2011年8月6日土曜日

無駄なテイコーは止めろ



恐怖とは、観念のようなのだ。
んな事言ったって、怖いもんは怖いのだ。これのどこが観念なのだ?

しかしよーく考えてみたら、恐怖している時、そこにその恐怖のものはない。例えば、お金なくなったらどーしよーとおもうだろ?こわいわな。でもなくなったら、と考えるだけで、とりあえずはそこにある。10円でも20円でも。これがゼロになったらどーしよーとおもう。という事は、今ゼロじゃないんだ。
ここで誰か家の中に侵入して来て、ピストル突きつけられたらどーしよーと恐怖する。でも考えているそのとき、目の前にピストル突きつけている人はいない。ほら、それって今ここにない事を、あったらどーしよーと妄想して怖がっているわけだ。病気だってそうだ。ガンになったらどーしよーとかんがえる。しかしその時ガンではない。だからそんなふうになったらどーしよーと考えて、恐ろしがっているのだ。

じゃあ、ホントにお金がゼロ円になったらどーする?目の前にピストル突きつける人がいたらどーする?ガン宣告されたらどーする?

そんときゃね、そこには恐怖なんてないんだよ。あるのは、ただそれがあるだけ。財布の中がゼロ円になったとき、その時その人はその瞬間、なぜか淡々としているもんなのだ。(なった事あるみたいな口ぶりだな)

だが思考が動き出した瞬間、恐怖が立ち上がる。
「え~~~~っ、家賃払えないじゃん!どーするのー!」
ピストル突きつけられた瞬間、(私の友だちがそうだったんだが)そこに恐怖はない。だが次の瞬間「撃たれたらどーしよー!」と思考が動く。
ガン宣告された瞬間、そこに恐怖はない。しかし次の瞬間思考が動く。
「え~~~っ!死ぬの!?治療費は?お金は?ああ、どうしよう!」

私たちは、おそれていた恐怖そのものがやって来たその時、実に淡々としたものなのだ。だが次の瞬間、思考が過去を振り返って、こうなったらどーしよー!と言い始めるのだ。ほら、思考が恐怖を生み出していないか?
その次の瞬間、またもや今ここにないものを恐怖している。つまりあった瞬間は何も恐怖はないのだ。思考が恐怖を生み出しているのだ。


私の友だちの、そのピストルを突きつけられた彼女は、そこで抵抗しなかった。もし撃たれたらどーしよーという恐怖があったなら、逃げようとしたはずだ。しかし彼女はそこにとどまった。無抵抗になった。つまりその状況を受け入れたのだ。するとどうなったか。なぜかその犯人は彼女を撃たず、逃げていったそうだ。
ああ。彼女の心にわたしゃ感謝したい。そうでなかったら、友だちをなくしていたかもしれない。

やまんばがニューヨークで出会った怪しい兄ちゃんのときもそうだった。いきなり誰もいない公園ででくわした。「どこいくの?」そう声をかけて来た兄ちゃんは、いかにもすぐキレそうな顔をしていた。あきらかに何かをもっている。ここで拒絶をしたら、ナイフが出てきそうなくらいの緊張感を持っていた。そこでやまんばは親しげに話をした。「あなたはどこからきたの?」イスラエルからNYの親戚のうちに遊びに来たそうだ。ホントかどうかは知らない。よく聞くと日本にいった事があるそうだ。それで日本の良さやアメリカの文化の話やいろんな話を歩きながらした。一本道の公園。まわりはうっそうとした森。どこにも逃げられない。しばらく歩くと、道路に出た。それで「私はこっちにいくからね。お話しできて楽しかった。じゃ、よい旅を。」といってにっこり別れた。

抵抗は恐怖を作る。抵抗はすなわち、思考の始まりだ。瞬時に過去あった出来事を思い返して、又はテレビで聞きかじった最悪の内容を思い出し、そうあって欲しくないと抵抗するのだ。先日書いた地震の話もそうだ。揺れると過去にあったいろんな出来事を瞬時に思い起こす。恐怖が走る。思考とは、過去の記憶の産物なのだ。知っているものしか知らない。だから思考は新しい事を生み出せないのだ。インスピレーションは突然やってくる。そのとき思考は働いていない。だからわしらみたいな平凡なヤツが考える事と言ったら、過去の出来事の御託を「あ~でもない。こ~でもない」と並べるだけなのだ。

「無駄な抵抗は止めろ!」
というきまり文句があるだろ?あれ、ホントの事なんじゃないか?
抵抗はそもそも無駄なのだ。

恐怖の対象が起った時 → 淡々と受け止めている → 次の瞬間、過去の記憶が出てくる(思考)→ たいていチョー怖い記憶を思い出す → そうなりたくない!と思考する → そこから逃げようとする(抵抗)→ 恐怖が増大する。→ 恐怖からなんとか逃げようとする → 過去の記憶から方法論を見つけ出してくる → だがケースバイケースでその状況にぴったりなもんなどない → あせる → もっと他に方法はないかと探す → 人のパターンに自分があうわけない → あせる → 無理矢理あわせる → しっくりこないが、とりあえず解決しているはず。。。と頭で考える → だけどどこかで不安。。。→ ずっとその恐怖をもち続ける → そのうちテレビを見て、恐怖している事も忘れてしまう(心の押し入れの中にしまい込む。なかったことにする)→ 同じ恐怖の対象が起る → 淡々と受け止める → 次の瞬間過去の記憶が出てくる → エンドレス。。。

これが私たちが通常おこなっているパターン。しかしこれをこう変えるとどうなるか。

恐怖の対象が起った時 → 淡々と受け止めている → 次の瞬間、過去の記憶から恐怖がやってくる → だがこれは観念だと気がつく → 無駄な抵抗しない → その問題から逃げない → 心が静かになる → 自分のこととして真摯に受け止める → いいとか悪いとか、非難とか正当化とかしないでハラくくる → 思考を停止する → 解決方法が自ずとやってくる。

どうもこういうシステムになっているよーな気がして来た。その人にやってくる問題はきっとその人に必要な問題なのだ。
厄介な事がやって来た!えらい災難だ!ということは簡単。まるで「ぜんぜん聞いてな~い!」と、いきなり不幸が訪れたようなフリしとけばいいんだから。人に言えば同情してくれるし。
それでいーんだろうか。セーフのせいにしたり、ダンナのせいにしたり、システムのせいにしたりすると、怒っているだけでいい。恐怖におののいているだけでいい。だけどきっと棚上げした問題はやがてどっちみち自分ところに帰ってくる。

ただそれだけのことなんじゃないか?
逃げてはいけないとか、ごまかしたりしてはいけないと非難してるんじゃないんだ。単にこの世はそんなふうになっているんじゃなかろうかとやまんばは思っているのだ。その仕組みを理解しさえすれば、人はなんて事なくこの世の『不幸』と思っている事をさら〜っと乗り終えられていくんじゃないかと。

海の中でうんこすると、自分の隣にプカ~ってういてくる。「やだやだ」とそこから逃げようとすると、なぜかうんこは一緒についてくる。もっと逃げるともっとついてくる。(何で知ってんのや?)しかしそこでじーっとその場にたたずんでいると、潮の流れがゆっくりとうんこを流して沖の方に去っていくのだ。
自分の出したうんこに抵抗すると、うんこがずっとつきまとうという深い教えだな。

その恐怖、自分であおってないかい?


絵:似顔絵/西森マリー

2 件のコメント:

まいうぅーぱぱ さんのコメント...

海の中のうんこの話、そうですよね!!

(何で知ってんのか?)

つくし さんのコメント...

なんで知ってんのやー。