2021年10月16日土曜日

痛みと苦しみ


 

夜中、布団の中でちょっと伸びをした瞬間、右足がつった!


ものすごい痛みがふくらはぎを襲い始める。ギュイ~~~んという音が聞こえんばかりのねじれるような痛みの波がやってくる。


「う。。。。くっ。。。。」

こういう時はいくらもがき倒しても治るものではない。いくつかの激しい波を乗り越え乗り越え、次第に収まっていくのを激痛の中で耐え忍ぶしかないのだ。


この時もその波に身を委ねていたが、

ふと「ん?これ、違う。。。」

と思った瞬間、苦痛が消えていた。


痛みはそこに確かにあった。

しかし心がそこに同一化していなかったのだ。


だから平気でその痛みの波が消えていくのを見守るだけになった。



少し前にも同じようなことがあった。

いつもじゃないけどたまにこういうことが起こるようになった。


痛みは、心つまり苦しみとは別々なんだと知る。

そして痛みは心と一緒になると、「苦痛」になり、

より痛みを大きくさせているんだなあと実感した。



「ん?これ違う」と思ったのは一瞬のことだったが、

その一瞬の中で、「自分はカラダではない」という考えが走ったのだと思う。


日頃からマインドフルネスを心がけているので、

ちょっとでも不快な思いや不快な痛みに気付きやすい。

そういうものに出会うと、それを静かに赦していた。



コースは、この世界での嫌なことを消してくれる教えではない。

ついついやってしまいそうになることは、赦すことで状況を変えようとしたり、消えてくれと願ったりしてしまうこと。


赦すことで状況が変わることもあるかもしれない。

でも変わらないかもしれない。

そこは重要ではない。


たとえ痛みがあろうとも、心が平安でいることができる。

こういう体験を通して、カラダが自分の中心ではないのだということを学ばせてもらっている。






狂った心が作り上げたこの世界は、死ぬために生きる世界。

いつ死ぬかわからない、刑務所にいる死刑囚みたいなもの。
コースを学ぶこの動画の死刑囚の例えは面白かったです。)


その牢獄で(お化け屋敷ともいう)、
ちょっと壁の色をピンクに塗っていい気持ちになっても状況は変わらない。


状況を変えていくことではなく、心を変えていくために学ぶ。


「世界はない」という考えがこの書物の中心概念。

この世は幻、この世は夢。

そういう概念を本気で生きる、つまり心が正しい心に戻るために学ぶ。


その刑務所から出るために。

そして二度とまたこの刑務所に戻ってこないために。




絵:ミステリー表紙イラスト




2021年10月13日水曜日

自分で作ったお化け屋敷で怖がる

 


ある明け方のこと。


ぼんやりとした意識の中、意味不明なイメージが次々に見える。

たくさんのイメージを見せられているあいだ、ああそういうことかと何かを理解している私。


目が覚めて、そのことを思い出す。


えーと。えーと。。。。これを言葉にするとなんというんだ??

わかっているのに、なかなかそれを言葉に置き換えることができない。


散々言葉を探したあげく、

「そうだ。これは、自作自演って言葉が近い」


自作自演。

つまり自分で自分に演出しているって意味だ。



「あなたは自分で自分にこれを行なっている」


その後に読んだ、奇跡のコース/奇跡講座テキスト27章「夢の中の主人公」

の中の言葉が、まさにそのことを伝えていた。


ああ、これだ。これこれ。


これに気づき、これを取り消したいと願うことが救済の道なのだ。





非二元でよく聞く言葉

「ただ起こることが起こっているだけ」

は、私には救いがなかった。


しかし

「自分が自分にこれを行なっている」

というコースの言葉は、ただ起こることが起こっているだけだとは言わない。

起こっていることの責任は自分にあると。

私にはそれが救いになった。




この世はお化け屋敷のようなものだ。

自分でお化け屋敷を作って、真っ暗闇を作って、

いろんなお化けを作って、あの手この手を使って演出して、

その中でキャーキャー言っている。

まさに自作自演。


私たちはそれを作ったことをすっかり忘れている。

まあ、忘れないと怖がれないよな(爆)。



しかし赦しによって、そのお化けたちがだんだん怖くなくなってくる。

後ろの仕掛けが見えてくる。シラケてきた。

恐れを助長させる声のナレーションの正体もわかってきた。


そしてある日ふと思い出すのだ。


あれ?これ、私が作ったんだよなあ~って。



「自分で幻想を作り出したと知覚しているとき、誰もそれらを恐れはしない」

(テキスト28章「原因と結果の逆転」)



自作自演に完全に気がついたとき、何を恐れる?

はよ、お化け屋敷から出よっと。







2021年10月6日水曜日

過去に縛られない自由な今



コース/A Course In MIracles のいう「赦し」がなんなのか、全くわからなかった。


通常の許しは、相手が犯した罪に対して、「私の心は寛大だ。だから許してやろう」

という、許す側の心の広さに免じて、というのが普通だろう。


しかしコースの赦しは(漢字が違うのはわざと)、起こってもいなかった罪に対して、赦すのだ。


罪など起こしてもいない?そしたら赦すも何もない。さっさと赦されるはずだ。


いやいや。見ちゃったし。

あんた罪おかしているし。なかったことになんかしちゃわないよ!


だってこの目で見たんだもん!となって、とてもじゃないが、コース的な赦しはできなかった。



コースの日本語訳には、三冊ある。

「奇跡の道」田中百合子さん訳、

「奇跡のコース」大内博さん訳、

そして「奇跡講座」加藤三代子さん、澤井美子さん訳。

そのうちの「奇跡講座」だけが正式な日本語訳として「内なる平和のための財団」に認められている。


その正式に認められた翻訳に使われている漢字が「赦し」

通常つかわれるゆるしは、罪ありきへのものなので、それは「許し」であって、

罪は起こっていなかったというコースの考えに基づいたものへのゆるしは、「赦し」を使っている。


ちなみに田中さんの訳では「許し」を使い、

大内さんの訳では「ゆるし」と書かれている。


あまりにも難しい本なので、その訳に関しても、ほんの少しの誤訳で全然違う内容になってしまうから、ここまで厳密でややこしいことになってしまったのだろう。

とまあ、赦し一つに関しても、どの漢字を使うかと迷うほどである。





で、本題の赦しである、

罪は何も起こってない???なんで???


どうにもこうにも「何も起こってない」前提で赦すことができなかった私であった。

口では言ってみるも、どうにも気持ちが悪い(だって見ちゃったんだもん)。


そうやって気持ちの悪いまんま、無理やりコース赦しをやっていたが、ある日気になる本を見つけた。


それは謎の著者名の、キラキラしたチャラい感じの本の表紙だった。


ぱっと見、あまりに軽い表紙なので、真剣みにかけるなと思いつつ、なぜか気になる。

気がついたら、キンドルで購入をプチっと押していた。


「奇跡的な許し方」/ラクシュミ著


ラクシュミって誰?何人?

昔、仕事でこの神様の絵を描いたことがあるぞ。


読んでみたら、チャラチャラが吹っ飛ぶ、コースの骨格を何の色もつけないで説明する、ど直球な本だった。

罪悪感というものを使って、自我/エゴが何をやっているのか何を私たちにやらせているのかを、なんのオブラートにも包まず、ガンガン言ってくる。


この本は、コースをある程度学んだ読者じゃないときついかもしれない。

第1章は個人的な経験を語っているが、

第2章からは、個人が書いてないのではないか?と思わせるほどの剛速球。

そこに出てきたのが、赦しのあり方だった。


なぜか私はこの本に触発されて「よっしゃ!もう徹底的に許すぞ!」と爆許しし始めた。


誰かに罪を見たとき、それを自分で許すのではなく(自分で許すとは、自我とともに許しているのだから)、正しい心を持ったもう一つの存在である聖霊とともに赦す。


そして(ここが肝心だ)それを知覚した自分を赦すのだ。




罪を外側に見るとき、それは自分自身を見ている。

自分の中にある無意識の罪の意識を外に投影してみているからだ。

だからこそ、それを見た、つまり知覚した自分自身を赦すのだ。


これを爆許ししていくうちに、だんだん私の心が変わり始めた。


罪は本当は犯されていなかった、、、起きてはいなかったんだということを感じ始めたのだ。

理屈ではなく、

「マジで何も起こってないんちゃうか。。。?」

という気にだんだんなってくるのだった。


つまり赦すのは、自分の中にある罪悪感なのだった。隠れて見えない罪悪感が、赦しを通して明るみに出されていく。自分で隠しておきたい闇に、スポットライトを当て始めるのだ。






そしたら、闇は光で一瞬のうちに消えるように、消えてしまう。


隠しておきたかったものは、本当は「無」でしかなかった。

何もないものを、あるがごとく感じていて、それを「罪」という名の蔵の中に収めておきたがっていたのは自我。

私たちは通常自我とともに考え行動しているから、それを隠しておきたい。

それは見られては困る。なぜならそこには何もないのだから。


でも私たちは自我ではない。

そこから離れることができる。もう一つの側に立つことを選ぶことによって。


自我と一緒に見ると「罪はある」と見え、

聖霊と一緒に見ると「罪などない」とわかる。



私は過去起こった出来事を赦し始めた。

そうすると、自分がいかに過去の出来事に影響されて、今があるかに気がつき始めた。

あらゆる不快な感じは、過去にあった出来事に感じる想いから来ていた。


そこにスポットを当てる。

それを光の下にさらけ出していく。

じょじょに過去が消えて行く。

すると未来さえも消え始める。

それは過去考えたことが未来へと続いていたからだ。


過去に縛られていない、自由な今しかなくなっていく。




絵:NYで出版された。能登半島で起こった出来事を描いた絵本。

story by J.Alison James

illustration by Tsukushi


2021年10月5日火曜日

静かな朝

 




朝目を覚ますと静かだった。


庭ではコオロギの声、鳥の鳴き声がする。

心の中で話す声も聞こえる。

だけど、し。。。ん。。。としていた。


心が静かだった。

静かなのは、自我の声だった。

自我が、何も喋らなかったのだ。


これを平安と呼ばずしてなんと呼ぶのだろう。

心の訓練をしていると、こういうことがだんだん起こり始める。


うるさかったのは自我の声だった。




私たちの心はほとんど自我の考えに占領されている。

何かしなければいけない焦燥感、未来への不安、誰かへの攻撃心。。

全ての元になっているのは恐れ。

その恐れが自我の思考体系。その思考体系を土台にこの世界は作られている。

作っているのは誰あろう、私。


私が自我とくっついて、この世界を作出し続けている。

さすが元は神の子。腐っても鯛。

創造の力は自我の思考体系と同一化しても、神のまねごととして、

この陳腐な分離の世界を作出し続けている。


だがもうそんな世界もこりごり。

恐れを土台にしてまねごとをし続けるのはやめにしようと思う。

そこには苦しみしかない。

たとえ一瞬の喜びがあろうとも、それはいつも束の間のものでしかなかった。




恐れている自分に気づき、その闇を光に捧げよう。

闇が入っている扉を開き、光の下にさらそう。

闇は光によって、一瞬で消える。


小さな恐れも、大きな恐れも、みんな同じ恐れ。

恐れと一緒になって動き回っていると、自分が恐れていることに気がつかない。


なぜなら私たちは巨大な闇を抱えていると信じて、心の中を見ようとはしないから。

でもそれがいつまでたっても心が穏やかにならない理由。

たとえ見ないふりしようとも、自分が持っている闇をなくせはしない。



だけど不快感を感じることで、そこにある自分の恐れに気がつくことができる。


自我である自分はその闇を消すことはできないが、

実は自我ではない自分がいる。

それは正直に自分が恐れていることを認められる自分だ。


正直に自分が恐れていることを認め、

そんな自分をどんどん赦そう。


どんどん赦すうちに、この世界は本当は実在していないということに、

理屈ではなく、心でわかり始める。


これはただ私が作り上げた夢だったんだと。





絵:アフリカの夜明け



2021年10月2日土曜日

私は何も知らない


 

自分で決めなければいけない。

自分で判断しなければいけない。


これがどれだけ私を苦しめていたことか!


これって、前提に「ちゃんとした人でなければいけない」

「自分のことはなんでも自分で始末しなければいけない」

「ちゃんと世の中をわかっていなければいけない」

というのがある。


つくしちゃん、ちゃんとしよーよ。

って暗に言われている気がする。


でもつくしちゃんは、実はアホなのでした。

小学校では下から数えたほうが早い成績。高校に至っては、もう目も当てられない。


でもさ。今はネットでなんでも調べられる時代。

鎌倉幕府がいつできたなんて、ささっと調べりゃあっちゅーまに出てくる。


ところがよ。

世の中そう簡単には答えがないものが多い。(鎌倉幕府の成立だって、どうも昔と違う年らしいし)


検索すればすぐ答えが出てくる。

け、ど、

その先には、別の答えがある。

で、その先にはまた別の答えが。。。


ちょっと待て。

答え、どこ?


ある出来事が起こり、みんなが恐怖し、みんなが求めてきた答えは、

一個ではなく、いろんな人がいろんな説を言い、ぐちゃぐちゃになり

曖昧な説が飛び交ったまま、時は過ぎて行った件。。。

これまでにいっぱいあったなあ。


これって、アンガールズの「ジャンガジャンガ~」

の、なし崩し的な終わり方?


大専門家さんの意見が飛び交う世界に正しい答えが見つからないのであれば、

アホな私にわかるはずもなく。


だったら、自分で決めることもできるわけないじゃん。

ちゃんと世の中わかってられるわけないじゃん。




私は何も知らない。

私は何もわからない。

だから判断するのをやめてみた。



ある出来事が起こった時、即座にこれは問題だと思い、それを解決するにはこうするのが一番だと考える。

その「一番いい形」にするためには、まずあの人に連絡して説明し、、、と自動的に段取りを考え始める。


ところがそうはうまくいかない。だんだん焦ってきて、ああやるためにはこうやって、、、と、また頭の中がどんどん加速する。


これをやめた。


実はこれは怖いことだ。なぜなら即座に動こうとするのは「これは問題だ!」と動揺するからで、何かすることでその恐れを払拭しようとしているのだから。




私たちはじっと待つことができない。

この世界は「わかっていなければいけない」世界なのだもん。


しかし「これが一番いい形」とは、本当にそうなのだろうか。

そもそもその形自体が間違っている信念だとするならば?



何も知らないとは、どれが正しいのか言えなくなることだ。

それは別な言い方をすれば、

どれでもいいということでもある。


ここに立つと、何もしなくなる。

焦ってやろうとする動きを止める。ほっておく。


そして、おてんとさまに(聖霊)おまかせをしてお茶を飲む。(飲まんでもええけど)


そうするとなぜか勝手にことは動いていく。

へえーって感じ。


こういう現象を見ていると、私が今までいかに「自分でやる」ことによって、ことをややこしくぐちゃぐちゃにしてきたかが分かってくる。

どだい自分で「これが問題だ!」とか「こうなるのが一番」などと判断などできるわけがなかったのだった。



こういう体験がだんだん増えていくにつれて、

私は何も知らない。

そして知りようがなかったのだ。

ということを知り始める。


私はますますアホになってしまいます〜。




絵:ミステリー表紙イラスト