2021年10月29日金曜日

決して壊されることのないもの

 


先日書いた絵本の話に出てきた圏央道環境問題や風力発電問題などについては、

実は私は反対や賛成のどちらの立場もとらない。


たとえそのどちらについたとしても、私には一抹の寂しさを感じる。


実際よそから来た反対派の人々は、いつの間にか消えていった。

噂ではまた別の反対運動に参加していると聞く。


今も世の中ではいろんな問題が溢れている。

問題解決に躍起になるのは、

「この問題さえ解決できれば幸せになれる」

という思いから来ているのではないだろうか。


だけど「その問題」が解決されたように見えても、

また新たな問題が浮上してくる。消えた試しがない。




問題を問題として捉えていけば、その問題はさらに大きく見える。大きくなった問題をさらに取り組めば取り組むほどに手がつけられない状態になり、精魂尽き果てて諦めてしまったあと、ことはなかったかのようになる。

これは問題解決なのだろうか?



それは自我に取り組めば取り組むほど、がんじがらめになって身動き取れなくなるのと似ている。

実は自我にはそれが目的なのだった。

自我/問題に取り組んでくれるほど、自我/問題が存在できる。


だが精魂尽き果てて、取り組めなくなった時、

自我/問題の暴走はなかったかのようになる。



この世にはいろんな選択があるように見える。

Aがダメなら、B。BがダメならC。Cがダメなら。。。

だけどその問題解決のための選択は、

あちらを立てればこちらが立たず、こちらを立てればあちらが立たずの矛盾だらけ。

問題を抱えた以上、そこに幸せはない。



かつて反対運動が盛んに行われていた場所に大きな絵の看板があった。

それは真っ赤な顔をして怒り狂った大天狗のお腹に開けられた二つのトンネルの絵。

「高尾山を死守する!」と書かれていた。


その看板も撤去され上空に立派な橋がかかり、足元に小さな公園がある。

私はよくその高尾山の土手っ腹にあいた穴を車で通り抜ける。懐に入るような心地よさがある。



「白い丘のモミジ」に出てくる自然界の彼らは、私たち人間の視点を超えている。


一見諦めにも似た彼らの行為は、AかBかと水平に選択するしかない人間の選択枠をこえ、垂直の流れにある。それは戦場を上から眺める視点。


自然がどう壊されていこうと、見えている世界のその奥に真の美しさがあると言うことを、彼らは語らず私たちに教えていた。


それは決して壊されることなどないと。






絵:第38集アンデルセンのメルヘン文庫「白い丘のモミジ」より





2021年10月26日火曜日

「白い丘のモミジ」/第38集アンデルセンのメルヘン文庫

 


去年10月、1本の電話が入った。

「アンデルセンメルヘン大賞の選考委員5人のうちの一人に、つくしさんあなたが選ばれました」


この「選ばれました」という言葉に引っかかって、何か怪しいものの勧誘かと思い、かなり疑った。

しかしよくよく聞いていると、とてもありがたいお話だった。



広島を本店に、全国に店を広げる老舗のパン屋アンデルセン。

そのアンデルセンさんが主催するメルヘン大賞。もう38年になるという。

その第38回目の大賞の選考委員の一人に、ありがたくも選ばれたのだった。


「お話づくりは、どこかパンづくりと似ていると思うのです」

送られてきた過去の受賞作品の本を開いたとき、扉に書かれていたこの言葉に、日頃からパンを作っている私はひきつけられた。


選考委員とは、一般募集された物語の中の一つを選んで、私が作画をつけるというもの。

コロナ禍で打ち合わせも直接主催者の方々にお会いすることはなかったが、粛々と仕事は進んでいった。




1000点近くあった応募作品の中で、選考委員長の立原えりか先生が選んだ候補作品のうち、5作品を私は渡された。その中である物語が私を惹きつけた。


それは環境問題を題材にしたおよそメルヘンとは縁がないかのようなお話。

風力発電開発に伴う人々の心の動揺と、それを取り巻く自然界に住んでいる動植物たちの目線。人間の私利私欲に翻弄される生き物たちの、悲しくも深い慈愛に満ちた美しいお話だった。


風力発電開発の話は、私がNYからこの町に移り住んだ時に持ち上がっていた圏央道環境問題と重なった。役所と住人の話し合いが設けられた分校は、その頃この町にあった東京都最後の分校のよう。読めば読むほどよく似た状況に、私はこの話を選ぶことになっていたのではないかと思わせるほど驚いた。




この物語には主人公がいなかった。しかしその中心にいるのは一本のモミジ。その存在がそこに住む生き物たちの心を支えていた。私はこの自然界からの視点で描いた。


圏央道建設が決まって、着々と進んでいた工事。

山が切り崩され、滝や沢の水の流れが分断される。

トンネル工事の途中で崩れ落ちる岩盤。

賛成派と反対派に真っ二つに分かれた、そこに住む人々の葛藤。

今こうしてパソコンを叩いているその後ろに見える圏央道の橋。

開通するまでにいろんなことがあった。


人々はその都度驚き、オロオロし、策を練る。自然は黙して何も語らない。彼らの中で一体何が起こっていたのかは人間の耳には聞こえない。

しかしこの物語は、あの時ここ高尾山に起こっていたであろう自然界の言葉を話しているようにも思えた。



私たち人間は進化の頂点にいるようなふりをしているが、実は地球のウイルスのようなものだ。私たちがいなければ、この地球は全く美しい自然のまま。

そんな幼い子供のような人間を、自然は厳かな目で見つめ、受け入れていく。

自然はなんて暖かい心を私たちに差し出してくれているのだろう。



彼の中に何が入って、この物語を書かせたのだろう。

この物語に出会わせてくれた作者近藤栄一さんに感謝します。

そしてこの素晴らしいチャンスを与えてくれたアンデルセンの方々に御礼申し上げます。


「白い丘のモミジ」

もしご興味のある方は、ぜひ読んでみてください。






2021年10月22日金曜日

ひそひそ声


 


目の前に現れてくる現象に振り回されなくなってくると、

頭の中でひそひそとささやく声が聞こえ始めた。


寝ているあいだも、昼間に起きているあいだも、そのひそひそ声は話す。

夜寝ているときは、フラッシュバックのように、ありとあらゆるものすごい量の映像を見せ続け、馴染みのある苦痛をともなう内容を話し続ける。


お金は?老後は?病気は?老化は?仕事は?親は?旦那は?あの人は?。。。



私たちの悩みは、すべて同じもの。

お金、健康、人間関係、、、。

どんなお金持ちでも、どんな貧乏でも、形は違えど、ほぼこの問題に終止する。

そしてその中心に置かれているのがカラダだ。


私はカラダであるという信念が、このカラダをいかに快適にさせるかに注がれている。


ここで「私はカラダではない!」と宣言したところで、何の力にもならないことは、経験から言える(笑)。

しかしカラダが主体であるがゆえに、この世界の全ての悩みがあるのも事実だ。



このひそひそ声は、ずっと私の頭の中で聞こえていたのだ。

それが四六時中聞こえていると自覚しないままに、

私は立ち上がってくる不安や罪の意識に苛まれて、行動をしていたのだ。


この声をよく聞いていると、脅すだけ。

アドバイスを聞くと、どこかで聞いたことのあるものしか言わない。

そのアドバイスとは、さらに苦痛を促すような、さらに犠牲を強いてくるようなものでしかない。

決して心がぱあっと明るくなるようなことを言わないのだ。


それは当たり前だ。これが自我の声だから。


自我は自分が実在していないのを知られては困る。だから自分にまともにフォーカスされないために、この私が何か問題を抱えているような演出をしてくるのだ。

そしていつまでも、このあるように見えているこの世界で問題を抱えさせ、この世界に執着させ、いつまでも維持させ続けている。


私に罪悪感を持たせ、ずっと恐れさせ続けていたのは、この声だったのだ。。。。!



「もしあなたが、自我がいかに大声で呼びかけてくるように思えてもその声に耳を貸さず、

あなたが本当に欲しいものは何一つ与えてくれない自我のつまらぬ贈り物を受け入れず、

救済とは何かをあなたに教えてはくれなかった心を空(から)にしてよく聞こうとすれば、

あなたには力強い真理の声が聞こえてくるだろう」

奇跡のコース、ワークブック、レッスン106




私はひそひそと聞こえてくる声に、ただ黙った。

黙ると静かになった。

あの声は自我と一緒になっていた私の声だったのか。

私が黙ると黙るのだった。


静かになった心の中で思う。

私は自分の力を自我に預けていたのだ。

私の心は自我と一緒か、聖霊と一緒かのどちらかにしかいかない。






ふいに神社の鳥居をくぐるシーンを思い出した。


鳥居の真ん中は決して歩かない。

そこは神様が通る道だから。

だから私たちは、真ん中からちょっと脇によけて通る。


聖霊と私の関係はこれに似ている。


神殿/光に向かって歩む時、

ちょっと脇によって、聖霊に先に行っていただこう。

私はその後をついていこう。



今まで自我と一緒に鳥居の真ん中を歩こうとしていたのだろうな。

自分でなんとかしなければと、自我と必死で生きてきた過去を思い起こす。

そんな自分をクスッと笑って通り過ぎよう。


静けさの中で、力が湧いてくる。

喜びが溢れてくる。


幸せは何もせずとも、ここにすでにあった。




絵:「ささやく杉」




2021年10月20日水曜日

消えていく結果




結果は、原因がなければ結果にならず、

原因は、結果がなければ原因として成り立たない。




ある人のことが気になってしょうがない。

彼女はいわば私の罪の象徴のような存在だった。


「あなたは自分で自分にこれを行なっている」


コースの言葉によれば、

罪が自分にあると信じることが苦しくて、

それを自分の外にいる存在/彼女に擦りつけたのだ。


今、それを私の元へ戻そう。

原因は、私なのだから。


動きを止めて、心を静かにする。

彼女をイメージし、彼女を私にだんだんと近づかせ、私の中に引き戻していった。


彼女が私の胸の中に入ってくる。

静かに。。。静かに。。。


閉じているまぶたの中が明るくなってくる。

心が軽くなってくる。。。


目を開けるといつもの風景。

心の中の彼女は消えていた。




私が作り出した結果は消えていた。

結果がそこにないということは、それを引き起こした原因もない。


原因とは私に罪があるという信念。結果が消えると、そこに原因は存在しようがないのだ。


私の中の罪が消えた。。。?


わからない。

けれどもそれまでそこにあった重苦しさが全く消えていた。

反対に、胸の中にさっきまでそこになかった力を感じる。


私は自分にもともとあった力を、その人に預けていたのかもしれない。


あの人のせいで私は苦しんでいるという信念は、

いわばその人に自分の力を渡していたとも言えるのではないか。


彼女と私という風に分離していたものが、一つになる時、原因と結果が一つになる。

いや、逆だ。

原因と結果が一つになる時、私と彼女は一つになる。




もともと一つであったものが分かれているように見えているこの世界。

分離で成り立っているこの世界は、常に原因と結果を分け、時間を引き起こす。



しかしコースはいう。

実相の世界では、原因は神。結果は神の子。

それは一つ。互いにその存在を喜び合い、永遠の無限の創造を広げていく。



私に罪はなかったという無罪性を教えられる。

私に罪がない時、彼女にも罪はない。


そしてまたこうも教えられる。

無因性ものは実在しない。


自分が犯した罪から神を恐れるあまり、

投影という形で外に放り出したものを、

一つ一つ私の中に呼び戻していく。


呼び戻し始めると、この世界での原因/罪はなかったと、

なかったことを確認していく日々。


静かで穏やかな秋がやってくる。





絵:「センブリ」


2021年10月16日土曜日

痛みと苦しみ


 

夜中、布団の中でちょっと伸びをした瞬間、右足がつった!


ものすごい痛みがふくらはぎを襲い始める。ギュイ~~~んという音が聞こえんばかりのねじれるような痛みの波がやってくる。


「う。。。。くっ。。。。」

こういう時はいくらもがき倒しても治るものではない。いくつかの激しい波を乗り越え乗り越え、次第に収まっていくのを激痛の中で耐え忍ぶしかないのだ。


この時もその波に身を委ねていたが、

ふと「ん?これ、違う。。。」

と思った瞬間、苦痛が消えていた。


痛みはそこに確かにあった。

しかし心がそこに同一化していなかったのだ。


だから平気でその痛みの波が消えていくのを見守るだけになった。



少し前にも同じようなことがあった。

いつもじゃないけどたまにこういうことが起こるようになった。


痛みは、心つまり苦しみとは別々なんだと知る。

そして痛みは心と一緒になると、「苦痛」になり、

より痛みを大きくさせているんだなあと実感した。



「ん?これ違う」と思ったのは一瞬のことだったが、

その一瞬の中で、「自分はカラダではない」という考えが走ったのだと思う。


日頃からマインドフルネスを心がけているので、

ちょっとでも不快な思いや不快な痛みに気付きやすい。

そういうものに出会うと、それを静かに赦していた。



コースは、この世界での嫌なことを消してくれる教えではない。

ついついやってしまいそうになることは、赦すことで状況を変えようとしたり、消えてくれと願ったりしてしまうこと。


赦すことで状況が変わることもあるかもしれない。

でも変わらないかもしれない。

そこは重要ではない。


たとえ痛みがあろうとも、心が平安でいることができる。

こういう体験を通して、カラダが自分の中心ではないのだということを学ばせてもらっている。






狂った心が作り上げたこの世界は、死ぬために生きる世界。

いつ死ぬかわからない、刑務所にいる死刑囚みたいなもの。
コースを学ぶこの動画の死刑囚の例えは面白かったです。)


その牢獄で(お化け屋敷ともいう)、
ちょっと壁の色をピンクに塗っていい気持ちになっても状況は変わらない。


状況を変えていくことではなく、心を変えていくために学ぶ。


「世界はない」という考えがこの書物の中心概念。

この世は幻、この世は夢。

そういう概念を本気で生きる、つまり心が正しい心に戻るために学ぶ。


その刑務所から出るために。

そして二度とまたこの刑務所に戻ってこないために。




絵:ミステリー表紙イラスト




2021年10月13日水曜日

自分で作ったお化け屋敷で怖がる

 


ある明け方のこと。


ぼんやりとした意識の中、意味不明なイメージが次々に見える。

たくさんのイメージを見せられているあいだ、ああそういうことかと何かを理解している私。


目が覚めて、そのことを思い出す。


えーと。えーと。。。。これを言葉にするとなんというんだ??

わかっているのに、なかなかそれを言葉に置き換えることができない。


散々言葉を探したあげく、

「そうだ。これは、自作自演って言葉が近い」


自作自演。

つまり自分で自分に演出しているって意味だ。



「あなたは自分で自分にこれを行なっている」


その後に読んだ、奇跡のコース/奇跡講座テキスト27章「夢の中の主人公」

の中の言葉が、まさにそのことを伝えていた。


ああ、これだ。これこれ。


これに気づき、これを取り消したいと願うことが救済の道なのだ。





非二元でよく聞く言葉

「ただ起こることが起こっているだけ」

は、私には救いがなかった。


しかし

「自分が自分にこれを行なっている」

というコースの言葉は、ただ起こることが起こっているだけだとは言わない。

起こっていることの責任は自分にあると。

私にはそれが救いになった。




この世はお化け屋敷のようなものだ。

自分でお化け屋敷を作って、真っ暗闇を作って、

いろんなお化けを作って、あの手この手を使って演出して、

その中でキャーキャー言っている。

まさに自作自演。


私たちはそれを作ったことをすっかり忘れている。

まあ、忘れないと怖がれないよな(爆)。



しかし赦しによって、そのお化けたちがだんだん怖くなくなってくる。

後ろの仕掛けが見えてくる。シラケてきた。

恐れを助長させる声のナレーションの正体もわかってきた。


そしてある日ふと思い出すのだ。


あれ?これ、私が作ったんだよなあ~って。



「自分で幻想を作り出したと知覚しているとき、誰もそれらを恐れはしない」

(テキスト28章「原因と結果の逆転」)



自作自演に完全に気がついたとき、何を恐れる?

はよ、お化け屋敷から出よっと。







2021年10月6日水曜日

過去に縛られない自由な今



コース/A Course In MIracles のいう「赦し」がなんなのか、全くわからなかった。


通常の許しは、相手が犯した罪に対して、「私の心は寛大だ。だから許してやろう」

という、許す側の心の広さに免じて、というのが普通だろう。


しかしコースの赦しは(漢字が違うのはわざと)、起こってもいなかった罪に対して、赦すのだ。


罪など起こしてもいない?そしたら赦すも何もない。さっさと赦されるはずだ。


いやいや。見ちゃったし。

あんた罪おかしているし。なかったことになんかしちゃわないよ!


だってこの目で見たんだもん!となって、とてもじゃないが、コース的な赦しはできなかった。



コースの日本語訳には、三冊ある。

「奇跡の道」田中百合子さん訳、

「奇跡のコース」大内博さん訳、

そして「奇跡講座」加藤三代子さん、澤井美子さん訳。

そのうちの「奇跡講座」だけが正式な日本語訳として「内なる平和のための財団」に認められている。


その正式に認められた翻訳に使われている漢字が「赦し」

通常つかわれるゆるしは、罪ありきへのものなので、それは「許し」であって、

罪は起こっていなかったというコースの考えに基づいたものへのゆるしは、「赦し」を使っている。


ちなみに田中さんの訳では「許し」を使い、

大内さんの訳では「ゆるし」と書かれている。


あまりにも難しい本なので、その訳に関しても、ほんの少しの誤訳で全然違う内容になってしまうから、ここまで厳密でややこしいことになってしまったのだろう。

とまあ、赦し一つに関しても、どの漢字を使うかと迷うほどである。





で、本題の赦しである、

罪は何も起こってない???なんで???


どうにもこうにも「何も起こってない」前提で赦すことができなかった私であった。

口では言ってみるも、どうにも気持ちが悪い(だって見ちゃったんだもん)。


そうやって気持ちの悪いまんま、無理やりコース赦しをやっていたが、ある日気になる本を見つけた。


それは謎の著者名の、キラキラしたチャラい感じの本の表紙だった。


ぱっと見、あまりに軽い表紙なので、真剣みにかけるなと思いつつ、なぜか気になる。

気がついたら、キンドルで購入をプチっと押していた。


「奇跡的な許し方」/ラクシュミ著


ラクシュミって誰?何人?

昔、仕事でこの神様の絵を描いたことがあるぞ。


読んでみたら、チャラチャラが吹っ飛ぶ、コースの骨格を何の色もつけないで説明する、ど直球な本だった。

罪悪感というものを使って、自我/エゴが何をやっているのか何を私たちにやらせているのかを、なんのオブラートにも包まず、ガンガン言ってくる。


この本は、コースをある程度学んだ読者じゃないときついかもしれない。

第1章は個人的な経験を語っているが、

第2章からは、個人が書いてないのではないか?と思わせるほどの剛速球。

そこに出てきたのが、赦しのあり方だった。


なぜか私はこの本に触発されて「よっしゃ!もう徹底的に許すぞ!」と爆許しし始めた。


誰かに罪を見たとき、それを自分で許すのではなく(自分で許すとは、自我とともに許しているのだから)、正しい心を持ったもう一つの存在である聖霊とともに赦す。


そして(ここが肝心だ)それを知覚した自分を赦すのだ。




罪を外側に見るとき、それは自分自身を見ている。

自分の中にある無意識の罪の意識を外に投影してみているからだ。

だからこそ、それを見た、つまり知覚した自分自身を赦すのだ。


これを爆許ししていくうちに、だんだん私の心が変わり始めた。


罪は本当は犯されていなかった、、、起きてはいなかったんだということを感じ始めたのだ。

理屈ではなく、

「マジで何も起こってないんちゃうか。。。?」

という気にだんだんなってくるのだった。


つまり赦すのは、自分の中にある罪悪感なのだった。隠れて見えない罪悪感が、赦しを通して明るみに出されていく。自分で隠しておきたい闇に、スポットライトを当て始めるのだ。






そしたら、闇は光で一瞬のうちに消えるように、消えてしまう。


隠しておきたかったものは、本当は「無」でしかなかった。

何もないものを、あるがごとく感じていて、それを「罪」という名の蔵の中に収めておきたがっていたのは自我。

私たちは通常自我とともに考え行動しているから、それを隠しておきたい。

それは見られては困る。なぜならそこには何もないのだから。


でも私たちは自我ではない。

そこから離れることができる。もう一つの側に立つことを選ぶことによって。


自我と一緒に見ると「罪はある」と見え、

聖霊と一緒に見ると「罪などない」とわかる。



私は過去起こった出来事を赦し始めた。

そうすると、自分がいかに過去の出来事に影響されて、今があるかに気がつき始めた。

あらゆる不快な感じは、過去にあった出来事に感じる想いから来ていた。


そこにスポットを当てる。

それを光の下にさらけ出していく。

じょじょに過去が消えて行く。

すると未来さえも消え始める。

それは過去考えたことが未来へと続いていたからだ。


過去に縛られていない、自由な今しかなくなっていく。




絵:NYで出版された。能登半島で起こった出来事を描いた絵本。

story by J.Alison James

illustration by Tsukushi