2015年1月30日金曜日

石けんは足りない心がつくる



今朝、雨戸を開けたら一面銀世界だった。外気温は2度。きのうは-4度だったから、やはり雪が降ると暖かいのだろうか。雪は外の雑音も、心の雑音も消してくれる。雪国の人々は心は静かなのだろうか。

こんな季節だからこそ、石けんなし生活を始めたいと思う人には、いいチャンス。
乾燥するこの季節に、やまんばは顔にクリームも化粧水も、手にクリームもからだにクリームもいらない。何もしていないのに、いつも肌はすべすべ。
喉もカラカラにならない。むかしのど飴を必要としてたなんて。
そういえば着替えのとき、静電気もおこらないなあ。

石けん類をからだに施すのをやめてから、日々の生活がなんてシンプルになっただろう。

あぶらがいけないからといって、それを(石けん類で)取りのぞいているうちに取りのぞきすぎちゃって、またあぶらをあとから補うアホなことを繰り返している私たち。でもそれだけじゃ終わらなくて、アンバランスな補いが、別の弊害を生み出し、もっとアンバランスになるシャレにならない現象。


この変な繰り返しの根本にあるのは、「私たちはいつも何かが足りない」という概念だ。
やまんばは石けんなし生活のなかで、人のからだはそのままで完璧なのだと知った。

「わたしはこのままではいけない。何かを足さないといけないんだ。」
という思いが私たちの心を大きく支配している。
その意識が、石けんと言うものを作り出し、シャンプーというものを作り出し、歯磨き粉というものを作り出した。その結果が、アトピーや、花粉症や、心の問題にまで発展している。



「ああ、不足感がいけないのね。じゃあ、満たされてるって思えばいいんでしょ」
というかもしれない。
これはポジティブ思考と呼ばれているものだが、これでは効かない。あっちからこっちという対極に横滑りさせただけだから。
ほんとは「足りない」とおもっているくせに、「満ち足りている」と言葉にして自分をごまかしている。

自分をいくらごまかしてもごまかしきれるものではない。他人をごまかしているのとはわけがちがう。筋金入りの検察官だ。だからうわべでポジティブシンキングしても、アファメーションしても、言い聞かせても、いいわけしても、逃げても、ぜったいにあばかれる。

石けんなし生活は、まずわたしに、このからだはそのままで完璧であるということを教えてくれた。そしてそれはすべてに当てはまるのだとヒントをくれる。

もともと心が問題を引き起こした。心がそのままではいけない、これが足りないと、石けんを作り、システムをつくり、自分や他人を裁いてきた。
でもやまんばはおもう。ほんとうは心もからだもそのままで完璧なんじゃないだろうか。今のところ、からだの完璧さを皮膚を通して知った。そしてじつはそれは心からくることも。まず心が「ひょっとしたら、からだはそのままで完璧なんじゃないか?」と仮説を立てたのだ。そのおもしろさから、実験がはじまった。
足りないものなどないんじゃないか?と広がっていったのだ。

今、やまんばは自分の心に直面している。もう太陽を54周したのだ。そろそろ見ないようにしてきた自分自身と対面してもいい年だ。

自分がなにに不足を感じているのか、そしてそれはほんとうに不足していることなのか?

日々の生活の中で、くそっぱらたつことがおこると、じっと自分に向かい合うんだ。やまんばをおこらせた相手ではなく、自分がどう反応しているか。どう感じているか。ただその感覚だけを味わう。すると消えていく感情や、隠れていた観念を見つける。
石けんも道具もなんにもいらない。ただシンプルに自分だけに向かう。
それを繰り返すうちに、今まで知らなかった自分を発見する。たぶんこれからもっと発見するだろう。

心も完璧だと仮説を立てる。答えは自分の中にあると仮説を立てる。
どんどん解放されていく自分を見つける。

お楽しみはこれからだ。



2015年1月27日火曜日

心は野放し



きのう、夕方ダイエーに買い物に行こうと思った。
すると心が「夕方は駐車場が混むから危ない。あんたはパーキング下手なんだから、やめときなさい」という。

やまんばは運転が下手だ。昔はあのニューヨークでぶっ飛ばしてたが、ここ日本に帰ってきてから、あまりの道の狭さと駐車場の狭さに圧倒されて、だんだん運転が遠のいていった。だから急いでダイエーに行くこともないので、その言葉に従ってあしたの駐車場の混んでない時間帯にいけばいいやとおもった。

が。なんか釈然としない。
あれ?これ、エゴの言葉?

エゴはわたしにいつも不安をくれる。
これをするとこんな怖いことがあるって。やまんばはいつもその言葉を聞き入れる。
「うん。たしかにそーだ。ではそうしよう」
そしてまた、次の日にこういうのだ。
「今日はこんな怖いことがあるからやめなさい」と。

エゴはずる賢い。言葉たくみにわたしを翻弄する。しかしそのエゴの言葉に従うと、いつも誰かを責めたり、世界はみにくい世界だと思ったり、怖い世界だと思わせ、閉じこもってしまい、狭い縮こまった世界にとどまり続けることになる。その結果イライラして、ある日突然キレる。

やまんばはきのうエゴの声に従わなかった。
夕方出かけたダイエーの駐車場は混んでいなかった。



私たちはからだは鍛える。いい食事をとることを心がけ、ランニングしたり、ジムに通ったり、ダイエットしたりしてからだをととのえる。
しかし心は野放しだ。

人は外から来る言葉は疑うことをするが、自分の心の中に浮かぶ言葉は、あんがいすんなりと聞き入れる。じつは心の中は、よーく聞いていると、矛盾だらけで混乱している。しかしそのことに気がつかない。だからそのまま振り回されてこんがらがっているのだ。

今の時代、心がこんがらがって、ふりまわされて、心の中が大暴れしている人で満ちあふれている。それ、エゴさんの言うことを素直に聞くマジメな人たちだからだ。

これからは心を鍛える時代だ。
元々からだの問題も心から来ている。心がこんがらがっているから、からだも自然の流れが妨げられてバランスが狂うだけなのだ。

エゴは怖がらせることによって、自分の存在をアピールする。その言葉に付き従うと、ますますエゴは喜ぶ。
「ええ、ええ、わたしがいなけりゃ、あんたはとんでもない人生になるのよ。だからわたしのいうことはちゃんと聞きなさい。わかったあ?」と。

エゴは、ありきたりのことしか言わない。その言葉に創造性やオリジナルはない。一般常識とどこかで聞いたことのあるつまらないアイディアしかない。言葉巧みだが、よーくきいていると、わたしを怖がらせることしかしていない。これらの声は、わたしを明るい方向に導かない。

やまんばはその声をじっと聞いて、従わない。


2015年1月26日月曜日

エゴは幸せを望んでいない



こないだね、電話ですっごくほめられたの。もう顔から火が出るほど。
天にも昇るよーな気持ちにさせてくれたそのお言葉。

そしたら不思議なことがおこった。
その言葉を聞きながら、心がこう叫んでいた。
「やめて。もうやめて!お願いだから!もう、それ以上言わないでええええ~~っ!」ってね。
すると、もうひとりがこう言ったの。
「はやくその電話を切って。そしたら、その言葉を他の人に自慢できるから!」

。。。なんじゃこりゃ。

やまんばはずーっとその自分の心理を考えてた。なんで?

「もうやめて」という言葉が出る理由は、
「わたしはそんなふうにあなたが思うようなすばらしいニンゲンじゃない。それは誤解だ。それ以上ほめられたら、きっとわたしの能無しがバレてしまう。だからもうそれ以上聞きたくない!」と。

自分が、自分がよろこぼうとすることを止めている。その言葉を受けて、弾けようとすることを止めているのだ。その理由は、弾けたって結果的に能無しがバレてしまうのだから、後で自分が辛いおもいをする。そんな結果になるのなら、最初っからよろこぶんじゃないよ、と自分に戒めているのだ。
そしてそういいながら、「後で人に自慢できる」と、快楽を求めている。

つまりエゴは、「小さなよろこび」だけを求めている。


わしらは自分が「考えている」ものに乗っかっている。
最近、やまんばは自分の中に浮かぶ言葉を疑いはじめた。そこに怖れがあるのか、ないのか。そこに分裂はあるのか、ないのか。

エゴは、幸せを望んでいない。そう思ったとき、まさか!とおもった。
しかし今までの自分の行動や考え方を観察してみると、よろこびよりも、苦悩をえらんでいる。
ちょっと楽しんだりよろこんだりすると、
「おいおい、いつまでもそんなに舞い上がってんじゃねえぞ。調子に乗るなよ」
とチャチャいれてくる。すると私は、
「あ、はい、わかりました。そーします」と、よろこびを抑えてしまうのだ。
そしてまたいつものよーに、「あれがいけない。これもまだ足りない。私のここがダメ」といけない部分ばかりをみつけだしては、「まだまだだ。。」と苦悩にひたるわけだ。

これでエゴは存続できる。エゴさんは、エゴさんの居場所を確保できる。否定の中に没頭してくれればくれるほど、恐怖の中に没頭してくれればくれるほど、いつまでも居続けることができるのだ。

これ、お化けといっしょだ。
こわいぞ~、といわれて、ひえ~コワイコワイ。って耳をふさぎ、目を閉じて、その怖さの中でいる以上、その怖さは消えない。でも勇気をフリシボって、目を開けてまわりを見たら、「あれ?なんかあった?」ってぐらいあっという間に消えるものだ。


エゴの動き以外の別の存在がある。それはインスピレーションや内側からわきおこる何かだ。
やまんばはそっちにフォーカスしたい。だからよろこびをあえて選択する。

ほめられて天にも昇る気持ち。この気持ちをそのまま自分で受け取る。ありがとう。いただきます。胸の奥がじーんとあつくなる。そのじーんを受け取る。そこに抵抗するエゴさんの言葉に耳を貸さない。じーんと来る感覚は、まわりに影響しはじめる。それを見て、また私も影響を受け、相乗効果を生み出す。

エゴの言葉をえらんで、苦悩と心配を選択し、苦しみの相乗効果を味わうも善し。
よろこびをえらんで、しあわせの相乗効果を味わうも善し。




2015年1月25日日曜日

イノシシちゃんの偉大さ



きのう山沿いの線路際を歩いてたら、いたるところが掘り返してあった。

「はは~ん、イノちゃんめ、ハデに耕してくれているなあ」
梅の木のまわりをきれ~いに耕してある。土の中に空気を入れているかのよう。イノシシは山のファーマーか?ガーディナーか?
やまんばはそこで、はっとする。

た、確かあそこあたりに先日悪ガキオヤジたちがイノシシを埋めてあったはず。。。。
そーっと視線をずらし、土まんじゅうのあった場所を見ると、平らになっているではないか!げ!まんじゅうがない!

やまんばはおそるおそる近づいた。平どころではない。あきらかに掘り返してある。近づくにつれて、茶色い木の棒のよーなものが土の下から突き出しているのがみえる。もっと近づくと、木の棒の先っちょが、二股に分かれている。
木の棒、二つに割れた先っちょ。。。?

目線を下のほーに移していくと、毛もくじゃらが!!!!
やまんばはみた。土にまみれたイノちゃんのあんよ。
げげげーーーーーっ、といいながら、さらに近づく。
毛に覆われたおなかが見える。しかし、ない。食ってる!食ってる食ってる!共食いじゃねえかあああああーーーーーっ!

「でもさあ、よく考えたら、土の中でウジ虫が発生しているわけで、きっと彼らはそれ食ったのよ、イノシシ。」
と、さっき目撃した話を高尾のカフェで友だちに話す。
「つくしさん、イノシシを美化しちゃあいけません。虫を食べただけだなんて。共食いですよ。と、も、ぐ、いっ!」
現実的な友だちは言い放つ。

帰り道、また同じ場所を通る。今度は逆方向からながめる。じっくりと。
あばら骨が見えている。その中はからっぽ。そして、前足なのかあたまなのか、原型もわからないよーに食われていたのは、あきらかにであった。

共食いイノシシちゃん。
死んでむくろになってもその身を仲間に明け渡し、明日の糧となるあなたは偉大だ。

2015年1月23日金曜日

私の「神仏」展



今、大阪でグループ展に参加しています。
『神仏展2015』1月21日~28日です。



私にとっての神仏はやはり自然。自然の中から現れてくる様々な存在たちです。
今回展示させてもらったのは天狗。高尾に住んで出会った天狗たちです。(簡単に言うな!ってか?)



『天狗 in 高尾山』

『天狗 in 高尾山』は、私が高尾に来てまもない頃、森の中で出会いました。視線を感じて上を見ると、そこに彼がいました。肉眼で見たわけではありません。心の目が彼をとらえていました。

高知の大杉でも会いました。小さな天狗でした。その場所それぞれにそれぞれの存在たちがいます。それを私が「天狗」と解釈したのかも知れません。山や森の奥深く、そんな存在たちはいます。

西洋ではそれをディーバとよんだり、妖精と呼んだりします。日本では最近は、「ちっこいジャージ着たおっちゃん」だったりするみたいです(笑)。



『たこ杉 in 高尾山』

『たこ杉 in 高尾山』は、高尾山にいるたこ杉へおもいを馳せているうちに、心に現れてきた存在です。山の全ての生命を大事に守っている存在。彼の目の中に慈悲の心を描きたいと苦心しました。

会場にはポストカードも用意しましたので、気に入れば買ってやってください。

今はちょうど「いざなぎのみこと」と「いざなみのみこと」の絵を制作中です。
今年はそんな世界を描いてみたい年になりそうです。

2015年1月20日火曜日

「ダメよ〜ン。ダメダメ」は思考の怖れ



インスピレーションと、単なる思考と、いったいどーちがうんだろ?

どっちもおなじよーに頭の中に浮かぶ。インスピレーションは赤色で、思考は青色とか、色別してくれてたらわかるのに、色なんかついていやしない。そもそも音で入ってくるから、色のつきよーがないではないか。
とかなんとか。

やまんばはけさ気がついた。
インスピレーションは、今まで考えもつかなかった考えで、単なる思考は、いつものパターンの考え。これだ!
なんだなんだ。あたりまえだったではないか。

インスピレーションなんてゆーと、じゃじゃじゃじゃ~ん!と、モーゼが十戒を渡されるみたいに、劇的な啓示みたいにおもっちゃうが、そんなんでもなく、さらっとくる。さらっとね。へ?ってなかんじで。
おもわず、「なにげなさすぎるだろ!」とつっこみたくなるくらい。

ところが思考はちがう。
うっとおしいくらい訴えてくる。
「あーたねえ、ジョーシキってえものを知らないの。ジョーシキってものを!だいたいねえ、あんたはねえ、$#”%$!0(&%$#”。。。」
と、説教が始まる。
最後にゃおどされて、あー、わかりました、今のヤメますヤメます、とりけします。となる。


きのう見たドラマの中で、主人公が死んだ母さんから口うるさい説教を食らっているのをみた。心の中の自分の声が、母さんという存在を作りあげてその存在にしゃべらせているのだ。おもしろい表現だとおもった。最近そういうものが多い。主人公の心の中を開けっぴろげに表現している。

私たちの心の中はそういううるさい存在がいる。
それが思考。思考さんは、同じことしかいわない。過去の経験を元に、常識をはずさないように、人に迷惑をかけないように、とたたみかけてくる。
ちょっと、へんなことおもいつくとすかさず、
「ダメよ~ン、ダメダメ」と、待ったがかかる。

「いいじゃあ、ないのお~」は、インスピレーションの領域で、
「ダメよ~ン、ダメダメ」は、思考の領域なのかもしれぬ。

思考は決して新しいことを言わない。あくまでも過去の経験を元にして考える。前例主義だ。だが創造は破壊だ。前例を破壊するのが創造だ。インスピレーションが来て、ぞくっとするのは、それが前例にないからだ。未知の領域。未知は怖い。その浮かんだ考えに、「ダメよ〜ン、ダメダメ」と思考が怖れる。

だから小姑みたいに訴えてくる思考さんには破壊力はないし、今まで聞いた事もないアイディアは決してくれないことをおぼえておこう。



やまんばが今まででぞくっとしたインスピレーションのひとつが、
「ニューヨークに行け」だった。
聞いた瞬間おそろしくて、一週間目がうつろだった。でもあの言葉に従ったから、今のやまんばがいる。

インスピレーションはありんこのつぶやきだけど、強烈な原動力になる。そこにその人の本当の道が開かれている。だれかのマネじゃない、あなた独自の道。それはいつでもあなたの耳にそっと囁きかけている。



2015年1月19日月曜日

20センチ四方のドラマ



やまんばは美形が好きである。
美形でも色々あって、完璧な美形から醜にほとんど傾いている、そのビミョ~なところがいい男っているよね。

最近もてはやされているセクシー俳優Sもそのうちのひとり。彼はほとんどすれすれの危うい位置に立っている。爽やか系でなくて、どろっとしたデカダンス的な、美輪明宏さん系の顔立ちだ。「顔が性器」っていわれるのもうなずける。

けさふと思ったんだけどさ、人は他人をほとんど顔で判断している気がする。
いい男って、顔で決めてない?

肩の形がいいからいい男、ってゆーひといなくね?
足の指の形がいーから、いい男っていわなくね?
結局、顔がいいと、肩の形も、足の指の形も「すってきい~」ってなる。
性格だって何となく顔で決めてない?
いい男は、多少性格悪くても、「そこがワルっぽくていーのよー」と、おもいっきりフォローしてね?

なんだなんだ。結局ほぼ顔なのか。
立った20センチ四方のせまこい範囲内の4つの部品がちょっと大きかったり小さかったり短かったり長かったり上がってたり下がってたりしているだけなのに、そこに全てが集約されている。
その20センチ四方が男前にすげ変わっただけで、いきなりステキな人に見えてくる。
その20センチ四方が出川の顔にすげ変わっただけで、うっとおしくなる。
人って、単純よね~。


とかいいつつ。
「おれ、顔でカミサんをえらんでないよ」
とダンナに言われて、なんだかムッとする。
「ええ、ええ、どーせそーでしょーよ。」
と、ふてくされている自分。

やっぱりしっかり顔にとらわれてるんじゃねえか。

2015年1月16日金曜日

サルは懇願する



線路際にある原っぱで、近所の悪ガキオヤジたちが梅林の剪定を終えてたきぎしている。やまんばが買い物帰りに前を通ると、
「おかえり~」と、声をかけてくる。
「ただいま~」と、返答する。

すると、こっちこっちと手招きをするので集まりに加わると、ゴールドに輝く缶ビールをどこからかもってきてくれた。
「おお~、ありがとうございます~」とやまんば。
「ちょこちょこ顔出せや~。いーことあるし」
「へー。そーしますです」

つまみにクッキー2個と、アサリの缶詰をくれた。底に数個しか残ってなかったが、酒飲みやまんばにとっちゃうれしい。
「箸はよ~、そこらで拾えや」
足下には梅の枝が、太いのと細いのにていねいに分けられて積まれてある。やまんばは細い枝二つをえらんで箸代わりにした。長いので途中で折ってつかっていると、
「そんなんじゃだめだ。ちょっとかせや」
といって、オヤジははさみで短く切って、ちょうどいい箸の長さにしてくれた。

「こないだはイノシシにしてやられたわい」
「どーしたんですか?」
「ん、そこの裏でワナに引っかかってたでっかいイノシシがいてよお。白目むいてたから、てっきり死んだと思ってよお。ワナはずしてその日はほっぽっといたんだ。そしたら次の日に、そこにいるじゃん。」
オヤジさんは、すぐそばをゆびさす。
「えっ?そこにいたんですか?」
「そうよお。あのやろ、まだ生きてやがったんだ。だまされたあ」

完全に死んでると思ってたのにじつはまだ生きてて、ヨロヨロここまで歩いてきたようだ。それでそこでコトキレタってわけだ。
「んでそこに埋めた」
「えっ、え~~~っ、そっ、そこに埋まってるんですか?!」
「おう」
「ど、、どこ、、?」
「おしえてやるべえ」
そういって、オヤジは少しこんもりした土の山につれてきた。
「ここ、ここ」
もってきた木の枝でまた掘り返そうとする。
「そんなに深くほってねえから、すぐ毛が出てくるで」
「え、いい、いい、おじさん、ほらなくっていいってば!」
あせるやまんば。
「食うか?」と、にやりとする。
そんなの、いらねえよ!

「イノシシはしとめるけど、サルはどうなの?」
と、前から疑問に思っていたことを聞く。
「サルはあ~、やんねえ」
「なんで?」
「猟師がいうんだ。サルに鉄砲向けるのがやなんだってさ。人に似てるだろ?だから人うつみたいでよお」
あ~、わかる気がする。

「イノシシはよお、豚みたいなもんじゃねえか。鉄砲向けるのにゃ、抵抗はないさ。
それによお。こないだテレビで言ってたぜ。鉄砲向けると、サルは手を合わせて懇願するんだとさ。『後生です、どーかおたすけくだせえ』とな」

人はサルの悪知恵にまんまとひっかかるのであった。



2015年1月10日土曜日

ビビる銀行



年末、とある銀行に行った。
長蛇の列の最後尾について、ノンビリ順番を待っていた。
ヒマなもんだからまわりを何気なく見渡していて、あることに気づく。
店内がポスターだらけ。張り紙だらけ。文字だらけ。文字、文字、文字のオンパレード。

「詐欺」「事件」「犯人」「警察」「犯罪」「通報」「あやしい人」「ご注意」「装う」「なりすまし」「対策」「防犯」「危ない」「弁護士」「法律」「最悪のペース」「逮捕」「心がけ」「被害」「だまされるな」「しっかりしろ」。。。

まー、すごい。
どんだけ、おどすのお~~!???
これ、銀行にある言葉?

順番が来て、画面操作する。
いつのまにか、前とちがう画面に変わってる。
操作するたびに、いちいち「これでオッケーですか?」と、たたみかけてくる。
「ただ今の手数料は無料です。これでオッケーですか?」
オッケーなら「取引実行」を押す。
えっ?無料、ダメなの?
って、一瞬思っちゃうじゃないの。

どんだけびびらせるんやー!

その銀行に行く前に、外資系の銀行にたちよったので、そのちがいになおのことびっくり。そこはな~ンにも張り紙がない。しずか~なもんだった。


なんかね。すごいね。さいきん。あからさまだよね。
テレビでも、ネットでも、なんでもいーけどさー。
おどすよね。おどす、おどす。
悪いことが起こる前提になってる(笑)。あのNYでもここまでビビらせなかったぞい。

あなた、それでだいじょーぶですか?
いいんですか?それで!!
ええっ、いいんかいっ!!!
っとね。

ほっとけよおおおおおーーーーーっ!

広告ってさあ、なくてもなりたつものを、あったらなおのこといーよねー、と促してくる程度の媒体であった。しかし今や「もし、これもってなかったら、もしこれやってなかったら、あんたの人生どーなるの!?」ってぐらいびびらせて、そこに乗るよーにしむけてくる。
ほっとけよおおーーーっ!


ま、もともとそーゆー媒体だったのよねん。

やまんばは、そんなオドシののれんをかきわけて、好きなもんをひょいひょいとチョイスして好きなよーに生きるのさ。


といいつつも、そんな媒体の中で生活させてもらっているやまんばでございます。
自分の仕事では、できるだけオドシのない表現を心がけよーとおもっております。



2015年1月7日水曜日

不快大学の卒業論文『不快の森』




やまんばは、すごく気分が悪いことがあった。
なんだこのやろう、なんであんないいかたするんだ、だいたいだなあ。。。

おーっとっと。
まてよ。ここでこのまま、エアー演説『注:口に出さずに心で相手に討論ふっかけること(やまんば説)』にトツニューする必要があんのか?

やってもいーけど、その先はおなじみのパターンしか生まれてこない。散々うん十年もやりつづけたんだもの。ここはひとつ、ちがうパターンを生み出そうじゃあないのお~。

やまんばはじっとだまった。
だまったまま、この今のイヤ~な気分にどっぷりひたってみることにする。
意識は胸に。意識を頭に持っていくと、勝手にエアー演説はじめちゃうので、あくまでも胸に。または呼吸にもっていく。

どんな気分か、どんな感じか、味わうのだ。
不快大学の不快学科の生徒が、不快についての論文を書くために不快を今まさに味わっているのだ。このチャンスを逃す手はない!

胸が苦しくなってくる。おお、そんなかんじか。
きゅ~んと石のように堅くなってくる。おお!そんなかんじか。
腕に手にどろ~んとしたかんじがやってくる。なんじゃこりゃ?
そのうち最初の感じは、ぎゅる~んと回転しながら変化していく。おお?
移動する、回転する、頭にいろんな映像が浮かぶ、からだにおこる感じが変わっていく。。。

ふと、あれ?これ、個人的なもんじゃない。。。とかんじる。


相手のおもいは、人類の思い。脈々と培われてきた人々のやるせない、つらい、くるしい、悲しい、歴史の中で、ずっと味わっていた思い。。。であって、個人だけの思いではなかったのだ。
それはまさにやまんばも抱えてきた思いでもあった。

相手は、やまんばの思いも含めて代弁してくれていたんだ。相手の姿はやまんばじゃないか。。

そーおもうと、なんだかいとしくおもえて、イメージで相手を抱きしめていた。(あくまでもイメージだぞ。)

するとさっきまであった重苦しい物が、いきなり真っ白になった。
あれ?いやいや、さっきまであったやつ、どこいった?
頭の中でも一回味わおうと探すが、いっこうに真っ白から動かない。
ありゃ、消えちゃった。


「あ~、きもちいい」
いきなり相手がいう。
な、なんだなんだ、さっきまでとちがうじゃないか。
こりゃいったい、どーいたことぜよ。


不快の森の奥には秘密がある。




2015年1月6日火曜日

あけましておめでとうございます〜!





みなさま、新年あけましておめでとうございます。

やまんばは、これでもかとゆーぐらい、なーんにもしないお正月をむかえました。
部屋をかざるお飾りも、お花も、おとそも、お料理にそえる南天の葉っぱも、なーんにもしないお正月。なんだかとってもゆったりとすごせました。
どんだけ「○○しなければならない」とゆー、「縁起もの」に惑わされていたかを知りました。



暮れに見つけた、郵便局の宛名書きソフトで初めて年賀を作成し(惑わされてんじゃん)、
「チョー楽じゃ~ん」
と言葉だけ添えて、あっちこっちに送りました。
ルンルンと父に「年賀届いたあ~?」と電話すると、
「おい、今年は喪中じゃなかったか?」
といわれました。(爆)
おじさん、ごめん。。。orz。

とまあ、そんなまぬけなやまんばですが、今年もなにとぞ、ごひいきに。

みなさまにとって、今年がますます自分大好きな年になりますよーに。