゃん、
みんなが愛おしくなった。トレイが愛おしい。タオルも愛おしい。それを拭いている手も愛おしい。
目に見えるすべてのものが愛おしくなった。
内側から、何か意味のわからないものがどんどんあふれてくる。ついでに涙もあふれてくる。
ヤバい。誰かに見られたらへんだとおもわれる。
だけど止められないこの恍惚感。なんじゃこりゃ?
何かをゲットして得た幸せ感とはまるでちがう、これがちまたでいう至福というやつなのか。

その至福感は45分ほど続いた。
そのあとは何事もなかったかのように、いつもどおりの感覚に戻った。



たとえばジャングルの未開の人に、フェラーリ一台プレゼントしても、
「なんのこっちゃ?」と、幸せ感など感じないだろう。
条件づけの幸せ感は、その記憶の中に教えられた「価値観」がある。その価値観を元に、幸せを感じるものだ。しかしわたしがあのとき感じた幸せ感は、そういう教えられた価値観を越えている。それはジャングルの未開の人にも宇宙人にも共通して感じられるなにかだ。

それはもともと私たちがもっていたものではないだろうか。生まれてまもない頃もっていた感覚。
自分も他人もなく、自分と布団という違いもなく、そもそも自分という個別の意識さえもない存在。その存在がつねにもっていた感覚。ほとばしるような爆発するような感覚!

ただ私たちはそれを忘れることを選んだ。
忘れて個人個人になり、個別の人生を生きることを選んだ。


でもどこかで寂しい。なにかが欠けている感覚が残る。
その寂しさを、物をゲットすることで、あの感覚を思いだそうとしているのではないか。
あの至福感の擬似体験として。





紙絵:「つた」



2018年8月8日水曜日

努力の人


父は努力家だった。

4度の手術でも、その後の回復力は目を見張るものがあった。それはひとえに彼の地道な努力によった。ずっとずっと地道な努力をしてきた父。それは最後の日々の中にも現れていた。

父の手帳には文字がぎっしり埋め尽くされていた。
その日のお天気、気温、朝の血圧、便の回数、状態、食事の回数、薬の回数、おしっこの回数、夜の血圧、、、。

時間通りに起き、時間通りに朝食を取り、コーヒーを飲み、昼食を取り、おやつを食べ、夕食を食べ、時間通りに寝る。

義母から聞く父の日々の過ごし方は、尋常じゃなかった。きっちり決めた時間ぴったりに食べていたのだ。

亡くなる四日前、わたしは父が日記を付ける様子を見ていた。
「今日のお天気は、、、晴。。。
気温は、、、24度。。。
血圧は、、、上が、、、120、、、。
下が、、、80、、、。」
と、いいながらボールペンで書く文字は、わたしにはまったく読めなかった。

震える手で必死で手帳に書き込む父。まるで自分が今ここに生きているという証を刻み込もうとしているかのように。

「起きたいのに、起き上がるなと言われる、、、歩きたいのに、危ないから歩くなと言われる。。なんちゃあできんじゃいか。。」
リハビリに精を出し、医者や看護婦さんたちを驚かせて来た父は、何もせんでいいと言われ、なにも出来ない自分を嘆いていた。
努力の人は、最後まで何かをがんばろうとしていた。



人は、自分がここにいていいという証をもらおうとする。
努力をして褒められることで、父は生きていた。
父だけじゃない。わたしも。

フェイスブックが流行るのも、何かをして、「いいね!」といってもらうためだ。
人に認められて、自分はここにいていいんだと安堵する。

しかしそれは一瞬。
あっというまにその安堵は消えてしまう。
そしてまた次の「いいね!」をもらうために、何かをしようとする。

しかしそれも出来なくなったとき、父はそのよりどころをどこに求めれば良かったのか。




私たちはなぜか、自分で自分を認められない。何もしないでいる自分を認めることは出来ない。ただそこにいるだけでいいのだ、とはほとんどの人が思わない。だからなにかして、それを他人に支持されることで、はじめて自分を認める。

父の最後もなにかしようとしながら行った。
いったい誰に認めてもらうために?
人ではない、何か大きなものに?

その「大きなもの」は、なにもしていない私たちを認めないのだろうか。



赤ちゃんは何もしなくても、その存在が認められる。しかしだんだん大きくなるにつれて、何かしないと認めてもらえなくなる。役に立つことがそこにいていいこととされる。
そして年老いて役に立たなくなることを怖れる。
役立つことだけじゃない。運動をする。知識を増やす。学ぶ。遊ぶ。ひたすらなにかすることを探す。もっと、もっと、もっと。


「大きなもの」は、そんな条件付きの愛し方をするのだろうか。
父のあの日記を埋め尽くした文字らしきものをみて、
「ウン。努力が見られる。君を認めよう!」と?

それはただ父が思い描く事実だったのではないか。つねに努力していないと自分はここにいちゃいけないんだと思い込んだ強迫観念だったのではないか。
本当はなにかしてないと、心が落ち着かなかったのではないか。

父の最後の姿を通して、人が自分で自分を認められない苦しみを、わたしに見せてくれた気がした。

そういうわたしも何もしないでいると、心がそわそわして、身体がどこかに動こうとする。彼の焦燥感は、わたしにも引き継がれている。

大きなものは、そんなわたしたちをまるっとひっくるめて、ただ受け取っている。どんな生き方をしようと、どんなにずるくても、それはただただ愛してくれる。


父は愛されていた。
それはわたしも同じ。
それを自分自身が受け入れられるかどうか、だ。







2018年8月5日日曜日

あ、きゅうりがない


「あ。きゅうりがない。。。あ。とうもろこしもない。。。」
畑にあったはずのものが、どっちも消えていた。

「。。。。」
なんも言えない。

気を取り直して、秋に植えるダイコン用の畝の草を刈りはじめる。
「これもサルに引っこ抜かれるんだろうな。。。」
そう思うと、急にやる気が失せた。


サルも食べる野菜をわたしが口に出来るのは、年々減って来て収穫の1割程度。じゃがいも、とうもろこし、えだまめ、キュウリ、ダイコン、ズッキーニ、さつまいも、落花生、今年はトマトと、残り9割はサルどんに寄付している状態である。
近所の人に「オタク、サルに餌付けしてるんじゃないの?」
とかいわれそうなくらいである。



人の行動は必ず目的を持っている。
「収穫」という結果を求めて種を蒔く。

それは畑だけじゃない。すべてだ。
絵を描くのも、仕事するのも、『良い結果』をゲットする!という大前提を目標に行為する。
物だけじゃない。評価もそうだ。
人にほめられるため、人にここにいていいと言われるため、人にすごいやつだといわれるため、人にうらやましがられるため。
はたまた、神さまに認められるため。
地獄でなく、天国に入れてもらうため。
行為の後ろに必ず「目標=結果」という動機がある。

わたしもイヤシさゆえに、そして無肥料無農薬でも育つ!と言わせたいがために、種を蒔く。
それがことごとく否定される現実。

「結果」を求めちゃいけないのか?
人並みの欲をもってはないけないのか?
ひとり畑で呆然とする。




人は結果を良い方に望む。悪い結果を望む人はいない。
結果に判断を下す。「これは良い結果だ。それは悪い結果だ」と。
それが苦悩を生む。
そして出来れば、つねに良い結果だけを求める。
それがますます苦悩を生む。


しかし良い悪いはどこで区切るかで判断が変わってくる。目先の事で区切ればこの畑の結果は悪い事だ。しかし何年という単位でもっと引いて見れば、この畑は良いか、悪いかと言えば、良い結果に思える。もっと引いて、わたしの人生という区切りで見れば、良い結果だと思えてくる。
なんだ。大きく引いて見れば見るほど、良い結果しか見えてこないじゃないか。




「現れてくる現象を理解することなどできない」
そんな言葉が浮かんだ。

思考は、あらわれてくる現象を、「これはいったいどういうことだ!?」と、理解を求めようとする。
それは心が納得、安心したいからだ。

「この夏の暑さはいったいどういうことだ!?」
というと、気象庁は南の海水温が上昇しているから、、、とかいろいろいってくれるだろう。けれどそれを知ったからといって、じゃあ海水温を下げて、、とか解決法があるわけでもない。せいぜい熱中症にならないように気をつけるぐらいだ。そもそもなんで海水温が上がっているのかもあいまいだ。

「何で畑にサルがやってくるのだ!?」と、理解しようとした所で、何の解決にもならない。鉄砲で撃つことも出来ないし、電気を張り巡らせることも出来ないし。


心が納得し、安心できるものが何一つない。

それでも手は勝手に草を刈る。
またそこにダイコンの種はまかれるのだろう。






2018年8月4日土曜日

犬の夢を見た


昔からときどき見ていた夢。
それは犬にエサと水をあげなかった後悔の夢。

しまったあ!
あげてなかった!
どうしよう!
生きているんだろうか~!

動揺と恐怖が一瞬に起こり、慌てふためく。
ドキドキして、目が覚める。
まわりを見渡すと今。昔の犬はとっくにいない。水もエサもあげる必要もなく、ホッとする。
だけどあの夢はなんだ。。?
答えは出ない。

今朝、久しぶりに見た、あの種類の夢。犬にエサと水をあげなかった夢。
続きがあった。

それは「ナナ」と言う名前だった。
わたしが二歳の時にもらわれて来た犬の名前。
親に殴られた時、同級生にいじめられた時、ナナはいつもそばにいてくれた。毛むくじゃらのヨークシャテリアの雑種、ナナ。


しかし夢のそれはカタチがすこしちがっていた。
グレーのまだら犬。
最初はハムスターみたいに小さかった。長いこと水とエサをあげなくて、生きているのか死んでいるのかわからない、手の平に乗るサイズの小さな毛の塊。
それに水をあげた。エサも食べた。
生きていた。

急に大きくなって中型犬になった。まったく余分な脂肪のない、野性的な犬。オオカミを細くしたようなスマートで、肩から前足にかけて赤く太いラインが走っている、ふしぎな柄をした犬ナナ。

ナナに首輪はいらない。リードもいらない。
わたしが思っている事、考えている事、それを前もって予期したかのように動く。すっとどこかに行っては、さっとわたしが居てほしい場所にいる。邪魔するでもなく、触りたくなれば、触らせてくれる。ほっておいてほしければ、適度な距離をもって、遠くからわたしを見ていてくれる。クマの足あとを教えてくれる。そこから先には行かないように、言葉もなくおしえてくれる。
ナナはわたしの考えを大きく上回る知性を持っていた。

ふと気がつく。
ナナは、ずっといつもわたしのそばにいた。
わたしはそれを忘れていただけだ。
「精霊。。。」
思わぬ言葉が心にわいた。

ナナはわたしの精霊だった。
エサと水を与えていなかったという後悔は、わたしがその存在を忘れていたということだったのか。
「何かを忘れている、すぐそばにいた、ほら、あのなにかを。。。」
それを暗示するかのように、その後悔の夢があったのかもしれない。

それが犬のカタチをしているかどうかは知らない。
ナナと言う名前なのかどうかも知らない。
ひょっとしたら、小さいとき飼っていた犬に、ナナという名前を付けさせたのは、その存在か。

私のそばには、私が考えるよりもはるかに大きな英知を持った存在が、そっと寄り添っている。いつでも、どこでも。

それに気がついていることが、水とエサを与えるという象徴になっていたのか。


そして、それは今も、すぐそばにいる。







2018年8月2日木曜日

雑草のとらえかた


家の外装工事が終って、久しぶりに大家さんのお母様が様子を見に来られた。

彼女は草が気になる様子。ぶちぶちと生えて来た草をちぎっていく。

「おかあさん、この外壁は、こうやったのよ、、」
と娘さんが説明するも母は、
「ここはだめ、こうしなきゃ。。」
と、草や木の事に意識がむいて、片っ端から雑草を引っこ抜いていく。

その前日、わたしは彼女が引き抜いていくそのヤブガラシを美しく眺めていた。


同じ植物を見るのでも、それをいけないもの、醜いものととらえる視点もあれば、
美しく、たのもしいものとしてとらえる視点もある。
どっちが正しいわけじゃない。存在は中立だ。
人の立ち位置によって、解釈が変わっていくだけだ。



野良仕事の合間、木陰で休んで畑を眺める。
父の葬儀や雑用で忙しく、今年は畑に手がつけられていない。
そのあいだに草が旺盛に広がった。オリーブの木や高く伸びた篠竹にくずの葉っぱがおおいかぶさり、畑はジャングルになっていた。

だがそれが美しい。葉のひとつひとつ。枝の一本一本。それぞれが美しい。実際、彼らを刈るとなるとたいへんだがそれでも美しい。

6月に蒔いた枝豆が、イネ科の植物のいきおいに押されている。根元から刈り、枝豆の足元に置く。イネ科の植物が生えた土はとても柔らかい。心地よい感触が足の裏に伝わる。


花だけでなく、葉も、枝も、つたも、木も美しい。それが植物。
畑で、庭で、道路の端っこで、彼等の姿を見てはっとする。それだけで心がおどる。
「これを絵で表現できるのか?」
ひとり心に問う。
今は答えられない。彼らの存在を越えるものは作れそうにない。



私たちは環境の生き物。うまれた時代、そだった環境によって、価値観がまるで違う。
大家さんのお母様は、草は取るもので、観照するものではない。草に対して入ってくる情報はそれ以上にはないだろう。
わたしはすこし違った環境に育った。それだけの違いだ。


雑草はふしぎな位置にいる。
人間に嫌われはするが、じつは大地にとって、野菜にとって、虫にとって、動物にとって、すべてにとって必要である。

むしろ人間こそが、この地球にとって必要でないのかもしれない(笑)。

この地球にとって違和感がある存在が、あれがいい、これいらない、などと文句を言う。


あ。そもそも文句を言うのは、人間種ぐらいなもんか。