2022年7月2日土曜日

神の愛の現れ

 


早朝、目が覚めた時、頭の中がぶつぶつ文句を言っている声を聞く。


寒い。風邪を引くんじゃないか。

あれはどうするんだ?これはどうやるんだ?

あの問題はどうやって解撤するんだ?

などなど、言葉にもならない問題定義を次々にだしてくる。


それを聞いて、

ああ、まただ。まだ私はこんなにも問題を抱えて。。。。


ん?ちょっとまてよ。

これ、本当にそう?


聞こえる声を疑った。


これ全部ウソじゃないの。。。?


神の愛を妨げている障壁を取り除く。

この声こそが、その障壁。。。じゃね?

その声を、まともに聞く必要があるのか?




最近、二つの見方があることに気がついてきた。


一つは、いつもの見方。

あーじゃない、こーじゃない。

どーせ私が悪い。とか言いながら、やっぱりあいつも悪い(笑)。


もう一つの見方は、

あれもいいし。これもいい。

みんないいんだ、そのまんまで!



前者は、自分の中に罪を感じている。

その罪を抱えているがゆえに、自分や他人を裁く。

問題を見つけて、それを解決するために躍起になる。


後者は、自分に罪を抱えていない。

自分に罪がないので、人にも罪を見ることがない。

だから問題も見つけられない。


そうすると、何もかもが楽しくなって見えてくるのだ。

あれもいいし、これもいい。

ああ~楽しいなあ~~と。



前者が持っている罪は、自覚がないことが多い。

自我はそれに気づかれては困る。

まさかそれが自我の原動力だなんて気がつかれたら、ヤバイのだ。

正体がバレて、消えるハメになる。

だからできるだけひた隠しされる。


今朝の私の中に聞こえた声も自我が誘ってくる声だ。

お前には罪があるぞ~~。

どうだ~~~。こんなにも問題を抱えているぞ~~って。


一見根拠がある問題だが、

自我を選べば、それは問題として存在するかに見える。


しかし聖霊を選ぶことが増えれば増えるほど、

それが実在していないことがだんだんわかってくる。


神の愛の現れを妨げるものとは、自我を選んだ時の心だった。

その自我の目で見た世界のみが、錯覚だったのだ。。。!



私はここにいていいのか。

いていいと言われるためには、あれをしてこれをして。。。

それは自我の吹聴だった。



私は何をしても、しなくてもここにいていいのだ。

それは神の愛の現れなのだから。




絵:「天狗舞」


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