2021年9月21日火曜日

どっちでもいい

 


知り合いの絵描きさんから、

近所のカフェで個展をやるというお知らせをもらい出かける。


歩いて30分ほどで着いたら、カフェのオーナーさんに

「あれっ?今帰ったばっかりだよ。会わなかった?」

ここは一本道だから、会わないはずはない。


「じゃあ、バスで帰っちゃったんだね~」

いつもは歩いて帰る人なのに、その日に限って、バスで帰られたようだ。


彼の力みのないゆったりとした絵に感銘を受けながら、しばし静かな時間を過ごした。

私もこんな風に力の抜けた絵を描きたいと思う。


後日いつも行く時間帯に出向いた。

この時間なら彼はきっといるだろうと思ったら、

後からカフェにやってきた、彼のご近所さんだというご婦人たちが、

「今日はお墓まいりに行くって言ってましたよ」

またすれ違い(笑)。


そして昨日、たまたまそのカフェの前を車で通り過ぎると、デッキに彼の姿が。

「あっ!」というと、彼もあっという顔をして目があった。


「止めて止めて!」と運転しているダンナを促したが、

「後ろから車が来ているから無理!」


すぐ後ろに青い車が迫ってた。

狭い道なので脇に寄ることもできず、後ろから押されるように

「あ~~~~~」と言いながら、そのまま通り過ぎてしまった(笑)。


3度もすれ違うってすごくね?

思わず車の中で大笑いをしてしまった。





私たちはいろんな解釈をする。

偶然会えると「いいことがあった」と思うし、

会えないと「残念だ~」と思うし、

その無念さから「日頃の行いが悪いのかな?」と、

まるでバチが当たったかのように解釈もする。


その解釈や判断が、私たちを苦しめる。

そういう判断をできるだけやめていこうと思っている。


判断をするとき、この状況は嫌だという抵抗がある。

すれ違いはいけない事だという判断。そこに罪悪感がある。

それが私たちを苦しめる。


だけどことは起こった。

そのことをそのまま受け止めること、つまり無抵抗であることは力が抜ける。

さらに笑いは、その場を明るくする。


笑いはそのことをそのまま受け止め、深刻さをなくす。

そのまま受け止めるって自由だ。




私はずっと自分の罪悪感に振り回されてきた。


罪悪感を感じることは、実は密かにこんなことを考えている。


自分で自分の罪に対して罪悪感を感じるということで、自らを罰しているのだから、

神様、許してください。

だからもっとひどいことは起こりませんようにと。


私は罪が実在すると信じ、

自分を鞭打ちながら、神様のご機嫌うかがいして生きる。

ほら。私は私を罰してるよ。だから許して。。。


このやり方がいかに自分を小さく弱いものにさせていたことか。


だいたい神は人に罰を与えるのだろうか。

その罰を与える神は、私たちが考えついた、心の狭い怒りを持った神。。

つまり私たちの投影が生み出した偽物の神なのではないか。



罪悪感が自分に与える罰には、何の意味もないと知り始め、

小さな罪悪感から少しづつ、自分を赦していったのだった。



あれではいけない、こうでなければならない、、

そう言い続ける罪悪感だらけの考えが、自分自身を赦すことによって、

罪悪感が消え始め、だんだん心の中が静かになっていく。



そして本当は、

ああでなくても、こうでなくてもよかったのだ。

ほんとはどっちでもいい。

そんなことに気づき始める。


どっちでもよくなかったのは、そこに恐れがあったからなのだった



恐れではなく、愛や喜びを選ぶようになると、

気楽さがふつふつと生まれてくる。


本当の神は、それを私たちに望んでいるのではないか。




絵:「秋の山」




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