2015年9月15日火曜日

親への思い



最近は、起こった感情に対して、それにあらがうことをやめている。

きのうも寝ている最中に、突然親の心配をし始めた。
なんだろう突然。。。
あっちは、今たいへんなんやろうか。。。
これはなんか意味があるのかも知れん。。。
そう思うとよけいにドキドキしはじめた。

あたまの中で、あとからあとから自分が親にしてきたこと、罪悪感が次々と襲ってくる。いや、あれは、あーでこーでしかたがなかったんだ。。。
あれについては、あーでこーで、しかたがなかったんだ。。。
気がつけば言い訳のオンパレード。苦しみはそれにあわせてドンドン増していく。

あ、これ、きりがないや。。。
そう思った私は、その苦しみの中に入った。
親への、いろんなものがごちゃ混ぜになった思いを、ただじーっと感じ続けていた。
感じるって、全身になる。
感じるのはけして心だけではなく、体が感じるのだ。


怒り、悲しみ、嫉妬、心配、苦しさ、そんなネガティブなものを人は避けようとする。
じつはその避けたものは、消えてはくれない。
どうも受け取らない限り、また同じことが起こって来るような仕組みになっているようなのだ。

それは前に何度もくりかえした怒りもそうだった。
一口に怒りといっても、私の場合は段階があったようにおもえる。やって来る怒りが、そのたびにドンドン掘り下がっていく感じがした。

ところが、今度はそれを味わいはじめると言うクセがつきはじめる。人間のし好とは(『思考』と『し好』は似ているかも)やっかいなものである。
いったんパターンを知ると、今度はそれで遊びはじめるのだ(!)だからある程度まで怒りを受け取ったら、そのあとはもう来ても知らんぷりしていると
「あ、およびでないのね。こりゃまた失礼いたしました!」と消えていく。


そんなことがあったので、親に対する苦しみを全身で味わってみる。
ああ、私はどうしようもなく親が好きなのだと知る。恋いこがれてやまないのだ。だがいっしょにいられないことがよけい苦しさを増していく。

しばらく全身で味わっているうちに、これは私だけの苦しさではないのだな。。。とおもいはじめる。
そうなのか。この世に生まれている人々、全員がみな、同じような思いを抱えて生きているのだ。。。とじんわりと感じていた。

怒りもそうだった。
「自分」の怒りを感じ続けるうち、「これ、本当に私の怒り?」とおもいはじめたのだ。そしてこれはこの世の人々の怒りだ。。。と感じた。


親から生まれて、親から引き離された瞬間から、恐怖、いかり、くるしみ、かなしみがうまれる。あの満たされた世界から分離された瞬間から、どうしようもなく、人は一体を求める。分離はすなわち、苦しみを生んでいたのだ。

それは親でさえも、その親からの分離で苦しんでいる。

そう気がついたとき、「私」の苦しみは、個人のものではないのだとおもった。



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