2015年9月29日火曜日

やまんば、ささくれ立つ、の巻。



ちくりと感情が動いた。

あ、この感情はなんだろう。感情の元をたどっていく。ほんの少し前にあったことへの反応だ。
このところ自分の感情に敏感になっている。

だいぶ前から自分の感情を見つめはじめた。
最初はわかりやすい怒りから始まった。私たちはネガティブな感情が自分に現れると、いけないことだと判断して、それを押し殺すようにして来た。その結果、その怒りは、似たような状況下に置かれると、条件反射のように同じ反応を繰り返す。

その仕組みがわかったのは、自分の怒りを受け入れた時からだった。

感情は体に表れてくる。
エネルギーが異動して、手や足に動いていく。その結果なにかをたたいたり、けったりするのだとわかってくる。だがそんなことをしてもあまり意味がない。第一、外に迷惑をかける(笑)。

その異動するエネルギーを味わうのだ。ただ自分と対面するのだ。
どんな感じ?どんなふうにエネルギーがあふれている?
自分で自分に問うてみる。味わってみる。するといろんな変化がおこる。自分のカラダがいかに感情とくっついているのかが良くわかる。

私の場合は、さっきまであったものすごい怒りが瞬間に消えてしまったのだ。

それから私は感情は単なるエネルギーなのだと知る。そこにはいいも悪いもない。起こった出来事に対して、感情の反応が起こったとき、それをじっくり味わうのだ。最初は大づかみな感情だけに気がついていたが、次第に繊細なものへの感情にも気づきはじめた。


そして今、ちくりとした感情をあじわう。
これはなんだろう。
ぎざぎざしたかんじ。
ささくれ立った感じ。
胸の中心ニギュ~っと、黒くてささくれ立った木の束がある感じ。。。

よし。ささくれ立つぞお~。
私は今、おもいっきりささくれだってやるぞ~~~!

そういってしばらくささくれだってみた。(笑)
すると間もなくして、今まで考えてたことのない考えがうかびはじめた。
あ、これ。あ、それも。。。あ、あ、、ああ、そういうことだったのか。。。。
いくつかの考えが浮かび、ぱたぱたぱたとつながりはじめた。
ああ~、そういうことだったのか。。。いま、やっとわかった。。あ~~~、なるほど!

さっき起こった事柄とはまるで関係のない、前に起こった出来事への理解が起こっていた。

感情はプレゼントじゃないかと私は思う。
おこる感情は、自分の中にあるがんじがらめになった信念を解きほぐす役割をしてくれている。ただその感情の中に入る。見つめる。受け取る。ただそれだけで、自分では気がつかなかったことが、あらわれてくる。そして、ほぐそうとしなくて、ただ、自然にほぐれていくのだ。
これをプレゼントといわずしてなんというのだろう。

この世は神秘に満ちている。

絵:マンガ「不安局」の一コマ


2015年9月27日日曜日

やまんば、自分を受け取る。の巻



ある人をほめた。
なんにも返答がない。
あれ?聞こえないのかな?とおもった。
しばらくして質問すると、すぐ答える。聞こえてんじゃん。
それからまたしばらくして、べつのことをほめた。
やっぱり返答がない。
あ、この人ほめられることが苦手なんだと気がついた。

彼女は異様なぐらい仕事が出来る。
すべてを把握して、的確に行動する。根回しも、その場を明るくする方法も知っている。遠くで動いているスタッフが、今どういう状態かを把握して瞬時に動く。まるで彼女のセンサーがひとつの空間全部に張り巡らされているかのようだ。ご主人が「ウチのカミさんのアドヴァイスは的確なんだ。。」と言っていた理由が良くわかる。

だがそんな凄腕の彼女は、彼女自身の能力をまったく認めていないのだ。
その時、自分のことと重なった。
「これは、、、自分だ。。。。」

がくぜんとした。
この感覚は何といったらいいのだろうか。自分の能力も存在も、何一つ受け取ろうとしない彼女は、私そのものだったのだ。。。

それがどんなにこっけいで、残念で、自分自身に対して失礼なことをしているのか、全身で感じて、その場で身震いした。

ふと道を通る人たちを見た。
みんな認めていない顔をしていた。自分自身の能力、自分自身の存在。。。ただこの世に生きていることさえも認められない顔、顔、顔。。。

自分の足りない物を探し、それを埋めようとする。一時埋まった気になっても、また別の足りないものを探す。そうやってえんえんと探し物をしている。満ち足りないなにかを埋めようとずっともがいている。

その彼女もいつも探している。これじゃないなにか。
今もっている素晴らしい宝物をうけとらないで、その宝物をさがしつづけるようなもんだ。
手にしているじゃないか。今、そこに。

もし、もし、彼女が自分の価値に宝に気がついたなら、それに対して大事にあつかったなら、事態はまるで変わるのだ。。。。



おかしなもんで、その自分を受け取ると、自分が消えていく。
ないないと探し続けていると、苦悩する自分が、強烈に存在する。凝縮して、個別化された「自分」が存在する。
その反対に、自分の能力、体験、そのものを受け取ると、ゆるみ、開き、拡張して、「自分」が消えていくのだ。

やまんばは、なんだかおかしくなって、しばらくへらへら笑っていた。

2015年9月20日日曜日

母との会話



「どお?げんき?」
「あんまり元気ない」
電話の向こうの母の声がしんどそう。

「だいじょうぶ?」
「大丈夫やないのに、病院の先生、笑うんよ」
「なんで?」
「きのう病院行って血液検査やらなんやら全部調べてもろうて、そしたら、どこっちゃあ悪い数値も悪いところもないって。」
「けんど、しんどいがやろ?」
「うん、しんどいのに、先生は『どこっちゃあ悪うないき、あなたは、ただ歩くだけでえいがよね』っていうが」
「あはは。やっぱしそこか」
「あたしねえ、歩くだけでえいが。そやから歩かんといかん」
出た。
その言葉、耳にたこが100億個できるばあ、聞いた。


彼女はあまり上手に歩けない。いや、初めは単に歩くのが遅い方なだけだった。だけど、だんだんもっと遅くなり、そして今はやっと歩いている。

その原因をさぐっていたが何もわからず、ついに、小脳が萎縮していると言う「原因」に行き当たった。それは進行性の病いと言われているものだったが、それが「発覚」されてから、何一つ進行しない。相変わらず同じような歩行を続けているだけである。

なので医者もお手上げなのだ。
その脳の萎縮がはたして急激に起きたことなのか、長い時間をかけて起きたことなのか、過去にそれを調べたことがないのでわからない。
だが最近彼女の医者は、
「あなたは40代から歩かなくなってきたから、じょじょに脳が萎縮したのだ」
といっているようだ。それって病気といえるのだろうか。。。
誰でも40年以上ろくに歩かなかったら、その機能は衰える。一週間寝っぱなしなだけでふらふらするもんだ。

「あなたは歩くだけ」
と、あちこちの医者に言われ続けても
「あたしは歩くだけでい~のよ~」
と、嬉しそうに言うだけで、ちっとも外に出て行かない。今回も出て行くわけがない。

「もう、歩かんでえいんちゃう?」
「え?」
「歩きとうないんやろ?」
「うん」
「ほな、歩かんでえいやん」
彼女はぽかんとした。


「歩かんといかん」
という言葉には、歩かなければいけないという義務感が含まれている。
じつはその言葉の下には、もうひとつ言葉がある。
「歩かないと、もう歩けなくなってしまう」
と言う脅し文句がセットになっているのだ。

恐怖の上に成り立っている義務感。
これ、人の行動のありとあらゆることの原動力、モチベーションになっている。
もし、それをやらないと、たいへんなことになってしまう、という恐怖心から来る動機である。

これが人を怖れさせる。ほとんど無意識にその恐怖の中に人々はとり込まれて、ムリヤリ行動している。
寒いかっこうしていたら、風邪を引く。
なまけていたら、仕事が干される。
などなど、山のように出て来る。


義務感はぐっと心を小さくさせる。
これ、やらなければいけない。。。
と、おもったとき、心はどう感じているだろうか。
胸のあたりがぎゅっと凝縮したかんじがしないだろうか。
個としての自分がはっきり意識される瞬間でもある。自分と他人の境界線がはっきりと現れはじめる。

しかしみんなで楽しいことをしているとき、自と他と言う境界線があるだろうか。自分も他人も一緒くたになって楽しんでいるのではないだろうか。

もし彼女が
「あ、今日はいいお天気。散歩しに行こうっかな~」
とおもって外に出るとき、そこに義務感はあるだろうか。

ずっと、こうしなければいけないとおもい続けているからこそ、そう行動できないんじゃないだろうか。

私は歩かないと、歩けなくなる。。。
だから歩かんといかん。。。
だけど今日も歩きにいけなかった。。。
ああ、そうすると、ますます歩けなくなる。。。
いかん、歩かんといかん。。
歩かんと。。。。

そういう言葉が彼女の中で、何度も何度もくりかえしなされていることではないだろうか。
こうしなければいけないとおもうのに、そうできない自分を責め、そしてまたますます出来ない自分を責め続ける。

これが彼女を歩かせない理由なのではないか。

心が人を作るんだなあ〜と、彼女を通して知った。彼女は自分で自分を作りあげているのだ。
それは先日紹介した「あなたという習慣を断つ」と言う本に、まさに書いてあった通りだ。
彼女は自分で自分のわだちを掘り下げているのだ。





きのう書いたブログのように「心に浮かんだ思い」をつかまないで、そのままにしておく、流れるままにしておくことが彼女に出来たなら、何かが変わっていくだろうな。


「頭に浮かぶ?『歩かんといかん』ってことば」
「うかぶうかぶ。四六時中。ずっと言い続けている」
「それ、風やで。」
「風?」
「そう。風。風が流れていることをいちいちつかんだりせんやろ?」
「せんせん」
「それをつかむから、ずっとそのことにとらわれるんよ。浮かんだら、あ~、風が吹いたなって、おもってほっといたら?」

「あ。。。。そっ。。。か。。。。」
いつもとちがう、ちいさな声が、電話の向こうで聞こえた。




2015年9月19日土曜日

自我は自分の手柄にする(笑)



「あたまにうかんだ考えって、コントロールできます?
私たちって、四六時中、ネガティブなこと考えてませんか?
心配や、不安や、怒りや、羨望や。。。
もし、うかぶ考えをコントロールできるんなら、一日中楽しいこと考えたらいいじゃないですか。悪い事が起こっても、全然大丈夫って。
でもできませんよね?
私たちはうかぶ考えのコントロールは出来ないんです」

ある人のユーチューブで、この言葉を聞いたとき、あーーーーーーっ!っておもった。

行動も、考える前にカラダが動き、その0、何秒後かに、考えが起きている、と読んだことがある。自我は、カラダが行動に移す準備をしはじめたあとに「わしが考えておこした!」と言い張るのだ。

これと同じように、ふっとうかんだ考えでさえも、自我は「わしが考えた」と言い張るのだろう。そしてその「わしが考えた」考えに乗っかって、ますます心配したリ、ますます怒ったりするのだ。

自我は現れた現象に乗っかって、楽しんだり怒ったり苦しんだりするようだ。
目の前で起こる現象を見て、「あれはコーダ、それはドーダ」と意見をいい、
耳で聞く音に「ああ~もううるさいなあ~」といい、
食べた昼飯に「まずいソバだな」と文句を言う。

そしてうかんだ考えに
「ああ、それはコーデ、アーで、あのときは、ああするより他なかったんだ」
と、自分を正当化し、相手のせいにし、
次会ったら、あいつにこー言ってやろうと、エアー演説をする。
そうやって、あたまの中は四六時中(主にネガティブなことに)忙しいのだ。

だが、その中に取り込まれなくなることは出来る気がする。

うかんだ考えに、わしらはなにも出来ない。
いや何もする必要はないんではないか。
ただうかんだままにしておく。
ネガティブな考えも、ただうかんできた。それだけなのだ。

私たち何かにつけて意味付けをする。黒いネコが横切ったから不幸なことが起こるとか、不安がよぎると虫の知らせだという。。。。
その意味付けは心をますます不安にさせる。その「問題」を「解決」しようとやっきになる。しばらくはそのことであたまがいっぱいになる。

自我はそうやって自分のストーリーを続けさせているのかも知れない。

夜中に目をさます。
あたまの中にあらゆる不安材料が押し寄せる。
だがやまんばはそのうかんだものに乗っからなかった。
目が覚めると朝になっていた。


2015年9月15日火曜日

親への思い



最近は、起こった感情に対して、それにあらがうことをやめている。

きのうも寝ている最中に、突然親の心配をし始めた。
なんだろう突然。。。
あっちは、今たいへんなんやろうか。。。
これはなんか意味があるのかも知れん。。。
そう思うとよけいにドキドキしはじめた。

あたまの中で、あとからあとから自分が親にしてきたこと、罪悪感が次々と襲ってくる。いや、あれは、あーでこーでしかたがなかったんだ。。。
あれについては、あーでこーで、しかたがなかったんだ。。。
気がつけば言い訳のオンパレード。苦しみはそれにあわせてドンドン増していく。

あ、これ、きりがないや。。。
そう思った私は、その苦しみの中に入った。
親への、いろんなものがごちゃ混ぜになった思いを、ただじーっと感じ続けていた。
感じるって、全身になる。
感じるのはけして心だけではなく、体が感じるのだ。


怒り、悲しみ、嫉妬、心配、苦しさ、そんなネガティブなものを人は避けようとする。
じつはその避けたものは、消えてはくれない。
どうも受け取らない限り、また同じことが起こって来るような仕組みになっているようなのだ。

それは前に何度もくりかえした怒りもそうだった。
一口に怒りといっても、私の場合は段階があったようにおもえる。やって来る怒りが、そのたびにドンドン掘り下がっていく感じがした。

ところが、今度はそれを味わいはじめると言うクセがつきはじめる。人間のし好とは(『思考』と『し好』は似ているかも)やっかいなものである。
いったんパターンを知ると、今度はそれで遊びはじめるのだ(!)だからある程度まで怒りを受け取ったら、そのあとはもう来ても知らんぷりしていると
「あ、およびでないのね。こりゃまた失礼いたしました!」と消えていく。


そんなことがあったので、親に対する苦しみを全身で味わってみる。
ああ、私はどうしようもなく親が好きなのだと知る。恋いこがれてやまないのだ。だがいっしょにいられないことがよけい苦しさを増していく。

しばらく全身で味わっているうちに、これは私だけの苦しさではないのだな。。。とおもいはじめる。
そうなのか。この世に生まれている人々、全員がみな、同じような思いを抱えて生きているのだ。。。とじんわりと感じていた。

怒りもそうだった。
「自分」の怒りを感じ続けるうち、「これ、本当に私の怒り?」とおもいはじめたのだ。そしてこれはこの世の人々の怒りだ。。。と感じた。


親から生まれて、親から引き離された瞬間から、恐怖、いかり、くるしみ、かなしみがうまれる。あの満たされた世界から分離された瞬間から、どうしようもなく、人は一体を求める。分離はすなわち、苦しみを生んでいたのだ。

それは親でさえも、その親からの分離で苦しんでいる。

そう気がついたとき、「私」の苦しみは、個人のものではないのだとおもった。



人生に答えはあるの?



ラインスタンプ作ったら、ラインはじめちゃって、そっちが楽しくって、ちっともこっちを更新してないやまんばです。すいません。

ラインは知っている人たちのとやり取りなので、気兼ねなく書けるけれど、ブログは知らない人も読むので、言葉をどうしても選んで書いてしまう。その不自由さがあるのをラインをやって知った。

けれども、ノリでやり取りしているうちに、大事な部分を一瞬で流していってしまうのも、またラインの弱点でもある。そういう意味では、ブログは自分が考えていることをじっくり表現できるので、自分がなにを考えているかを外から見ることが出来る。

どっちも長所短所があるんだな。


若いときからずっと「人生ってなんだろう」と考え、その答えをさがし、ありとあらゆる本を読みあさったけれど、今になって、その答えなんかないんだなっておもいはじめる。

農薬も肥料も入れない自然な形の畑をやり、その「答え」を探してやっていたけれど、そこにも「答えはない」んだなとおもいはじめている。

そもそも答えがあるはずだ、と考えていたのは、小学校のときから、「質問」と「答え」はセットになっていたからかもしれない。

「なぜ?」と聞かれると必ず答えなければいけなかったし、「なせ?」のあとには、ちゃんと「それはね。」と「答え」が用意されていたからだ。

そして「正解」を求めて人々はうろうろする。
どれが正解?
どこが正しい?
どの人が言ってることが正しい?
どの店で買うのが正解(お得)?
どのやり方が正しい?

「正解」どおりにやらないといけないのは、「まちがった」ら、苦しいからだ。損するし、恥ずかしいし、いたいし、傷つくし、ハラが立つし、心配するからだ。

「正解」は安心をもらえるからだ。

やまんばはその「正解」を求めて苦しんだ。
だけどあるときおもったんだ。
質問への正しい答えは一個しかない。
けれども、まちがった答えは、10個も100個も10000000000個もある!
これ、すごいことじゃない?
たった一個の正解を求めて苦しむことよりも、そのまわりに山ほどあふれている「まちがった」ことを選ぶこと方が、よっぽどあっちもこっちもあるし、楽で自由なんじゃないかと。

なぜ「正解」にこだわったんだろうって、おもった。
正解にこだわるから苦しかったんじゃないかって。

そのまわりにある無限の「まちがった答え」に目を向ければ、どこへどう行こうとまったく自由じゃないかって!

「君は、まったくまちがっている!」
そういわれて、
「わはは、、、、、わははははは~~~~~~っ!」
って、思いっきり楽になったやまんばだった。




2015年9月3日木曜日

「絵が売れたよ」



「つくしさん、絵が売れたよ」
大将からの、嬉しい電話だった。
「え?うそ!」
「ホントだよ~。絵をみて、『これ買う!』って、即決してくれたよ」

なんてことだ。
5月の展覧会が終わって、西麻布にあるおでん屋さんに食べに行ったときのこと、
「ウチに君の絵を置かせてくれないか?」
と、思わぬ展開になった。
「いいんですか?」
「いや、こっちこそ、いいかい?」
大好きな大将のお店に飾ってもらえるなんて、光栄だった。今までその店の壁に、絵は一度も飾られたことがない。美意識の高い大将の店の、30年間の歴史の中で、はじめてその大事な壁にわたしの絵が飾られるという栄誉をもらったのだ。
そこで絵が売れるなんて、二重のよろこびになった。

そしてきのう、大学時代の友だちといっしょに食べに行く。
大将が気をきかせてくれて、絵を買ってくれた方に前もって連絡してくれていた。その方は忙しい合間を縫って、わざわざでむいてくださった。ステキな奥様と、ステキな家族に囲まれた、ステキな紳士だった。
絵の話は、そのうち畑の話までひろがり、そしてまた私の友人との接点もあり、ちいさなおでん屋さんは、大きなよろこびであふれた。


絵は作家にとって、自分の分身のようなものだ。その絵が、ステキな雰囲気の場所にお嫁に行った。嬉しいような、こそばいような。心がワクワクする。
彼のオフィスで、「彼女」が少しでも和む空気がつくれたなら、それを生み出した親としては誇らしいなあ~と、しみじみおもった。

関西風のだしがきいた、おいしいおでん屋さんです。
しばらくつくしの絵が飾られています。もしご興味のある方は、おこしください。

『味覺』
〒106-0031 東京都港区西麻布1-15-3
tel: 03-3405-4728
8席のカウンターのみですので、予約された方がいいかと思います。