2023年1月27日金曜日

みじめである必要はない

 


仕事ができないことを悩む知り合いから相談を受ける。


私から見たら、完璧に仕事をこなす人。


それでも彼女は自分が仕事ができないことをしょっちゅう先輩になじられて苦しんでいた。

そしてついにその苦しさから先輩の前で泣いてしまう。


仕事ができない悩みの上に、さらに泣いてしまうという、

いわば大人気ない自分の行為に、これ以上ないほど打撃を受けていた。



泣いていいんだよ。


ええ?いいの?

だってめんどくさいやつだと思われるじゃん。。。。




彼女はただでさえ自分は仕事ができないことでみんなに迷惑をかけているのに、

さらに泣くという、輪をかけてめんどくさいやつに成り下がってしまったというおもいでいっぱいになっていた。と同時に先輩に対する憎しみもぐちゃぐちゃに入り乱れていた。




先輩は、彼女が信じていることを、ただ口にしていただけだった。


私は仕事ができない人間だ、と。


「あなたは仕事ができないと信じている。

ほんとうにそうなの?

でもその思いをやめることができる」と。




私は彼女にそのことを伝えたが、彼女の欲しい答えは、

「私は仕事ができるか否か」だった。


私が、あなたは仕事ができる人だ!と何度言っても納得がいかない。

あなたはそういうけど他の人は言わないと。


しかしもし社長に言われても、一瞬彼女は喜ぶだろうが、

そのすぐ後に、また疑いだすだろう。


褒めた理由は何?

なんか魂胆でもあるの?

それともただのお世辞?



そうなのだ。

信念とはこれほど強いものなのだ。


「あなたはそう信じている」


それを疑うことはできるか。


狂人が、誰かと話をしている。

そこには誰もいないと言っても、現にそれを見て信じている人に、

そこには誰もいないといえるだろうか。

説得できるだろうか。



きっと彼女はできるか、できないか、というところにいる限り、

そこを行ったり来たりすることを繰り返すだけだ。



私は一日中考えた。



明け方、半分意識が起きながら夢を見る。


家具の下に溜まったホコリを全身ホコリまみれになりながら取っていた。

キリがなかった。

みじめだった。


ホコリを胸元に集めながら、「みじめだ。。。」と思っていた。


ふと脇を見ると、排水溝に一匹の猫がはまっていた。

半分死んで、半分生きていた。

腐敗の匂いと、にゃあにゃあと私に助けを求める声。

取り出せたとしても死ぬことはわかっていた。


みじめだ、、、。


世界はみじめだ。。




そして思った。

みじめである必要はない。。。。!


そうだ!

みじめである必要はないのだ!


こうである必要はない!

コースの言葉が思い出された。



みんな同じだった。

この世界のものはみんな同じ。みじめであった。


仕事ができるか、できないか。

猫は生きているか、死んでいるか。

泣くか、泣かないか。

いじめられるか、いじめるか。

お金が増えたか、減ったか。


いくら「あなたは仕事ができる」と言われても、そこに安堵は一瞬しかない。

次の瞬間また不安が襲う。

お金が増えても、また減ることを心配する。



私はもう、みじめさを選ばない、、、、!

そこはすべて同じだ。地獄だ。



それを選ばないとは、信じていることを疑うということ。



仕事ができるできないは、その世界を信じているところにいる。


だがそれを疑うということは、この世界とは違う視点に立つことだ。


決断の主体はそこにある。

この世界を疑うところに立つ。




通常私たちが考える選択は、AかBか。


仕事ができるかできないか。

男か、女か。

お金があるかないか。

右か、左か。


それは全て同じ。みじめさの中にいる。


だがみじめさを選ばないという選択がある。

それが垂直の選択。

これが本当の二者択一。


愛か、恐れか。

光か、闇か。

自我か、聖霊か。


片方は実在しない。



一瞬一瞬に自我は私たちに語りかける。

こっちだよ~。こっちの水は甘いよ~。


慣れ親しんだ、みじめさの蜜の味に誘われる。

何度も通ってつけられたワダチの跡に車輪がはまっていく。。。


これからも誘惑は何度もやってくるだろう。


その度に打ちひしがれるだろうけれど、

それでもそれを私は選ばない。

もうみじめさは選ばない。


愛を選ぶ。

光を選ぶ。




絵:「雪の杉林」








2023年1月24日火曜日

デジャヴ




GYAOの配信で、「ブラッシュアップライフ」というドラマを見ている。


33歳で死んだ主人公が、受付で来世はオオアリクイだと聞かされて悩む。

そしてもう一回今世をやり直すという選択をする。


オオアリクイでの来世の理由は、あまり徳を積まなかったということで、

彼女は再度生まれ変わり必死で徳を積む。


しかしまた33歳で死に、

今度はほんのちょっと徳を積んだらしく、来世はサバに。

さんざん悩んだあげく、また3巡目の今世に挑戦。。。。



という面白い設定だが、私はそうも笑っていられない。

時々やってくるデジャヴ。

「なんか。。。これ、前に見たことあるぞ。。。知ってるぞ、これ。。。」


そのドラマは記憶が残ったまま繰り返すが、

この私のデジャヴは、ひょっとして記憶が消された何巡目かの、この人生ではないのか。。。?

そのデジャヴは、マジでその記憶がふと蘇るだけじゃないのか。。。?


同じ設定で同じように反応する自分がいる。

誰かにこう言われたらら、こう切り返す。

誰かにこう思われているかもしれないと、恐れを抱く。

そしてその恐ろしいことが起こらないために策を練る。。。


ということの繰り返しは、
生まれ変わっているかどうかは置いといても、
まさに人生の繰り返しなんじゃないのか?


この一つの人生の中で、何度も同じ設定で同じ反応を繰り返す。

このことが、輪廻なんじゃないのだろうか。


自我は「違う違う」という。

「新しいことだよ。今まで体験したこともないことだよ。

ほら、その中で反応して。」


こうやって私はまたこの世界にひきづりこまれているんだとしたら。。。



あのドラマは、徳を積んでいくほどに、人間に戻れる(?)のかもしれないが、

そもそも人間に生まれ変わることになんの得があるんだろうか?


このたかだか何十年の人生。

楽しいったって、大した楽しさでもない。いずれ死ぬ。


ブッダがこの輪廻から出るように教えたのは、

この生まれ変わることになんの意味もないと知ったからではないか。

それが「苦」なのではないか。


ではこの輪廻から出るには、どうすればいいのか。


同じ反応をしないことだろう。

誰かにこう言われたら、こう切り返さない。

誰かにこう思われているかもしれないと思ったら、それを取り消す。





ほんの小さな自分のいつもの反応でさえも、

それに気がつき、やめていく。

過去と同じ反応を選択しない。


そのほんの一瞬の心の選択で、何かが変化しているのを感じる。

今までとは違ったものがそこにある。


同じ反応を繰り返していた頃は、同じ結果しか生まなかった。

苦しんで、次の苦しみに向けてまたもがく。



同じ反応をしていた時には、時間があった。


でももう同じ反応を選ばないと、、、、


時間が消えていく。


今、ここにいはじめる。




それは輪廻という時間が消えていくからではないだろうか。





絵:「イチイの木」










2023年1月22日日曜日

想像してみる


 

肉体という分離の中にいると、相手の心がわからない。

些細な言葉の違いですれ違いが起こる。


その思いをひとつの心に持っていく。

そこには対立するものがいない。


お互いがお互いの心がすけて見える。


そこにいると、どっちも悪くないことが見える。

どっちもその思いの中で正しいと思うことを考えている。


誰も悪くない。。。

そう思った時、自分の罪も兄弟の罪も消えていく。





想像してみる。


もし体がなくて、兄弟と向かい合ったら、何が起こるだろう?

言葉はどうなるのだろう?


そう考えると、言葉はほとんど形のことを話していることに気がつく。

肉体というものがあるという前提で言葉があった。


肉体がないとき、怒りはどうして起こるだろう?


。。。。


考えてみると、怒るきっかけがない。


怒るのは、自分を傷つけられた!という思いからくる。

これ、肉体があるという前提からきている。


心が傷ついたっていう思いも、その前提に「私は肉体だ」という思いから、

心まで傷つくことになる。

ということは、肉体がないと、怒ることができない。


悲しみは?

悲しみもまた、一人ぼっちという思いからくる。

これも肉体ありきだ。


恐れは?

そう、これも肉体を破壊されるという恐れからくる。

全ては肉体ありきから来る苦しみだ。


そしてこの肉体がないという前提で、兄弟と向き合ったなら、、、。


つまり形のない考えとは何か。

形がともなわない言葉とは何か?

そんなものあるのか?

あっても限られたものではないだろうか。


そんなことを考えていた矢先、この言葉と出会う。


『彼らの言語に言葉はない。彼らの知識は直に理解され、完全に共有され、完全に一なるものである』

ワークブック、レッスン129、4段落目


彼らの言語に言葉はない。

言語に言葉はいらないのだ。

直に理解され、完全に共有され、、、。

つまりコミュニケーションに言葉はいらないと。。。


言葉とはこの分離の世界のものだ。

バベルの塔の物語を思い出した。



この世界に私の望むものはない。

そこから先に進むとき、

言葉はまったく役に立たなくなり、

言葉では語られなくても、確実に理解される沈黙に入っていく。


この世界を超えたところに、私の望む世界がある。



絵:MF新書表紙イラスト




2023年1月19日木曜日

罪から間違いへ


 

目の前に、嫌なことをしている人を見て、

「これが私?こんなことする人なの?」


投影という言葉はなかなか難しい。


自分のが信じていることが、現れている。

それを通して、自分が何を信じているかを知る。


そういう意味で投影というものはあるのだが、

どうしても最初はそれを、

自分をさばくような使い方をしてしまうのではないだろうか。



「こんな人間じゃない、私って!」

という反発から、


「え~~、、、こんな人間なんだ、私。。。しょぼん。。。」

という嘆きや、

返って自分を責める方向に向かったりする。



罪を外に見たとき、その罪は自分にあると信じているからなのだが、

自分に罪があると思って、その罪ある自分を責めてしまう。


でも罪があるわけではない。

罪があると信じているってことだ。


全部「信じている」ことからくる。


「罪がある」」と

「罪があると信じている」

は雲泥の差がある。


あると思っている限りは、目の前の相手を赦せないだろう。


でもただ信じているだけなのだと気がつくと、

どちらにも罪がないことがわかり、自然と赦し始める。


そして目の前の人は、自分の信じていることを役者になってやってくれているだけなのだと理解し始める。


その時こそ、目の前の兄弟は、私が信じていることの投影なのだと真に理解する。


どこにも罪はない。

罪ではなく、間違いだった。

信じたという間違いだったのだ。


その理解とともに、信念は消えていく。





絵:MF新書表紙イラスト





2023年1月15日日曜日

ちっとも平等じゃない男女

 


ふと、変なことに気づいた。


女の人は、旦那さんに怒ってる人が多い。

だけど、旦那さんは、奥さんに怒ってる風じゃない。


私もそうだけど、旦那に怒り心頭な奥さんをよく見る。

どうしてか。意識はされてないかもしれないが、旦那が怖いのだ。


旦那が私に怒っているとき、体が震える。

うちの旦那は口が立つ。

その罵倒は、肉体を抹消させられるような恐怖を覚える。

それが怒りになっている。

怒りは恐れからくる。


反対に、旦那はどうか。

私がどれだけ怒っても、怖くないらしい。

そこにむかっ腹が立つ。

しかしよく見ていると、

俺は捨てられるかもしれないというような心の恐れがあるようだ。


女性は、肉体的なダメージに恐怖し、

男性は、精神的なダメージに恐怖する。


そんな構図が見えてきた。


だから奥さんはいつも旦那に怒っているんじゃなかろうか。

力は、圧倒的に男性が強い。組み伏せられる恐怖。

動物的な反応に近いのかもしれない。


その反対に、男性は女性にコテンパンに心をやられる恐怖がある。

それは見捨てられると言う恐怖。

そう言う意味で、旦那は女房が怖い。




なんだかな。全然平等じゃないな。

なんか、面白くねえな。


だってどっちも同じように怖がって欲しいじゃねえかよ。

私が旦那を怖がるように、

旦那も私のことを身体的に怖がって欲しいじゃん!


そんな思いを持って寝た。

そしたら夜中にうなされた。

男に対する女性の怒りの波が私に押し寄せていた。


うわあ、なんだ?なんだ?

めっちゃ苦しい!


よく見ると、どうも私の個人的な怒りじゃないみたいだ。

この世界中のありとあらゆる女性たちの怒りだ。

ものすごい怒りで苦しくて全く寝られない。

今、町内会の歴史をやっているせいもあるのか、

その頃の女性の想いまでも入ってきている!



この社会は男社会だ。

その社会の力関係に押しつぶされた女性たちの抑圧された怒りが私を襲う。

こんなにも、、、こんなにも、この世界の女性たちは怒っているんだ。。。!

その怒りに圧倒されていた。


赦しまくっても、まったく効き目がない。

トイレに起きて、電気をつけると4時半。このまま起きようか。でもまだ暗い。

しぶしぶ布団に入って、聖霊さんに頼む。


「教えてください、教えてください。

これをどう見ればいいのですか?

聖霊さん、あなたなら、これを一体どう見るのですか?」


必死で聞きまくった。

まったく答えがない。

それでもそれ以外することができずに、ひたすら聞き続けた。


そして、爪楊枝の先っちょみたいな言葉が浮かんだ。


「形はない」


ああ!そうだった!


それから形を消していった。

あらゆる形を真っ白で何もないものにしていった。


苦しみは、波が引くようにスーッと消えていった。





肉体がある。

男と女がいる。

力がある、力がない。


すべての具象は、この水平線上にしかない。


この水平上は、破壊と絶望と苦しみと悲しみと怒りと恐ればかりだ。

その上に立って、いくらその苦しみを消そうとしたって消えるわけがなかった。

そこは自我の領域。


そこから垂直の位置に立つ。

そこに形はない。

男も、女も、肉体もない。

力のあるなしもない。

そこにどんな苦しみがあろうか。




安らぎの中で私は朝を迎えた。


心は一つであるならば、

この今朝の私の安らぎは、

どこかの誰かに癒しを与えたのかもしれない。


そう願いながら、真実には形がないことを、

ことあるごとに思い出していきたいと思う。




絵:「勝手に来やがれ」ミステリー表紙