子供の頃、目の前にいる親がハリボテに見えてた。
これは人じゃないと思えて恐ろしくて、よく母の背中に手を回し、彼女の背中を手で感じて
「ああ、これはハリボテじゃなくて、人だあ~。」
と、子供ながらに確認してホッとしたものだった。
その妄想はより膨らみ、ひょっとしたら、そこにあるものを見ているんじゃなくて、
見るからこの世界が瞬時にパッと目の前に現れるんじゃないか?と勘ぐった。
そしてまもなく量子力学を知る。
観察者と観察されるものは一つ。見るから現れる。
そんなアホな学問があるのを知る。
ウケた。
そして同時にほくそ笑んだ。
「やっぱり。。。w」
見るから現れるのは、実は「見たい」からそれを「見る」のだ。
私はこの世界を見たがっていた。
美しいものも、醜いものも、恐ろしいものも、感動的な物語も。。。
だが時々目に入ってくる情報量の多さに圧倒されて、目をつぶる時もあった。
すると一瞬のうちに暗闇になり、心が落ち着いたものだ。
最近耳の聞こえない少年と出会ったり、映画を見たりして音のない世界を思い出した。
その静寂の美しさに圧倒された。
私たちは五感があると思っている。
五感で感じるからこそ、存在するのだと思っている。それが証拠だという。
その五感を疑いもしない。
でも大昔からこの世界は夢だという教えがあった。
小さい時感じた「この世界はハリボテ」感覚。
それは本当なんだったりして。。。?
感覚としてはこんなだ。
目の前に広がっている風景。風景といっても一枚の絵。
実はこれしかなかったりして。
地球の裏側ではとか、銀河系は水星があって土星があって、、とかいうのも「うわさ」でしかない。
だが飛行機に乗って、宇宙に飛んで行って、そこにあることを確認することもできる。
だったらあるじゃないかって話じゃなくて、
見るから現れるとしたら、きっとそこに「見る」だろうから(笑)。
体の中だって、内臓があるだろう。ひらけばそこに「現れる」からだ。
でも今はない。
椅子に座っている(らしい)私の世界には、今目の前に見えるこれしかない。
そこに言葉があり、思考が現れて、その風景に臨場感が増す。
その思考には価値観があり、その価値判断によって、感情が動く。
触れば感覚があり、匂いがあり、味がある。
ますます臨場感が増す。
ほら、ここに世界は存在し始めた。
絵:ダッチバイク
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