2021年9月22日水曜日

幸せベタ

 


今朝ダンナの前を通り抜ける時、ダンナの口がとんがっているのに気がついた。

あの口の時は、彼の心の中にお茶目な気持ちがある時だ。



この頃彼は、謎の体の症状に心をわずらわされている。

1日のうち、頭の中はほぼそのことに没頭している。

だからいま彼の心はとても泣きべそをかいている。


私たちは、幸せは何かをやったり、何かを得たりして幸せになるもんだと思っている。

だからこそ、常に何かを外に探している。

あれを食べたら、あそこに行ったら、あれを克服したら、私は幸せになるんだって。


だから彼の目下の目的はそれを治すこと!

それに集中しまくっていた。


だけど行かんせん、そう簡単には治ってくれない。

少しでも治る兆しが見えればいいが、うんともすんとも動かない。

今日も今日とて、一人ジトーッとあらぬ方向を見つめていた。


そんな矢先、そのトンガリ口を発見した。


彼は今お茶目な気分になってる。

そんなときは、子供っぽい楽しい気分になっているぞ。



でも彼はそのことに気がついていない。

彼は今喜びの中にいるにも関わらず、それに気がついていなかった。


そうなのだ。

幸せはいつも私たちの中にある。

それなのに幸せを外に求めている。


何かを治したら、何かを得たら、、、。

そうやって、外に聞こえる大きな声を聞いて、意識を外に外に向けて探している。



私たちは幸せベタなのだ。

いつもここにある幸せを見つけることができない。

口をとんがらして、お茶目なことを考えて子供のように喜んでいる自分に気がつかないのだ。


そんな話を彼に振ってみた。


黙って二階に上がっていった彼が、しばらくたって下に降りてきた。


顔が完全にお茶目モードになっている。


「ダーリンちゃん!(私のこと)今日もうんこが出た!幸せだ!

なんだなんだ。いっぱい幸せってあるじゃないか!

嫌なことって、ほんのちょっとだけだ。

それなのにそこにばっかり集中して、オレは不幸になっていた。

ここは幸せだらけじゃないか!」


そういって意気揚々と仕事に出かけて行った。




絵:「森の気配」



2021年9月21日火曜日

どっちでもいい

 


知り合いの絵描きさんから、

近所のカフェで個展をやるというお知らせをもらい出かける。


歩いて30分ほどで着いたら、カフェのオーナーさんに

「あれっ?今帰ったばっかりだよ。会わなかった?」

ここは一本道だから、会わないはずはない。


「じゃあ、バスで帰っちゃったんだね~」

いつもは歩いて帰る人なのに、その日に限って、バスで帰られたようだ。


彼の力みのないゆったりとした絵に感銘を受けながら、しばし静かな時間を過ごした。

私もこんな風に力の抜けた絵を描きたいと思う。


後日いつも行く時間帯に出向いた。

この時間なら彼はきっといるだろうと思ったら、

後からカフェにやってきた、彼のご近所さんだというご婦人たちが、

「今日はお墓まいりに行くって言ってましたよ」

またすれ違い(笑)。


そして昨日、たまたまそのカフェの前を車で通り過ぎると、デッキに彼の姿が。

「あっ!」というと、彼もあっという顔をして目があった。


「止めて止めて!」と運転しているダンナを促したが、

「後ろから車が来ているから無理!」


すぐ後ろに青い車が迫ってた。

狭い道なので脇に寄ることもできず、後ろから押されるように

「あ~~~~~」と言いながら、そのまま通り過ぎてしまった(笑)。


3度もすれ違うってすごくね?

思わず車の中で大笑いをしてしまった。





私たちはいろんな解釈をする。

偶然会えると「いいことがあった」と思うし、

会えないと「残念だ~」と思うし、

その無念さから「日頃の行いが悪いのかな?」と、

まるでバチが当たったかのように解釈もする。


その解釈や判断が、私たちを苦しめる。

そういう判断をできるだけやめていこうと思っている。


判断をするとき、この状況は嫌だという抵抗がある。

すれ違いはいけない事だという判断。そこに罪悪感がある。

それが私たちを苦しめる。


だけどことは起こった。

そのことをそのまま受け止めること、つまり無抵抗であることは力が抜ける。

さらに笑いは、その場を明るくする。


笑いはそのことをそのまま受け止め、深刻さをなくす。

そのまま受け止めるって自由だ。




私はずっと自分の罪悪感に振り回されてきた。


罪悪感を感じることは、実は密かにこんなことを考えている。


自分で自分の罪に対して罪悪感を感じるということで、自らを罰しているのだから、

神様、許してください。

だからもっとひどいことは起こりませんようにと。


私は罪が実在すると信じ、

自分を鞭打ちながら、神様のご機嫌うかがいして生きる。

ほら。私は私を罰してるよ。だから許して。。。


このやり方がいかに自分を小さく弱いものにさせていたことか。


だいたい神は人に罰を与えるのだろうか。

その罰を与える神は、私たちが考えついた、心の狭い怒りを持った神。。

つまり私たちの投影が生み出した偽物の神なのではないか。



罪悪感が自分に与える罰には、何の意味もないと知り始め、

小さな罪悪感から少しづつ、自分を赦していったのだった。



あれではいけない、こうでなければならない、、

そう言い続ける罪悪感だらけの考えが、自分自身を赦すことによって、

罪悪感が消え始め、だんだん心の中が静かになっていく。



そして本当は、

ああでなくても、こうでなくてもよかったのだ。

ほんとはどっちでもいい。

そんなことに気づき始める。


どっちでもよくなかったのは、そこに恐れがあったからなのだった



恐れではなく、愛や喜びを選ぶようになると、

気楽さがふつふつと生まれてくる。


本当の神は、それを私たちに望んでいるのではないか。




絵:「秋の山」




2021年9月17日金曜日

世界は存在し始めた

 


子供の頃、目の前にいる親がハリボテに見えてた。


これは人じゃないと思えて恐ろしくて、よく母の背中に手を回し、彼女の背中を手で感じて

「ああ、これはハリボテじゃなくて、人だあ~。」

と、子供ながらに確認してホッとしたものだった。


その妄想はより膨らみ、ひょっとしたら、そこにあるものを見ているんじゃなくて、

見るからこの世界が瞬時にパッと目の前に現れるんじゃないか?と勘ぐった。


そしてまもなく量子力学を知る。

観察者と観察されるものは一つ。見るから現れる。

そんなアホな学問があるのを知る。


ウケた。

そして同時にほくそ笑んだ。

「やっぱり。。。w」


見るから現れるのは、実は「見たい」からそれを「見る」のだ。


私はこの世界を見たがっていた。

美しいものも、醜いものも、恐ろしいものも、感動的な物語も。。。



だが時々目に入ってくる情報量の多さに圧倒されて、目をつぶる時もあった。

すると一瞬のうちに暗闇になり、心が落ち着いたものだ。


最近耳の聞こえない少年と出会ったり、映画を見たりして音のない世界を思い出した。

その静寂の美しさに圧倒された。



私たちは五感があると思っている。

五感で感じるからこそ、存在するのだと思っている。それが証拠だという。

その五感を疑いもしない。


でも大昔からこの世界は夢だという教えがあった。




小さい時感じた「この世界はハリボテ」感覚。

それは本当なんだったりして。。。?


感覚としてはこんなだ。

目の前に広がっている風景。風景といっても一枚の絵。


実はこれしかなかったりして。


地球の裏側ではとか、銀河系は水星があって土星があって、、とかいうのも「うわさ」でしかない。


だが飛行機に乗って、宇宙に飛んで行って、そこにあることを確認することもできる。

だったらあるじゃないかって話じゃなくて、

見るから現れるとしたら、きっとそこに「見る」だろうから(笑)。


体の中だって、内臓があるだろう。ひらけばそこに「現れる」からだ。


でも今はない。

椅子に座っている(らしい)私の世界には、今目の前に見えるこれしかない。


そこに言葉があり、思考が現れて、その風景に臨場感が増す。


その思考には価値観があり、その価値判断によって、感情が動く。


触れば感覚があり、匂いがあり、味がある。

ますます臨場感が増す。



ほら、ここに世界は存在し始めた。





絵:ダッチバイク


2021年9月15日水曜日

私の中のぬらりひょん

 


今にあるとか、今こことか、今この瞬間に意識を持っていくとか言われる。

けれども私たちはなかなか今にいられない。



先日も電車の中で座っていた。何もすることがないので、

「よし。今にいよう」と、いてみた。


そう思って今にいようとじっとするが、どうも落ち着かない。

ここにいられないような、妙な不快感がある。


「これはなんだろう?」


あ。。。恐れだ。


言葉にもならない恐れのさざ波が、私の心にひたひたと打ち付けていた。

これは自我の思考体系だ。自我は恐れそのものなのだ。






心の中を観察することを続けていくと、

無意識にやっていたことが、だんだん意識されるようになってくる。


そうすると自分がやっている行動のほとんどの動機が、恐れからくることに気づく。

これをやっておかねばならない、こうしとくほうがいい、、、。


その行為は、一見優しさのように見えるものでさえ、自分の保身からきていることにハッとさせられる。

空気を読むこともその一つ。


私には恐れがあるのだ。。。

そう気づくことは、罪悪感を誘発してくるが、そこにはまるのではなく、

その恐れを認めることだ。





わたしたちは小さい時からなんとなく「怖がっちゃいけない」と教わってきた。


それはある意味、動物的な本能に近いのかもしれない。恐れを持つことは死を意味する。

野生動物が自分の弱っている姿を見せると捕食者に喰われるから痛みを見せないように。


そんな動物的な本能が、恐れを自覚することを拒むのかもしれない。

だから自分の中にある恐れを認めないように、見ないようにしてしまうのだ。



だがそれは自我の策略でもある。

「見るなよ。見たらとんでも無いものを見ることになるぞ」と。



しかしそれは全く逆だった。

見ることによって、隠されてきたものが明るみにされる。


恐れがあると自覚することは、押入れの中に隠すことではなく、お日様の下に持ってくること。

闇は光の中に入れてしまえば、あっという間に消える。


光に晒すとは、それを咎めることなく見ること。それは赦すことでもある。



実際、自我がやっていることは、ただ私たちを怯えさせようとしているだけだ。

恐れがあるのではなく、恐れろと吹聴しているだけなのだ。


それは私たちが恐れ、罪悪感を感じてくれればくれるほど、

この世界が実在すると、ますます信じ込ませることができる。





心の中を詳細に見ていくと、絶えず恐れのさざ波があることに気づく。

そのさざ波は個人的な恐れを思い起こさせ、不快感を感じさせ、

それを取り除くために何かしなければいけないという衝動を起こさせる。


それが今にいられない理由だ。

ただじっとしていることさえ私たちにはできない。

だから絶えず何かを見たり、何かを考えたり、何かをすることによって、

この今の不快感から逃げようとするのだ。



賢者はその「今」の秘密を知っている。

本当は今しか実在していないことを。


その実在するものを知るには、

知らん顔して居座っている恐れを認め、赦していくことなのだろう。



自我も恐れも罪悪感も実在していない。

それはさもそこの家の主のように振る舞う妖怪「ぬらりひょん」のようなもの。



私の中にいる「ぬらりひょん」を赦して解放していこう。





絵:「ぬらりひょん」



2021年9月12日日曜日

あなたは何もしなくていい

 


「サウンド・オブ・メタル」を観て、

私が何に感動していたのかがだんだんわかってきた。


主人公が最後に知った、あの安堵感。

あの解放。自由。広がっていく心。それに感動していた。


それは耳が聴こえなくなって得た静寂への感動ではなく、もともとここにあったものを見出したという感覚。


あのシーンを見た時、デスバレーで体験した音のない世界を思い出したのだが、もう一つ、最近味わった不思議な体験もまた思い起こさせた。


それはある日の朝、布団をあげているとき訪れた。

静寂だった。

まわりの音が消えたわけでもなく、心の中で呟く声が消えたわけでもない。

なのに完全な静寂がそこにあった。


「え?え?なにこれ?」

布団をあげながら戸惑う私。

しん。。。としたものが辺りを覆い尽くしている。

布団のかすれる音も聞こえる。自分がそれに気がついて話している声も聞こえる。なのに静かなのだ。

なんとも言えない大きな安らぎがあった。


あの映画の彼が味わった感覚はそれに似ていると思った。

いったい何が「静か」だったのか。


それは自我の声だった。


2、3分後にいつもの私の感覚に戻った時、この世界に戻ってきたような感じがした。

いつもの私の声。いつもの思考。いつもの感情。

私はカラダで、私は何歳で、私はこの世界に生きていて、、、という感覚。


その「いつもの」感覚は自我の思考があるからこそ感じているものなのだ。


思考は二種類ある。

自我の思考と、もう一つの思考。

コースはそれを聖霊の思考と呼ぶ。


静けさの中にいた時の思考には恐れがなかった。ただ非常にシンプルに喜びと安堵と自由があった。

だが自我の思考に戻った時、重苦しさと複雑さと閉塞感と漠然とした恐れがあった。


それは前者の感覚に入ったから、なおさらその差がわかるのだろう。

この自我の思考の中にいる私はなんと苦しんでいることか。


瞑想をしたり、行を積んだりして取り除く思考は、自我の思考なのだ。

私たちはほとんど自我の思考でものを考えているのだから。


自我の思考は、言葉だけでなく、感覚でさえも私たちに浸透してくる。

それはさざ波のようにささ~ッと、私たちの中に入ってくる。


それを受け入れると、恐れが忍び込んできて、

何か行動せざるを得ない衝動が起き始める。

こうして私たちは自我の思考の操り人形になっていく。



その声があの時消えていた。

何かしなければ心が落ち着かない、あの感覚が消えていたのだ。



あなたは何もしなくてもいい。

ただそこにいるだけでとても素晴らしい存在だと、

大きなお墨付きをもらっている安心感と開放感。


私はそんな感覚をあの映画の最後のシーンに思い出したのだった。




絵:インディアン


2021年9月8日水曜日

「サウンド・オブ・メタル」

 



久しぶりに映画に感動した。

「サウンド・オブ・メタル」


今年のアカデミー賞の作品賞は「ノマドランド」。

この「サウンド・オブ・メタル」は、そのうちの編集賞と音響賞を取った。

時代とともに、今ある価値観を違う視点から見る映画が賞を取り始めている。


作品賞をとった「ノマドランド」の監督が、

その前にとった「ザ・ライダー」が良かった。


本当のカウボーイが、彼自身を演じている。

うつむき加減の表情が、見るものをぐっと引き寄せる。

素人とは思えない味わい深く美しい顔。マジックアワーの中で馬を走らせる彼の姿が目に焼きつく。


「ノマドランド」も「ザ・ライダー」も、映画の終わりに答えを含ませない。

どこに向かうのかわからない終わり方だ。


でも考えてみたら、私たちの日常もまた答えなどない。

一瞬あったかのように見えるものも、また次の瞬間その先にある「何か」の「答え」を探し続けていくのだ。

私の父もまた、その「答え」を見つけられずに逝った。



だからこそ、私たちは映画にその「答え」を求めずにはいられない。

そして映画はその求めに応じて、答えを示してくれてきた。


しかしこの映画たちは、私たちが求める答えを示しはしなかった。

だけど惹きつけられる。

これはリアルだ。実際私たちが直面しているものだ。だからこそ賞を取るのだろう。





「サウンド・オブ・メタル」は、ミュージシャンのドラマーが、次第に聴覚を失っていく話。


突きつけられる現実、それにあらがう主人公。

たくさんの苦悩のうちに、彼自身が気づいていったもの。。。


先の二作には答えが見出せないが、

この映画には、ある別の視点の答えを匂わせてくれた。


映画の中でのセリフ。

「ここのみんなは耳が聞こえないことを障害じゃないと思っている。直すようなものじゃない。」



音とは、心の中の声だ。

私たちは外の音を聞いていると思っているが、実は自分の中で鳴っている音を聞いている。


主人公が音から解放された時のあの顔は、まさに心の中の自我の声から解放された時の顔だ。


私が昔デスバレーで体験した音のない世界はそれだった。

全ての音から解放されることが、どれだけ心に平安をもたらすことか。


私たちの心を四六時中埋め尽くしている自我の声。

その声を本気で聞き、受け入れ、その声が誘導するままに人をさばき、自分をさばき、あてのない答えをもとめさまよう。その声が突然途切れた時、無限の静寂が訪れる。

彼の顔はその静寂がもたらす安堵を教えてくれている。



この映画は、欠点を欠点として受け入れるような話ではない。


全く違うものの見方があるという、新しい方向に心が解放される。

そんな映画だった。


この映画はアマゾンプライムでタダで見られる。



絵:「たこ杉」