2021年9月17日金曜日

世界は存在し始めた

 


子供の頃、目の前にいる親がハリボテに見えてた。


これは人じゃないと思えて恐ろしくて、よく母の背中に手を回し、彼女の背中を手で感じて

「ああ、これはハリボテじゃなくて、人だあ~。」

と、子供ながらに確認してホッとしたものだった。


その妄想はより膨らみ、ひょっとしたら、そこにあるものを見ているんじゃなくて、

見るからこの世界が瞬時にパッと目の前に現れるんじゃないか?と勘ぐった。


そしてまもなく量子力学を知る。

観察者と観察されるものは一つ。見るから現れる。

そんなアホな学問があるのを知る。


ウケた。

そして同時にほくそ笑んだ。

「やっぱり。。。w」


見るから現れるのは、実は「見たい」からそれを「見る」のだ。


私はこの世界を見たがっていた。

美しいものも、醜いものも、恐ろしいものも、感動的な物語も。。。



だが時々目に入ってくる情報量の多さに圧倒されて、目をつぶる時もあった。

すると一瞬のうちに暗闇になり、心が落ち着いたものだ。


最近耳の聞こえない少年と出会ったり、映画を見たりして音のない世界を思い出した。

その静寂の美しさに圧倒された。



私たちは五感があると思っている。

五感で感じるからこそ、存在するのだと思っている。それが証拠だという。

その五感を疑いもしない。


でも大昔からこの世界は夢だという教えがあった。




小さい時感じた「この世界はハリボテ」感覚。

それは本当なんだったりして。。。?


感覚としてはこんなだ。

目の前に広がっている風景。風景といっても一枚の絵。


実はこれしかなかったりして。


地球の裏側ではとか、銀河系は水星があって土星があって、、とかいうのも「うわさ」でしかない。


だが飛行機に乗って、宇宙に飛んで行って、そこにあることを確認することもできる。

だったらあるじゃないかって話じゃなくて、

見るから現れるとしたら、きっとそこに「見る」だろうから(笑)。


体の中だって、内臓があるだろう。ひらけばそこに「現れる」からだ。


でも今はない。

椅子に座っている(らしい)私の世界には、今目の前に見えるこれしかない。


そこに言葉があり、思考が現れて、その風景に臨場感が増す。


その思考には価値観があり、その価値判断によって、感情が動く。


触れば感覚があり、匂いがあり、味がある。

ますます臨場感が増す。



ほら、ここに世界は存在し始めた。





絵:ダッチバイク


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