肉体という分離の中にいると、相手の心がわからない。
些細な言葉の違いですれ違いが起こる。
その思いをひとつの心に持っていく。
そこには対立するものがいない。
お互いがお互いの心がすけて見える。
そこにいると、どっちも悪くないことが見える。
どっちもその思いの中で正しいと思うことを考えている。
誰も悪くない。。。
そう思った時、自分の罪も兄弟の罪も消えていく。
想像してみる。
もし体がなくて、兄弟と向かい合ったら、何が起こるだろう?
言葉はどうなるのだろう?
そう考えると、言葉はほとんど形のことを話していることに気がつく。
肉体というものがあるという前提で言葉があった。
肉体がないとき、怒りはどうして起こるだろう?
。。。。
考えてみると、怒るきっかけがない。
怒るのは、自分を傷つけられた!という思いからくる。
これ、肉体があるという前提からきている。
心が傷ついたっていう思いも、その前提に「私は肉体だ」という思いから、
心まで傷つくことになる。
ということは、肉体がないと、怒ることができない。
悲しみは?
悲しみもまた、一人ぼっちという思いからくる。
これも肉体ありきだ。
恐れは?
そう、これも肉体を破壊されるという恐れからくる。
全ては肉体ありきから来る苦しみだ。
そしてこの肉体がないという前提で、兄弟と向き合ったなら、、、。
つまり形のない考えとは何か。
形がともなわない言葉とは何か?
そんなものあるのか?
あっても限られたものではないだろうか。
そんなことを考えていた矢先、この言葉と出会う。
『彼らの言語に言葉はない。彼らの知識は直に理解され、完全に共有され、完全に一なるものである』
ワークブック、レッスン129、4段落目
彼らの言語に言葉はない。
言語に言葉はいらないのだ。
直に理解され、完全に共有され、、、。
つまりコミュニケーションに言葉はいらないと。。。
言葉とはこの分離の世界のものだ。
バベルの塔の物語を思い出した。
この世界に私の望むものはない。
そこから先に進むとき、
言葉はまったく役に立たなくなり、
言葉では語られなくても、確実に理解される沈黙に入っていく。
この世界を超えたところに、私の望む世界がある。
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