2021年10月6日水曜日

過去に縛られない自由な今



コース/A Course In MIracles のいう「赦し」がなんなのか、全くわからなかった。


通常の許しは、相手が犯した罪に対して、「私の心は寛大だ。だから許してやろう」

という、許す側の心の広さに免じて、というのが普通だろう。


しかしコースの赦しは(漢字が違うのはわざと)、起こってもいなかった罪に対して、赦すのだ。


罪など起こしてもいない?そしたら赦すも何もない。さっさと赦されるはずだ。


いやいや。見ちゃったし。

あんた罪おかしているし。なかったことになんかしちゃわないよ!


だってこの目で見たんだもん!となって、とてもじゃないが、コース的な赦しはできなかった。



コースの日本語訳には、三冊ある。

「奇跡の道」田中百合子さん訳、

「奇跡のコース」大内博さん訳、

そして「奇跡講座」加藤三代子さん、澤井美子さん訳。

そのうちの「奇跡講座」だけが正式な日本語訳として「内なる平和のための財団」に認められている。


その正式に認められた翻訳に使われている漢字が「赦し」

通常つかわれるゆるしは、罪ありきへのものなので、それは「許し」であって、

罪は起こっていなかったというコースの考えに基づいたものへのゆるしは、「赦し」を使っている。


ちなみに田中さんの訳では「許し」を使い、

大内さんの訳では「ゆるし」と書かれている。


あまりにも難しい本なので、その訳に関しても、ほんの少しの誤訳で全然違う内容になってしまうから、ここまで厳密でややこしいことになってしまったのだろう。

とまあ、赦し一つに関しても、どの漢字を使うかと迷うほどである。





で、本題の赦しである、

罪は何も起こってない???なんで???


どうにもこうにも「何も起こってない」前提で赦すことができなかった私であった。

口では言ってみるも、どうにも気持ちが悪い(だって見ちゃったんだもん)。


そうやって気持ちの悪いまんま、無理やりコース赦しをやっていたが、ある日気になる本を見つけた。


それは謎の著者名の、キラキラしたチャラい感じの本の表紙だった。


ぱっと見、あまりに軽い表紙なので、真剣みにかけるなと思いつつ、なぜか気になる。

気がついたら、キンドルで購入をプチっと押していた。


「奇跡的な許し方」/ラクシュミ著


ラクシュミって誰?何人?

昔、仕事でこの神様の絵を描いたことがあるぞ。


読んでみたら、チャラチャラが吹っ飛ぶ、コースの骨格を何の色もつけないで説明する、ど直球な本だった。

罪悪感というものを使って、自我/エゴが何をやっているのか何を私たちにやらせているのかを、なんのオブラートにも包まず、ガンガン言ってくる。


この本は、コースをある程度学んだ読者じゃないときついかもしれない。

第1章は個人的な経験を語っているが、

第2章からは、個人が書いてないのではないか?と思わせるほどの剛速球。

そこに出てきたのが、赦しのあり方だった。


なぜか私はこの本に触発されて「よっしゃ!もう徹底的に許すぞ!」と爆許しし始めた。


誰かに罪を見たとき、それを自分で許すのではなく(自分で許すとは、自我とともに許しているのだから)、正しい心を持ったもう一つの存在である聖霊とともに赦す。


そして(ここが肝心だ)それを知覚した自分を赦すのだ。




罪を外側に見るとき、それは自分自身を見ている。

自分の中にある無意識の罪の意識を外に投影してみているからだ。

だからこそ、それを見た、つまり知覚した自分自身を赦すのだ。


これを爆許ししていくうちに、だんだん私の心が変わり始めた。


罪は本当は犯されていなかった、、、起きてはいなかったんだということを感じ始めたのだ。

理屈ではなく、

「マジで何も起こってないんちゃうか。。。?」

という気にだんだんなってくるのだった。


つまり赦すのは、自分の中にある罪悪感なのだった。隠れて見えない罪悪感が、赦しを通して明るみに出されていく。自分で隠しておきたい闇に、スポットライトを当て始めるのだ。






そしたら、闇は光で一瞬のうちに消えるように、消えてしまう。


隠しておきたかったものは、本当は「無」でしかなかった。

何もないものを、あるがごとく感じていて、それを「罪」という名の蔵の中に収めておきたがっていたのは自我。

私たちは通常自我とともに考え行動しているから、それを隠しておきたい。

それは見られては困る。なぜならそこには何もないのだから。


でも私たちは自我ではない。

そこから離れることができる。もう一つの側に立つことを選ぶことによって。


自我と一緒に見ると「罪はある」と見え、

聖霊と一緒に見ると「罪などない」とわかる。



私は過去起こった出来事を赦し始めた。

そうすると、自分がいかに過去の出来事に影響されて、今があるかに気がつき始めた。

あらゆる不快な感じは、過去にあった出来事に感じる想いから来ていた。


そこにスポットを当てる。

それを光の下にさらけ出していく。

じょじょに過去が消えて行く。

すると未来さえも消え始める。

それは過去考えたことが未来へと続いていたからだ。


過去に縛られていない、自由な今しかなくなっていく。




絵:NYで出版された。能登半島で起こった出来事を描いた絵本。

story by J.Alison James

illustration by Tsukushi


2 件のコメント:

梶原 豊 さんのコメント...

私は未だに過去を赦せてはいない…です

つくし さんのコメント...

まずはそう気づくことが第一歩だと思いますよ。

普通は、自分の過去など赦せないはずですから。

過去を赦せてないない自分を、そっと赦してあげてください。