2011年8月30日火曜日

われわれは競争すべし!か?




ふと思ったんだよなあ。
現代人がこーんなに忙しいのは、単に競争させられているからだけなんじゃないの。売り上げ上げろとか、もっと成績を上げなさいとか、いわれてさ。

ちっちゃい時から、もっとお勉強しなさいと言われて育ち、晴れて社会人になったら、今度はお金の成績上げろと言われる。もっともっと、上へ上へと言われる。そんなに上に登ったら、成層圏に出ちゃうじゃないか!息できないし。

だけどさあ、てっぺんはだいたいにおいて狭いわけだし、そこに全員が登っちゃえるわけないし。という事は、ほとんどの人が脱落するわけで、そーすると、なんか人生いやんなっちゃう人続出。そのいやんなっちゃう憂さを晴らすために、今度はゲームやっちゃったりなんかする。するとそこにも、敵と味方がいてさ。それ戦え、やれ点数かせげ、とあおってくる。
スポーツ観戦してもどっちが勝った負けた、メダルとったとらないと気になるし、ゴルフやってもボーリングしても数字気にするし、休みになると渋滞の高速で、なんとか目的地に早く着けないかとあくせくするし、バーゲンセールで誰よりもお得なものを勝ち取ろうとする。

自分の子供が成績上がっていい学校にいっても、就職口あるかどうかも保証ないこの世なんだけど、その子にはしっかり競争しなけりゃ生きていけない!とインプットされてしまう。他の子を蹴落としてまで上に上がろうとする子供を作ってしまう。自分の子に敵対心を育てていいのか?ゲームでも人を抹殺しまうものをさせてていいのか?いじめの問題だって、まわりにそれを助長するものがあるからなんじゃないかなあ。

結局、仕事しても遊びしても競争させられているわけだ。
これはホントに人間の生き方なんかなあ〜。
「我々はあらゆることに競争するべし!」というお告げでももらったんか?

いや、ほんとにもらったんかもしれん。
競争させときゃ、我を忘れるし、競争に勝てないととんだことになる、と恐怖を植え付けときゃ、いやでも競争して人を押しのけて、我先にと人が群がる。そうしたら、人は一人でじっくり考えたりする事はないし、次々に目新しいものを「はい!つぎこれを越えなさい!」と提示しとけば、「あ!次はコレを目指すのね!」と飛びついてくれる。なんとコントロールしやすいのだ。

でもこの世の競争社会を見ていると、どー見てもこの先崩壊にしか向かわない。それは、いきなりのドッカーン!という崩壊かもしれんし、はたまたじんわ〜りと崩壊するんかもしれん。ドッカーン!と来てくれると、「あ、しゃーないか」あっさりと人は腹をくくるが、じんわ〜りがきつい。真綿で首を絞めてくる。

自然界の崩壊は、大津波がドッドーン!と、鳴り物入りで映画みたいにやっては来なくて、ひたひたと恐ろしいスピードで黙ってやってくる。確実にすべてを壊しながら。
そういう事が世界中でひたひたと起って、ひたひたと私たちを呑み込んでいくんではないだろうか。

それに気がつけよと言われている気がする。
人間が競争にうつつを抜かしている間に、ひたひたと人間世界の崩壊が始まっている。いっとくが、地球の崩壊ではなく、単に私ら人間の視点から見た崩壊。人間が消えてくれりゃ、また地球さんはたんたんと美しい自然を取り戻していけばいいだけの事なのだ。
劇的にドッバーン!とやって来ないのは、ある意味では地球さんのやさしさかもしれん。

だからわしらは、さっさと競争をやめるべきなのだ。そろそろ地球さんにうっとおしがられているのだ。

だが会社の社長さんに向かって
「社長!もう売り上げ上げるの、やめるべきだとおもいます!」
と、いったところで
「君、あしたから来なくていーから」
といわれるのがおちである。

まず自分の内側から競争をやめる事にする。
近所のオヤジと野菜の大きさ競わないとか(ちっこいのー)。おとなりさんが洗濯物干してるからウチも負けずに干すとか(こりゃまたちっこいのー)。インターネット見て、ぶつぶつ言わないとか、他のイラストレーターの方が仕事が多いとあせらないとか、ギャラが安いと文句を言わないとか(生々しい話じゃのー)。

とりあえず、会社の成績目標は競争しているフリをする。
だけど心の中の競争がやまると、比較する事がなくなる。自分が他人が世の中が、、とイライラする材料がへる。心が落ち着く。冷静に周りを見る事ができる。
すると、なんで成績が上がらないのか外から原因を見る事ができるかもしれんではないか!

もしこの世に競争がなくなったらどうなる?なによりのんびりする。あくせくする理由がない。学校の成績上げる必要もない。空の雲の流れを見て会社に通い、教室もお天気になれば青空教室。草の匂いをかぎながら寝そべってやる。なんだか愉快じゃないか。それでもきっと世の中は回っていく。スピードが遅くなるだけだ。それでいいじゃない。コンビニ弁当すぐ手に入らなくても、死にはしないとおもう。(人によっては死んでしまうかもしれんが。いや、コンビニ弁当はかなりやばい。食わん方がかえってイイかも。。。)

わし、競争をやめる。いち抜けた。
と、今朝起きたとき思いましたです。告白。
 

絵:MF新書「自画自賛力」表紙イラスト今月発売で〜す!

2011年8月27日土曜日

鏡の中の自分を整える



鏡の中の自分の髪の毛がボサボサだからといって、鏡に近づいて、鏡の中の自分の髪を整えるバカはいないだろう。さっさと自分自身の髪を整える。

この世は自分が映った鏡である、とはよくいわれる言葉だ。
人は自分に気に入らないヤツがいると、その気に入らないヤツを変えようとする。ダンナを変えようとしたり(交換する意味ではない)、システムが悪いんじゃといってシステム変えようとしたり、あの宗教がいけないんだ、といって戦争をしてみたり。
それってつまり、鏡の中の自分の髪型を変えようとする行為なんじゃないのか。(それってバカって意味?)

あるときAさんと一緒に歩いていた。彼女は人とすれ違うごとに、
「いやっ、あのおばさん。妙なカッコウして歩いてる。」
「あ〜あ、あんな風に着飾って。一人悦にいってるんだわ」
一人ぶつぶつとつぶやくこと山のごとし。
彼女は町を歩く一ひとりひとりがいちいち気に入らないらしかった。

それをいうことは彼女にとって何の意味があるのか?人のフリを笑って、自分を高みに置いているのだ。
彼女の口からよく「あの人は悦にいっている」と言う言葉を聞く。
わたしゃ、最初そんなもんかと気にしてなったが、あるときふと分った。
妙なカッコウして歩いているのも、着飾って悦にいっているのも、本当は彼女自身が、そんなふうに他人に見られているんじゃないか、と気にしているんだと。


そういう姿を見ると、外は自分の鏡だなとおもう。自分が思っていることが外に現れているのだ。
これ、自分じゃない誰かがやっているのを見るから分ることであって、自分自身がやっている行為はそう簡単にはわかんない。だけどヒントになるのは、どーも「気に入らない」ことなんだな。他人がやっている行為で自分が「気に入らないこと」があると、たいてい自分でもそれをやっている。
この世はえらいご親切にも、自分の欠点を人様が演じてくれるのだ。


人のフリ見て笑って自分を高みに置くというのは、ほんとはとっても自信がなくて、他人の目が怖いから、その怖さを隠すために、人を批判して自分の自信のなさを覆い隠しているのだ。鏡に映った自分の姿を、おばさんを批判することで覆い隠して見えなくさせているだけのことなのだ。その下に自信のない自分がいる。それを見たくないから人の批判という風呂敷でもって、その鏡を覆ってしまっているのだ。
だけどその風呂敷をいくら厚くかけ続けたって、はずせばいつでもそこにいる自分の姿は消えない。そのおばさんに文句を言いにいったって、それは鏡の中にいる自分だから、鏡をいじくってなんとかしようとするようなもんだ。

鏡に映った自分の姿を(ひえ〜)おっかねえけど、ハラくくって見なきゃいけねえや。。。ほんでもってさっさと自分自身の髪整えることにしよ。
ほんなら、この世はかってに整って来るのだ。

でもさ、その彼女のことを気にしている私も、実は彼女と一緒ってことだな。ゲゲゲー、鏡ってこえ〜。


2011年8月23日火曜日

パスカルにケンカ売る?



人は考える葦である。

考えることはえらい!と言われている。でもさ、考えることって、ほとんどどっかから聞いたり、見たり、体験したりしてきたことを「考えている」んじゃないのか。そりゃ、えら〜い偉大なる人は、考えて考えてなんかすごい発見をしたらしいが、一般的な私らは、考えて考えて考えても、知らないことは考えだせないではないか。ということは、考えることといえば、「過去」のことだけなんじゃないだろうか。その過去のことはすでに終わったことで、そのすでに終わった古いものをなんとか駆使して使い直そうとする。でも人生は一時として同じところにとどまっていない。まったく同じことが繰り返されれば、同じパターンでやり過ごせるけれど、口から食べ物を食べたらお尻の穴からうんこが出るとか。でもコレって考えてやっていることじゃない。そーか、肉体のパターンは、頭で考えてできることじゃない。こりゃ、自動的に肉体の英知がやってくれていることなんだ。

肉体の英知と違って、人生いろんなことが起きてくる。それをどう処理するかは、ニンゲンは考えて処理しようとする。だが、出来事は常に新しいのだ。その人にとって、未知なるものがやってくるのだ。なのに、人がやったことや、かつて自分がやって来たことを、ほじくりかえして、「あ、これこれ、これ使える!」とかいって処理するのは、なんか違うような気が最近するのであった。結局自分が知っているものを、思い出して来ているだけなのだ。

わたしゃ高校のとき、学校でやっている学びと言うもんが、ほとんど記憶力に頼っていることに気がついた。英語しかり、世界史、日本史、理科、国語、数学だってパターンを覚えなきゃいけない。いわゆる頭のいい人は、「記憶力のいい人」ってならないかい?あ、それと「ヤマカンのいい人」ね。「ここ、テストで出る」とわかるやつ。だからやまんばは記憶力もヤマカンもさっぱりなもんで、成績は下の方をずるずると。でも美術に記憶力はいらないから、あれだけは5だった。

と言うことは、私たちが「考える」と言うことは、ちっちゃい時から鍛えて来た「記憶したものを思い出す」と言うパターンにはまっているだけなんではないか?

一時としてとどまっていない瞬間瞬間を、過去のやり方で答えを導きだしていーのだろうか。ほんでもってそれでオッケーなんだろうか。いや、そんなこといったら、きっと「当たり前じゃないか。それで人類は今までやって来ているんだ」と反論食らうの分っているよ。けどさ、何かこう、腑に落ちないんだな。だからわざわざ書くわけよ。ほんとにそーなの?って。一人ぐらいあまのじゃくなヤツっていたっていいでしょ。

じゃあ、未知なことをどーやって未知なことで処理するか。別にとんでもなく前人未到の未知なことをを思いつく必要はないんだ。その答えは、きっとその人にとって、いつもは考えられない答えなんだ。どーやってその考えられないことを思いつくか。
考えないことじゃないか?

いつも私たちは、自分の考えの中で頭がいっぱいになっている。それはほとんど同じパターンの中でぐるぐるしてるんだ。その同じパターンで埋まっている空間は、他に何も入る余地がない。そこに、今まで思いもつかないアイディアが入って来られるように、空間を明けておくことなんだ。きっとそのアイディアは、中にはいって来ようとしている。新しい方法で解決しろよと待ち構えている。でもその人が過去の考えでいっぱいになっていたら、その空間の中はぎっちり埋まっている。だから入って来られない。けどひとたびそのことに気がついて、
「あ、入ってくれる?空間明けとくから」としておくと、
「じゃあ、こういうアイディアがあります」と入って来れるのだ。

心を自分の考えで埋め尽くさないで、静かにしていよう。すると、今まで考えもしなかったアイディアが、そこに、すっと当たり前のようにいるのだ。
多分偉大な人々も、考えて考えて考えて、もう、考えつかなくなって疲れ果てて、ふっと空間が開いた時に、偉大なアイディアが入って来たんではないだろうか。

げげげ〜、これはフランスの思想家パスカルにケンカ売ってんのかなあ。。。

絵:「ひまわりと妖精」COOPけんぽ表紙

2011年8月18日木曜日

夏真っ盛り石けんなし生活



勝手に石けんなし生活もはや2年と5ヶ月を過ぎた。
相変わらず、石けん、シャンプー、リンス、歯磨き粉、まるで必要性感じず。畑に出ても日焼けもせず、シミもふえず、野良仕事のあとはぬるいシャワーを浴びるだけ。さらさらと手で身体洗うついでに頭もバシャバシャお湯だけで洗って、はい終わり。さらさらヘヤーは相変わらず。

最近、顔になんでシワがいくかと言う記事を読んだ。それによると、頭の皮膚が緩んで下に落ちてくるからなんだそーな。あら、以外と簡単な理由なのね。シャンプーリンスを使うことによって頭皮が緩んで来ると言うものらしい。そういえば、お年のいった方は、頭のトップが薄い。あれは上からじょじょに皮膚が伸びて下におりていってる証拠じゃないだろか。映画「ブラジル」でも皮膚をのばして若返るおばあさんがいた。実際、そうやってシワを引っ張って後ろで束ねている話を聞いたことがある。

ということは、逆にシャンプーリンスしないと、頭皮が緩まないってことなんじゃないか?と推測する。やまんばは、頭マッチロなのに、あまりシワがないほうなのは、そのせいか?くほ。なんじゃ、そんなことかい?

シミやシワの原因は、たぶん、やまんばは知らんが、いろんな化粧関係のお品物をいろいろお顔に塗るのもあるような気がする。やまんばの右ほほにあるシミも,NYでいるとき、がんがんにきついシャンプーリンスを使ってからなったと疑っているのだ。
科学的なアレコレって、それぞれに一長一短あって、副作用もあり、アレが駄目ならコレ使い、いや、コレが駄目ならソレ使いして、お金と精神的な労力使わされる。それだったら自分の身体から出た分泌物が何より心強いとおもうんじゃが。

でもそもそもホントに、紫外線ってシミやシワの原因なのか?そんなに紫外線は悪いヤツなのか?自分から出た分泌物って悪いヤツなのか?

それって恐怖をあおって、人に物を買いに走らせる、例のぷろばガンダムじゃないのかと疑っちまうのだ。だって、なんにも顔にぬらないで畑に出ても、コゲもしなければ、シミもできないのだから。

まあ、こーやって人体実験して自分で確認するわけなんだけど、ニンゲンってしみじみ、環境に適応する肉体を持っているなあとおもうのだ。


絵を紙を切って貼ってしてたころ、ほとんど「おまえは棟方志功か!」というくらい紙に顔くっつけて切っていた。ところが、パソコンだけの仕事になると、絵が、勝手にモニターの中でおっきくなったり、ちっこくなったりしてくれる。いつの間にか、私の眼は、パソコンとの距離だけで固定されてしまった。おかげさまで遠くのものは見えるが、近くのものは見えないという、いわゆる「老眼」というものになった。おお、わたしもついに老人の域に達したか!と、一人ほくそ笑んでおったのだが、そのうち、絵を描くのも裸眼でママならず、100円ショップで老環境を買う。だが、合わないのか眼が痛いので、正式に老眼鏡を買い求めた。

さて、晴れてリッチな老眼鏡をかけてさっそうとお仕事をこなすが、そのうち便利なものだから、それまでパソコンにメガネなど必要なかったのに、「ようみえるわい」とメガネ使っているうち、ついに、裸眼でパソコンも見えなくなった。
そして極めつけは、食べているご飯がぼけちゃったのだ!なんとかなしいことよ。自分で食べてるご飯がぼけているのだよ。一日の一番楽しい時間がぼけているなんて!!!!

ニンゲンの身体はこうもその場の状況に合わせて調節するのかと言うことを味わう。ニンゲンが身体をそれに合わせて変えていくことは、いいも悪いもないのだ。
「あん?メガネかけたのね?じゃ、それに合わせましょ」
となっただけのことなのだ。
これって、シャンプーしたら、
「あん?シャンプーしたのね。大事なあぶらがとれちゃうわね。じゃあ、あぶら出さなきゃ!」
と反応する頭皮と同じパターンじゃない?

石けんなし生活でニンゲンの適応能力をしったこのやまんば、ここでまた再び人体実験をせいで何をする!

と、いうことで、昨日から老眼回復のため、ジコジコと実験を開始しておるわけであります。しょーじき、今パソコンはメガネかけて打っております。よくみえるでえ〜。
しかーし!今朝は朝ご飯が、裸眼でちょいと見え始めたのであります。
ぐふふ。わだば超人になるぞー。


絵:たばこひろい

2011年8月13日土曜日

息子はママの期待に応える




ある日、息子が「ママ、地震の夢見たよ」という。
すると「まあ、なあに坊や、どんな夢?」
「うんとね。大きく揺れたあと、海からいっぱい水がやって来て、ビルとか流されちゃうの」
「まあ、すごい!それでそれはいつおこるの?」
「さあ、知らない」
「そんな事言わないで、見たものをちゃんと言いなさい。テレビでなんか言ってなかった?」
「う。。。ん。。と。あ、テレビでお姉さんがなんか言ってた。」
「そっ、それはなに?」
「え。。と。。」
「東京とか大阪とかなんか場所、言ってなかった?」
「あ、東京は、こわれたから、大阪でやってますって」
「え~~~ッ!いつなの!?いつ!?新聞見なかった?」
「新聞?あ、、、みた」
「何日って書いてあった?」
「8月の、、、、1のあとの文字が読めない」
「も一回寝て聞いて来なさい!」

勝手に妄想するある親子の会話。
その後その日にちをお母さんは息子から聞き出し、ブログに書いた。
その後、そのブログは閉ざされた。

彼女は彼の夢に期待をした。きっとこれは神様からのメッセージだ。そして私はそれをお伝えするお役目があるのだと。そのときから息子はママと一緒に過ごす時間がふえた。ママは聞く。「ねえ、神様はなんて言ってたの?」息子は答える。ママと一緒にいる時間がうれしい。ママに期待されている自分がいる。ママの期待に応えなきゃと思う。そうやってママの期待に応えているかわいい坊やがいる。

最初に見た夢は、予言なのか、東北大震災を見た事を語ったのか、どっかで見た映画のシーンかもしれない。だがその後、ママの期待が入る事によって、どんどん歪んだものになっていく。
ママはメッセンジャーとしてのお役目があるのだと思い込む。ブログでそれを披露する。大きな反響を呼ぶ。共感者があふれる。ママは有頂天になる。それはいつ?どこでおこるの?どうやったら逃げられる?ママはコメンターからの質問を神様に聞いてくれるように息子に頼む。それに答える神様。


そんなものがもしこの世にいたら、人生はもっと楽に違いない。聞けば答えてくれる神様。地震がいつどこでやってくる。どこに逃げたらいい。どうすればいい。次どうすればいい?仕事は何をすればいい?どこに住めばいい?
そんな便利なものがあったら、自分で考える事を放棄するにちがいない。困ったら神様に聞けばいいのだもの。



みんなどこかでそんな存在がいるほうがうれしい。そのお告げを伝えてくれるブログがあったらラッキー。お金はかからんし、覗き見するだけでいいし、自分の家族だけどこかに逃げて助かっちゃえばいい。するとみんな同じ場所に逃げ込んでて、
「あ~、あんたあのブログ、見たわね」となる(笑)。(やまんば、おめえも見てるだろ)


ママは怖くなったのだろう。もしその「予言」があたらなかったらどーしよー。息子の言っている事が違っていたらどーしよー。
きっとコメントに誹謗中傷もよせられていたのだろう。
「あんた、違ってたらどーなるかわかってんの」
予言された日より前にそのブログは閉ざされた。そして予言の日は過ぎた。。。


今頃彼女はどうしているのだろう。それが心配される。真面目そうな性格だから、相当落ち込んでいるに違いない。自分の身分は誰にも見つかってはいない。しかし自責の念に押しつぶされそうになっているはずだ。

今の彼女の気持ちは、どっちかになっているのだろう。
一つはその神様からのお告げは今も続いていて、
「あれは、こうこうしかじかで、地震は免れたのです。。」
というお答えをもらって、ほっとしている。
それか、息子を信じなくなる。。。

どっちにしたって、自分を正当化するために彼女の心は必死で動いているはずだ。
気の毒なのは息子さん。ママのためを思って一生懸命「お告げ」を「聞いた」のだ。それを「あんたがへんなこといいはじめるから。。。」
と言われたり思われたら、なんてかわいそうなのだ。
だが、それで
「アタシってばか。なんでこんなもんに引っ張り回されたんだろ」
って、「お告げ」から冷めてくれたらまだいい方だ。問題は、最初のほう。

その後も神様からのお告げを聞き続け、いや、神様からの「いいわけ」を聞き続け、ああしろ、こうしろと振り回され続ける事だ。。。
心のどこかで当たらなかった予言に不信感を抱く。その苦しさから逃れるように、自分への正当化が頭をもたげる。
「いーや!、この神様が言う事は本当なのだ!」
とムリヤリその中に没頭する事の方が危険だ。
そのうち、まわりもおかしな事になって来たと気がつく。
「ママ、それおかしいよ。。」
「パパ!なんてこと言うの。これは神様からのメッセージなのよ!」
こうして現実とかけ離れた世界の中に没頭していくことになる。そして日常生活はおくれなくなる。。。


じつはそういう存在は、いないんではないだろうか。
彼女の意識していない深いところにある思いが、「神様」を作り上げたのではないだろうか。息子さんはそんなママの思いに答えたかっただけだ。スピリチュアル系の人は、それを「悪いヤツが入った」と言う。そうではないと思う。ママの個人的な思い、鬱屈した思い、いろんなストレス、心の奥深くにたまっているネガティブなおもいが、「神様」という存在を作って、救いを作ったのだ。それは何よりも彼女自身が救われたかったからではないだろうか。このメッセージをみんなに伝えてみんなを救いたいとおもう。それはそうする事で、彼女自身が救われるからだ。
このやまんばだって、へなちょこな野菜をもってぱぱさんちにもっていくのがうれしい。それは何より喜ばれたいからだ。みんな人に喜ばれて幸せを感じるのだ。

その眼に見えない存在からの、地震の予言以外のメッセージは、感謝しなさいとか、やさしい心になりなさいだ。そんなものはそこらの霊能者さんはみんな言っている。霊能者さんだけでなく、お坊さんも、牧師さんも、先生も、幼稚園の園長先生も、おばあちゃんも、おかあさんもみ〜んな言ってくれる言葉だ。
それを宇宙人や、死んだ人や、神様からもらったといってありがたがる必要はない。だからママさんもその「神様」にすがりつく必要もないし、それを見る読者もありがたがる必要もないのだ。

その神様の言葉は、そのままママが願っている言葉なのだ。感謝したり、やさしくみんなを思う気持ち。それを自分自身に向かっていっている。それが今回こんな形で現れたに過ぎない。
そんなママを
「しかたねえなあ〜。ま、わたしでも同じ事になったら、そうなるわな」
と、彼女を非難する事なく、自分の事のように受け取って欲しい。


今は、極端に心が走る時代になって来ている。今の今まで味方だと思っていた人が、何かの拍子にいきなり敵に変容する。人々の心が不安定になって来ている。だからこそ自身の心を淡々と見る必要がある。
ある日、突然自分にメッセージがおりて来た!と言う現象が簡単に起るかもしれない。
しかしそれは外からのものではない事に気づいて欲しい。鵜呑みにしないで欲しい。これは自分のどこかにそれを望んでいたからこういう形で現れているのではないのか?と、自分自身を観察して欲しい。

ママと息子さんの出来事は、今の日本をよく表してる出来事だったとおもうなあ。。。



絵:「バンドネオンの豹」表紙イラスト

2011年8月12日金曜日

何でみんな東を向く?




なんで植物は東に向かって伸びるんだろう。

地場いキュウリも、カボチャも、サツマイモのツルも。インゲンのツルのさきっちょも支柱を超えてしまい絡まるところを見失うと、東向けに空中を泳ぐ。み〜んな東の方向にいきたがる。
畑の管理人やまんばとしちゃ、「そっちは隣の畝!そっちいっちゃだめなの!」と、方向転換させるんだけど、やっぱり東に行きたがる。

東側に何があるんだろ。太陽を拝むんだろうか。「あ〜ありがたや、ありがたや」と。そしたら、日が沈む西側にだって向かわないといけない。でも太陽が西に沈もうと無視。ひたすら東を拝んでいるようす。ニンゲンだってご来光をありがたがる。同じ太陽がぐるぐる回っているだけなのに、東側から出る太陽の方を尊ぶ。なんでや?

東から出るお日様には、何かこう、スペシャルなビームでも出てるんだろか。生命を活発にさせるようななにか。ときどき何も食わんと生きられるっちゅうお人がいたりするが、そんなお人たちも、朝日を拝み、朝日からエネルギーをもらうって言ってたなあ。水と大地とお日様から栄養をもらっている植物たちにとって、朝日から出るスペシャルビームは、特別な栄養をくれるんかいな。栄養って言うと、物質的だけど、英知みたいなものかもしれんなあ。


やまんばは膝を痛めてしまった。どうも、草刈りに没頭し過ぎて、無理したようだ。うんこすわりのまま、草刈り移動を続けていたのだ。膝に負担が来たんかもしれん。はたはた「おめえ、草刈り過ぎ!」と言うメッセージかもしれん。しばらく畑は草が生えるままにしておこう。秋が来たら、種まきの時に草刈ろう。

そんなふうに思えるのも、畑のおかげだと思う。人も自然もそのままで完璧なのだなあとつくづく思う。意味があって草がそこにはえ、意味があってみんな東を向く。意味があってやまんばは膝を痛める。そこで右往左往してなんとか治さなきゃとあせる必要もない。

自然の姿はそれだけで完璧だなあと思うんだけど、わしらニンゲンだって、この肉体は自然の姿なのだ。背の低い人も背の高い人もみ〜んなそれは個性であって完璧なのだ。何かの基準を設けてそれと比べ、「これは優れている」とか「これは劣っている」と言うのは、短絡的でアホな考えだ。だからそんなアホな考えを止めよう。ひとりひとり全くもって完璧な姿をしているのだ。その完璧なものは、その完璧さんに任せようじゃないの。大自然はその英知でもって、勝手にバランスをとって進んでいく。

今は何でも「怖がれ」という。「何かあったときのために」「自己責任ですよ。なんかあっても知りませんよ」これは暴力のような言葉ではないか。恐怖でもって人の判断を惑わしてくる。
それは薬屋さんやお医者さんや保険屋さんがウホウホ儲かるためのインボーかもしれん。
緊急を要するものは、きっと本能が動く。とっさに動き始めるものだ。

わしらはもっと優雅に豊かに生きていけるんじゃないかなあ。山見て、虫見て、草の匂いをかいで、風の音を聞いて。

やまんばの膝は、今は動くなよ、と教えられているのかもしれぬ。それは、草刈り過ぎと言う事かもしれんし、身体使い過ぎと言う事かもしれんし、もっと他の深い意味があるんかもしれん。ただそれをそのように素直に受け止めるだけでいいんではないかと思うようになって来た。そこで「なんとかしなきゃ」と思うのは、きっとそれに対する怖れと、抵抗なのではないか。

すべての事は思考を離れると、ひたひたと、粛々と、淡々と進んでいくのだ。


絵:「怪談皿屋敷」

2011年8月10日水曜日

怪談は無形文化だなあ〜





いや〜楽しかった~。
舞台美術家の江頭良年さんが手がけた稲川淳二さんの『怪談ナイト』を見てきた。

江頭さんが稲川さんの舞台を手がけ始めて7年ぐらいになるという。
舞台は毎年設定を変える。彼が演出した舞台をバックに、稲川さんが怪談話をするというもの。今回はどんな演出?それは見てのお楽しみ。いやはや、ほんとに本物そっくりに作り込んである。あれは○○だと思っていたら、「あれは布だよ」という。近くで見たって色といい、さびといい、○○にしか見えない。なにげないところに紙が挟んであったり、昔の牛乳瓶の木箱がかけてあったり、そしてコンクリートの間からのぞく雑草まで!その繊細な仕掛けが、舞台の雰囲気を見事に演出している。本当に手を抜いてないほんまもんのお仕事を見せていただきました。

稲川さんは、謙虚なお人柄。お肌つやつやしてテレビで見るより、はるかに若い人だった。彼は言う。「江頭さんの作ってくれた舞台で、私は何も演出する事がない。もうその中に入るだけでいいんです。」
それは彼の舞台の空間作りが、非常に心地よい、理にかなったものだと言う事だ。稲川さんはその中に立つだけで、その空気感の中に入るだけで、すでに怪談話がはじまっているのだ。

稲川さんは、舞台のお話の中で、怪談には日本人の感性があるとおっしゃっていた。暗がりの中でふと聞く足音、雨水のたれる音、風がイタズラをする音、ふっとにおうお線香のにおい、遠くにぼんやり光る明かり。。。その一つ一つに日本人は感覚を研ぎすませ、そこに物語を見る。これはまさに日本人ならではの、りっぱな文化だ。

私は怪談話と聞けば「こわ~い!」としか思わなかったが、彼の一言でハッとさせられた。これは日本のエンターテインメントなのだ。心霊写真もたのしんでくれ!という。なるほど。そういう「楽しみ方」もあるのだ。日本人は昔から、繰り返しの多い普段の生活の中に、ハッとしたり、ぞくっとしたり、悲しんだり、笑ったりしてハレの瞬間を作り、そこに新鮮な空気を入れ、生きてぬいて来たのだ。と同時に、雨音一つに世界が広がる感性を養って来たのだ。心霊写真を楽しまんでなんとする!(やっぱりこわいけど)

普段の生活とは違う演出された異空間と、無形文化とも言える日本の怪談話。この二つの日本の文化を満喫できたぜいたくな時間だった。

ちなみにその夜は寝られたかって?
寝たよ~。だって日本の文化を味わったんだもん。

2011年8月6日土曜日

無駄なテイコーは止めろ



恐怖とは、観念のようなのだ。
んな事言ったって、怖いもんは怖いのだ。これのどこが観念なのだ?

しかしよーく考えてみたら、恐怖している時、そこにその恐怖のものはない。例えば、お金なくなったらどーしよーとおもうだろ?こわいわな。でもなくなったら、と考えるだけで、とりあえずはそこにある。10円でも20円でも。これがゼロになったらどーしよーとおもう。という事は、今ゼロじゃないんだ。
ここで誰か家の中に侵入して来て、ピストル突きつけられたらどーしよーと恐怖する。でも考えているそのとき、目の前にピストル突きつけている人はいない。ほら、それって今ここにない事を、あったらどーしよーと妄想して怖がっているわけだ。病気だってそうだ。ガンになったらどーしよーとかんがえる。しかしその時ガンではない。だからそんなふうになったらどーしよーと考えて、恐ろしがっているのだ。

じゃあ、ホントにお金がゼロ円になったらどーする?目の前にピストル突きつける人がいたらどーする?ガン宣告されたらどーする?

そんときゃね、そこには恐怖なんてないんだよ。あるのは、ただそれがあるだけ。財布の中がゼロ円になったとき、その時その人はその瞬間、なぜか淡々としているもんなのだ。(なった事あるみたいな口ぶりだな)

だが思考が動き出した瞬間、恐怖が立ち上がる。
「え~~~~っ、家賃払えないじゃん!どーするのー!」
ピストル突きつけられた瞬間、(私の友だちがそうだったんだが)そこに恐怖はない。だが次の瞬間「撃たれたらどーしよー!」と思考が動く。
ガン宣告された瞬間、そこに恐怖はない。しかし次の瞬間思考が動く。
「え~~~っ!死ぬの!?治療費は?お金は?ああ、どうしよう!」

私たちは、おそれていた恐怖そのものがやって来たその時、実に淡々としたものなのだ。だが次の瞬間、思考が過去を振り返って、こうなったらどーしよー!と言い始めるのだ。ほら、思考が恐怖を生み出していないか?
その次の瞬間、またもや今ここにないものを恐怖している。つまりあった瞬間は何も恐怖はないのだ。思考が恐怖を生み出しているのだ。


私の友だちの、そのピストルを突きつけられた彼女は、そこで抵抗しなかった。もし撃たれたらどーしよーという恐怖があったなら、逃げようとしたはずだ。しかし彼女はそこにとどまった。無抵抗になった。つまりその状況を受け入れたのだ。するとどうなったか。なぜかその犯人は彼女を撃たず、逃げていったそうだ。
ああ。彼女の心にわたしゃ感謝したい。そうでなかったら、友だちをなくしていたかもしれない。

やまんばがニューヨークで出会った怪しい兄ちゃんのときもそうだった。いきなり誰もいない公園ででくわした。「どこいくの?」そう声をかけて来た兄ちゃんは、いかにもすぐキレそうな顔をしていた。あきらかに何かをもっている。ここで拒絶をしたら、ナイフが出てきそうなくらいの緊張感を持っていた。そこでやまんばは親しげに話をした。「あなたはどこからきたの?」イスラエルからNYの親戚のうちに遊びに来たそうだ。ホントかどうかは知らない。よく聞くと日本にいった事があるそうだ。それで日本の良さやアメリカの文化の話やいろんな話を歩きながらした。一本道の公園。まわりはうっそうとした森。どこにも逃げられない。しばらく歩くと、道路に出た。それで「私はこっちにいくからね。お話しできて楽しかった。じゃ、よい旅を。」といってにっこり別れた。

抵抗は恐怖を作る。抵抗はすなわち、思考の始まりだ。瞬時に過去あった出来事を思い返して、又はテレビで聞きかじった最悪の内容を思い出し、そうあって欲しくないと抵抗するのだ。先日書いた地震の話もそうだ。揺れると過去にあったいろんな出来事を瞬時に思い起こす。恐怖が走る。思考とは、過去の記憶の産物なのだ。知っているものしか知らない。だから思考は新しい事を生み出せないのだ。インスピレーションは突然やってくる。そのとき思考は働いていない。だからわしらみたいな平凡なヤツが考える事と言ったら、過去の出来事の御託を「あ~でもない。こ~でもない」と並べるだけなのだ。

「無駄な抵抗は止めろ!」
というきまり文句があるだろ?あれ、ホントの事なんじゃないか?
抵抗はそもそも無駄なのだ。

恐怖の対象が起った時 → 淡々と受け止めている → 次の瞬間、過去の記憶が出てくる(思考)→ たいていチョー怖い記憶を思い出す → そうなりたくない!と思考する → そこから逃げようとする(抵抗)→ 恐怖が増大する。→ 恐怖からなんとか逃げようとする → 過去の記憶から方法論を見つけ出してくる → だがケースバイケースでその状況にぴったりなもんなどない → あせる → もっと他に方法はないかと探す → 人のパターンに自分があうわけない → あせる → 無理矢理あわせる → しっくりこないが、とりあえず解決しているはず。。。と頭で考える → だけどどこかで不安。。。→ ずっとその恐怖をもち続ける → そのうちテレビを見て、恐怖している事も忘れてしまう(心の押し入れの中にしまい込む。なかったことにする)→ 同じ恐怖の対象が起る → 淡々と受け止める → 次の瞬間過去の記憶が出てくる → エンドレス。。。

これが私たちが通常おこなっているパターン。しかしこれをこう変えるとどうなるか。

恐怖の対象が起った時 → 淡々と受け止めている → 次の瞬間、過去の記憶から恐怖がやってくる → だがこれは観念だと気がつく → 無駄な抵抗しない → その問題から逃げない → 心が静かになる → 自分のこととして真摯に受け止める → いいとか悪いとか、非難とか正当化とかしないでハラくくる → 思考を停止する → 解決方法が自ずとやってくる。

どうもこういうシステムになっているよーな気がして来た。その人にやってくる問題はきっとその人に必要な問題なのだ。
厄介な事がやって来た!えらい災難だ!ということは簡単。まるで「ぜんぜん聞いてな~い!」と、いきなり不幸が訪れたようなフリしとけばいいんだから。人に言えば同情してくれるし。
それでいーんだろうか。セーフのせいにしたり、ダンナのせいにしたり、システムのせいにしたりすると、怒っているだけでいい。恐怖におののいているだけでいい。だけどきっと棚上げした問題はやがてどっちみち自分ところに帰ってくる。

ただそれだけのことなんじゃないか?
逃げてはいけないとか、ごまかしたりしてはいけないと非難してるんじゃないんだ。単にこの世はそんなふうになっているんじゃなかろうかとやまんばは思っているのだ。その仕組みを理解しさえすれば、人はなんて事なくこの世の『不幸』と思っている事をさら〜っと乗り終えられていくんじゃないかと。

海の中でうんこすると、自分の隣にプカ~ってういてくる。「やだやだ」とそこから逃げようとすると、なぜかうんこは一緒についてくる。もっと逃げるともっとついてくる。(何で知ってんのや?)しかしそこでじーっとその場にたたずんでいると、潮の流れがゆっくりとうんこを流して沖の方に去っていくのだ。
自分の出したうんこに抵抗すると、うんこがずっとつきまとうという深い教えだな。

その恐怖、自分であおってないかい?


絵:似顔絵/西森マリー

2011年8月1日月曜日

地震で足をふんばるやまんば




やまんばは地震が来ると、足をふんばる。なんでか。何となく地面が揺れるんが収まるような気がするからである(お前の力はそんなに強いんか)。だから地震が来るたびりきむんで疲れる。

こないだ近所の幼稚園の子供たちの話を聞いた。あの大地震があった時、幼稚園児たちは、一緒になって自分たちも揺れて大騒ぎしたのだと言う。たぶん、彼らにとって地震が恐いという記憶も体験もないからだろう。だから「あ〜っ、地面が揺れてる!おもしろ〜い!」となったんだろうな。

子供は、地震についてのイメージがない。だからそれそのものを受け取る。地面が揺れるっておもしろいことじゃないか。ところがここで大人が「危ないじゃないの!」というと、地震=危ない事、という記憶がインプットされる。
そうやって地震はこわいものだと私はインプットして来た。だから足をふんばって揺れないようにする。はたまた机の下に隠れる。

さて先日も揺れた。ウチのダンナが「わ〜揺れてる〜、オレも揺れよう」といって身体を揺らしだした。すると私もなんだか揺れたくなって、揺れた。大の大人二人が地震に会わせて身体を揺らしたのだ。するとどうなったか。
おもしろかったのだ。

今朝までその事を忘れていた。
友だちからのメール「宇宙に安定などないのだ」という言葉に触発された。そうだ。ニンゲンなんて大しけの中にいる大型客船に乗っているお客みたいなもんだとおもった。右往左往するだけで何にも打つ手はない。だけど心がなんとかしないといられないので、船の中でうろうろする。きっと足をふんばってみたり、テーブルの下に隠れたり。その姿ははたから見たら、こっけいにうつるんだろうな。

恐怖は人を翻弄する。しかしその恐怖も自分が作り上げるとしたら。自分で自分に恐怖の種をまいているとしたら。

自分で揺れた時、そこには何も恐怖はなかった。あるのはただ、楽しかったのである。それはダンナと一緒に揺れたからか?多分、子供たちもあの時楽しかったに違いない。みんなで一緒に揺れたのだ。

足をふんばるのと、一緒に揺れること。この二つに何の違いがあるのか。
前者は揺れへの抵抗である。そして後者は揺れを受け入れているのだ。

人は恐怖を感じると、とっさに逃げようとする。肉体的にも、心理的にも。けれども園児たちにその恐怖はなかった。だから抵抗もなかった。ただその揺れを受け入れた。それはただ楽しかった。
しかし私たち大人はすでに揺れる事に対する恐怖がある。だから揺れると即その場から逃げようとする。抵抗である。するとその恐怖はより増幅される。ところがそれを受け入れると、そこに恐怖は存在しないのだ。

それはあらゆる事に通じる事ではないのか。あるがままを受け入れる事は、エネルギーになっていくのではないだろうか。あるがままに抵抗するとそれがマイナスに転じ、あるがままだったら、ゆかいな事になるのかもしれないではないか。

だからといって、大揺れの最中にへらへら笑って揺れて踊って、上から天井が落っこちて来たらあほであるが。

やまんばが家の下敷きになって発見されたら、
「あ、こいつ踊ってたな」と思っておくれ。


絵:似顔絵「松尾貴史」