目の前に、嫌なことをしている人を見て、
「これが私?こんなことする人なの?」
投影という言葉はなかなか難しい。
自分のが信じていることが、現れている。
それを通して、自分が何を信じているかを知る。
そういう意味で投影というものはあるのだが、
どうしても最初はそれを、
自分をさばくような使い方をしてしまうのではないだろうか。
「こんな人間じゃない、私って!」
という反発から、
「え~~、、、こんな人間なんだ、私。。。しょぼん。。。」
という嘆きや、
返って自分を責める方向に向かったりする。
罪を外に見たとき、その罪は自分にあると信じているからなのだが、
自分に罪があると思って、その罪ある自分を責めてしまう。
でも罪があるわけではない。
罪があると信じているってことだ。
全部「信じている」ことからくる。
「罪がある」」と
「罪があると信じている」
は雲泥の差がある。
あると思っている限りは、目の前の相手を赦せないだろう。
でもただ信じているだけなのだと気がつくと、
どちらにも罪がないことがわかり、自然と赦し始める。
そして目の前の人は、自分の信じていることを役者になってやってくれているだけなのだと理解し始める。
その時こそ、目の前の兄弟は、私が信じていることの投影なのだと真に理解する。
どこにも罪はない。
罪ではなく、間違いだった。
信じたという間違いだったのだ。
その理解とともに、信念は消えていく。
絵:MF新書表紙イラスト
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