2022年7月31日日曜日

過去を受け入れる



部屋の押入れの一角に、隠されるようにおいてある私の過去がある。


それはNY時代にやっていたペーパーバックやハードカバーの表紙に使われたイラストの原画だ。

今はパソコンで作るため、全てデータになっているが、日本に帰ってきてからもしばらくは依頼仕事の原画は紙を使って制作しており、その都度Fedexでアメリカまで送っていた。そしてそのアメリカにいた頃にも日本の仕事をやっていて、やはりその都度日本に送っていた。その原画たちが大量に部屋の片隅にあるのだ。


そのいわば「私の過去」を今回完全に整理しようと思い立った。

終活に近づいているのか?それとも新しい自分を見るために過去を終わらせようとしているのか。


引っ張り出してみた。

パラパラと覗くだけで一気に過去が押し寄せてくる。

ああ、こんな作品もあった。そうだったあの時はここで苦労したんだ。

記憶から完全に消えていた過去が一瞬で思い出される。


そして愛おしさがこみ上げてきた。

この幅50センチ、長さ70センチの中に、私の想いが詰まっていた。

ここはこういうアイディアにしよう、ここの色はこれでパキッとさせて、そしてぐいっと動きをつけて、こう大胆にレイアウトしよう。。。


あの時代、アメリカで私のような手法で紙を切って作品を作っているイラストレーターはいなかった。

そしてポップなイラストのラブロマンスやミステリーはなかったのだ。


その斬新さが買われて、私は一気に忙しくなった。

これまでのペーパーバックのあり方を変えたイラストとも言われて記事になったこともある。

バーンズ&ノーブルという大型チェーン店の新刊のコーナーにあるイラストを使われた表紙が全部私の絵で埋まったこともあった。あの時代にスマホがあったら、確実に写メ撮ってたのになあ。



私は整理が下手だし、めちゃくちゃ忙しかったから、いちいちその絵がどんなふうに印刷物になっていたのかを確認する暇もなかった。

それが今回整理するにあたり、ググってみる。あったあった。こんなふうに使われていたのか(遅すぎ!)ああ、この作家さんの仕事は結構やっていたなあと。


一人の作家さんのシリーズ。
アメリはでは一人のイラストレーターへのリピートが少ないと聞いている



断捨離ってあるけれど、ただでさえ服を捨てるのも、ものを捨てるのも辛いのに、

自分がゼロから作ったものを整理し、捨てていくのはとても勇気がいる。


私は今まで自分が作ったものをどこか恥ずかしいものとして、目を塞いできた。

汚点のような感覚。それは自分自身が自信がないからなのだろう。

自分自身を否定しまくって、愛せなかったからだろう。

だから押入れの隅っこに隠しておいたのだ。


でもこうして、ひとつひとつ見ていくと、そこには愛があった。

たとえ依頼仕事で自分本来の思いからは遠く離れてはいても、私の感覚の中から出てきたもの。

その都度、思いをいっぱい入れて作ってきたのだと心に響いてくる。


自分から出た愛の表現を、私は自分で目を背けてきたのだ。

今だから私はそれを受け取ることができるように思う。

自分自身を愛せると思い始めたから。

その愛をはっきりと今受け取ろう。


受け取ることによってそれを終わらせていくとき、過去は必然的に消えていく。

広げられたカーペットが巻き戻されていくように。

それと同時にそれまで過去の延長線で同じように広がっていた未来は当然消えていくだろう。



そしてそこに知られざる未知が出現する。



2022年7月29日金曜日

PEACE PILGRIM(平和の巡礼)


 

最近ある白人おばちゃんの話を聞いて、びっくらこいた。


彼女は28年間、平和を説いてアメリカ大陸を歩き続けたのだ。


お金も食物も持たず、持っていたのは、

着ていたチュニックのポケットに入れた手紙と紙と鉛筆ぐらい。

文字通り無一文。体一つで世界を歩き続けた。

自分の名前さえ捨てて。


夜は道路の横で星空を眺めながら寝、

食事は誰かに与えられるまで食べない。


え。。。なに、それ?


何にも持たず、旅し続けるって、ありえない!

しかも女性だよ!めちゃハイリスク!



彼女は自分のライフワークは平和のために働くことだとはっきり自覚したという。

その平和という目的のために全身全霊を投げ打ったのだ。


チュニックには、「PEACE PILGRIM(平和の巡礼)」と書かれていた。

背中には、「平和のために徒歩2500マイル(40000キロ)」


しかも1952年、女性として初めてアパラチアン・トレイルの全行程をワンシーズンで歩き通した。

1964年、その2500マイルを達成して以降、彼女はもうカウントしなかった。

交通事故で亡くなる81年まで、一体何マイル歩いたのか。



彼女は旅するにあたり、

どんな組織にも属さないこと、

雨露をしのげる場所が与えられるまで歩き続けること、

食べ物は与えられるまで食べないこと、

そして人類が平和の道を習得するまでさすらいの身であること

を誓った。


昔アナスタシアというロシアのタイガに住む女性の話を読んで、

人の体というのもはこんなにも無限の可能性があるのかと興奮したが、

実際そうであったかどうかは定かではなかった。

だけどこのおばちゃんは、実際そうであったのだ。


一点の曇りもなく自分の道を見つけた時、

人はなんと無限の可能性を持っていることか!

心の力が持っている強さは、私たちが考える常識を超えている。

いや。恐れがないというのはこんなにもすごいことなのか。


あぜんとした。

とんでもないぞこれは。



マジでコースを生で生きている人だ。

しかもこのおばちゃんはコースはまるっきり知らない。


やばいやばい。ここまで行けるんだ。。。!


セコい私は、老後の心配しなくていいんだ。。。とまで考えた。

(そこ、ポイントじゃない)


彼女はずっと神と共に歩いていたに違いない。

喜びと内なる平和と安堵と静けさの中で。


こんなにもすごい人なのに、日本で彼女の本が出版されていない。

いつか出版されることを願う。



なんだか自由を感じ取った。


彼女から何かを受け取った。







2022年7月27日水曜日

今がちょん

 

今ここに生きる。


ポピュラーになった言葉だが、

その意味はとんでもなく深遠なことだった。



奇跡講座のワークブック135

「自分を防衛するなら、私は攻撃される」


という文言の中の一言に釘付けになった。


全文は

「神に対するあなたの現在の信頼もまた別な防衛であるが、

それは一すじの悲しみの跡も残さず、

喜びだけが絶え間なく増え続けるような、

何ものにも乱されない未来を約束する防衛である」



この「現在の信頼」というところにピタッと心が張り付いてしまった。


現在を信じるって何?


わたし「今」を信じたことあっただろうか?

ないない。

心は絶えず、過去と未来を行ったり来たり。


あれはどうだった?

そのあれが、こうなったらどうする?

ちっとも今にいられない!


そこでやっと気がつく。

自我は今が怖いのだ。


今にいてもらっては、自分の出る幕がない。

過去と未来は具体的なこの世界の話。

具体的に人物が浮かび、出来事が浮かび、状況が浮かぶ。

過去は嫌なことでいっぱい。

だから未来にそれがなくなるためにはああしてこうしてと。


時間はリニア式に一直線に見える。

左側にながーーーーい過去があって、右側にながーーーーい未来がある。


で、今は?


「、」ちょん。


そう。自我にとって今は、ちょん。


現在のちょんを信頼する。(なんでやねん)



今には具体的なものが何も出てこない。

物語が動き出した途端、それは時間になる。

時間と空間は自我のものだ。


つまり自我にとって、過去と未来は物語上なくてはならないアイテム。

ちょんは、あっては困るスルーアイテムなのだ。

むしろ「ちょん」程度にしておきたい(笑)




ところがコースは、そこにこそ一点の悲しみもない、

喜びだけが絶え間なくあり続けるところなのだというではないか。


私、現在を信用してなかったわ。

いやいや。考えたこともなかったわ。今を信用するなんて。


して、今を信頼してみる。


。。。


なんだか安心する。


今の信頼と一緒に歩いてみる。

ちょっとゆっくりになる。

だけど楽になる。


買い物をして荷物を持ったら、

今までは、家に帰り着くこと、先のことばっかり考えていた。

で、帰り着いたら、今度はまた次の未来のこと。。。

ほっこりするときなんかない!


でも今と一緒にいると、帰り道が楽しい。




朝起きたとき、神と一緒にいるイメージをしている。

神といっても人物ではない。形のない何か。


その中にじーっと浸っていると、

胸の後ろを軸にして、下を向いた扇が開いていく。

木でできた骨の部分は私。白く貼られた和紙は神。

扇が徐々に広がって光りだす。

最初90度ぐらいだった。毎日やるほどにどんどん角度が広がっていく。

なぜそんなイメージがあるのかわからないけど、とても心地よい。


今にいるとは、そんな感じなんだろうか。

自我ではなく、神といる時間。


自我といるときは、言葉だらけ。

「こっちへおいでよ、こっちの方が甘い水だよ」と誘っている。

しかしそのおしゃべりは、重く苦しいもの。

しかもおしゃべりが終わることはなく、

そこには何の解決もないことを知り始めると、

その声を信用しなくなってきた。



言葉のない今。沈黙の中にこそ答えがある。


今にいるとは、神とともにいることなのだろう。

そして神とともにいるとは、

真の答えとともにいるということなのだろう。


今がちょん、ではなく、


今とはとんでもない秘密を持った、唯一の脱出口である、

「ガチョーーーン!」な今なのだ。





絵:「ぽんぽこたぬき」

2022年7月25日月曜日

やりとげる必要はない

 


やりとげる必要などない。


そんな言葉が耳に入ってきて、ハッとした。


そうだ。私はずっとやりとげよう、やりとげようとしてきた。


ゴールはあそこ。

でもそのゴールに達成できなければ、私はここにいる資格などない。


そうやって自分を叩き続けてきた。

もっと頑張らねば!もっといいものを作らなければ、、、!


極端な話、自分の生き死にに関わることだった。

だから仕事の依頼が来た時、

「これをやり遂げなければ、私は死ぬしかない。。。」

とまでの緊張感に圧迫されてきてたのだ。




納期がある時はそこに突き進むことができた。

納期という山に向かって突き進んできた。

苦しんで苦しんで山を乗り越えた先の達成感。


しかし依頼仕事ではない自分でやりたいことでさえ、

プレッシャーをかけていた。

苦しんで苦しんで作った方がより良いものができる、と。


で、いつも途中で投げ出していた。


そんな自分を、情けない奴、無能な奴と思ってきた。

頑張ってやり抜いてこそ、ここにいていい人間なのに。。。と。




それが冒頭の言葉でひっくり返った。


やりとげる必要はない。。。?

それはつまり、結果を出す必要がないと言っている。

結果なくして一体何を目指すのだ?





この世界で形を残すことが、この世のゴールだ。


コースはこの世界で何をするかということには全く言及していない。

ではコースのゴール、目的は、つまり真に生産的なものは何か。


それは喜び。その喜びの中にとどまること。


(人が聞いたら、まったくアホみたいな答え)



私はいいアイディアを思いつく。

お!これはいい!絶対やったら面白い!

ウキウキとやっていくけど、だんだんと最初のパッションが消えていく。。。


それは私が無能だからだと思っていた。

そうではなかったのだ。

そこに長年信じてきた信念があったのだ。


「苦しんでこそ、いいものができる」



つまり最初はワクワクで作っていたのに、

その先に待っているゴールの手前には、必ず苦しみが待っている。

その苦しみは、苦しめば苦しむほど、より良いものができると。。。。


そりゃー、無理ゲーだろ。


納期なんてないんだぞ。

超えていく山はどこにあるんだ?

なのにその手前に苦しみが必ず立ちはだかっている。。。(笑)


無理無理ー。


そんな信念あったら、嫌になるに決まってる。


やりとげられなくて当然だった。。。

ここで私はやっとできない自分を赦せた。


やりとげなくていいんだ。

形を求めることじゃなかった。

形を苦しんで求めること自体が、自我の目的だった。

自我は、私たちが苦しんでこの世界で戦い続けることを望んでいる。

そこ、目的じゃなかった。



目的は幸せで「ある子」と。

私の仕事は幸せで「ある子」と。

たとえその幸せの中で形ができようと、それがゴールではなかったのだ。

幸せの中にとどまること、喜びと一緒に「ある子」と。


なんて単純なことなのだ。

だけどなんと深いことなのだ。


その幸せのために、光を遮ってきたもの、

つまり苦しむために作り出された数々の信念を手放していく。

握りしめていた信念を赦し、訂正をお願いする。


それは私の思い込みから、この世界を解放することになる、、、!



秋の展覧会の日程が決まった。


今までは、やりとげることに重きを置いてきた。


だけどもうゴールは違うところにある。

作家自身が楽しんでしまおう。


それこそが、私の役割なのだ。




つくし作品展

11月23日(水)~12月6日(火)


場所:高尾駒木野庭園(たかおこまぎのていえん)

   東京都八王子市裏高尾町268-1

電話:042-663-3611

時間:午前9:00~午後4:00 無休


詳しいことはまた改めてお知らせしま~す。





絵:MF新書表紙イラスト




2022年7月23日土曜日

「ある子」と「する子」



この世界は常に「する」ことに終始している。


困った時、「どうしよう?」という。

「どうあろう?」とは言わない。



何かを「する」ことが前提となっている。


ここにいていいと認められるために「する人」でなければいけない。


いい子でいるためには、ぼーっとしててはいけない。

いい子であるために「する子」でなければいけないのだ。



その内容は決まっている。

大人が考えた「正しいこと」を「する子」。


その正しいことをできない子は、

「できない子」というレッテルを貼られ、

その子自身も自分に「できない子」というレッテルを張る。



つまりこの世で生きていく許可証は「正しいこと」を「する子」という条件がつく。


だもんだから、する子は常に何かしようとしていて、

できない子は、そりゃあもう、必死でどうにかできる子にならないといけないってなもんで、

大人の顔色を見ながら生きる。


どっちにしろ、常に何かをしていなければいけないという強迫観念の中で生きることになる。


でもさあ。

「生まれてきてくれてありがとう♪」

という、ただそこにいるだけでありがたがられていたはずが、

だんだん何かをしないと、そこにいちゃいけないに変わる。


これってどうよ。



いつの間にか、生きることは「すること」になっていたのだった。

だから何もしないときは、生きていることにならない。

何かをしてこそ、生きるのだと。


それがどこかおかしいとは気がついていたが、

いざ何もしない自分をまともに見ると、

自分を罰している(笑)


何もしないでは、いられないのだ。。。!

(何もしないでは「居られない」うまいっw)


常に体を動かすこと、うごかせなかったら、頭を動かすこと。

する、する、する、、!


「そこのキミ、ここに何が入る?」

「する」

「はいっ、ご名答~っ!」



ぼーっとしててはいけない。

だから問題を探す。

どこかに問題はないか?

その問題を解決してこそ、ここにいていいのだ、、!


これは幸せと同じ。

幸せも、ここにいていいも、条件付きなのだ。

あれやって幸せ。

それやって、ここにいていいと安心する。





でも。。。


ほんとうは、ぼーっとしてて、いいんじゃね?

ぼーっとしてて、それが幸せなんじゃね?

ただあるとは、ただそこにいるだけで充足していることじゃね?


ぼーっとしててはいけないという焦燥感は、

恐れの重低音の中にいる。

焦燥感も恐れ。

あの人はあんなに頑張っているのに、

私ときたら、ぼーっとして、何にもしてない!

罪悪感という恐れ。


試しにぼーっとしてみる。


で、できない。。。

幼稚園生の頃、あんなにぼーっとできてたのに。。。。!


60年間の間に、ぼーっとするワザをどこかに置いてきてしまった(笑)。


あの時は、ただ「ある子」だったのだ。

ただあるだけで、私は幸せだった。


私は恐れの重低音の中にすっかり沈み込んでしまっていた。

常に常に何かをする子。何かをしないではいられない巨大な恐れの中に。


その霧は私を小さなカラダの中に閉じ込める。

カラダは常にすることとつながっているから。


してこそカラダ。

そしてカラダこそ私。


本当にそうなのか?


ぼーっとするワザを持っていた「ある子」は、

自分をカラダだと思っていただろうか。


もっと大きな何かの中にいて、安堵し安心しきっていた。

ただあることの中で喜んでいた。

それができないはずはない。

だって元々それが私たちなのだから。



「そこのキミ、ここに何が入る?」


「する」


「なんでやねん!」


「ある」が一番~、ア~ルフル~💙





絵:MF新書表紙イラスト