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2021年7月21日水曜日

言葉をとっぱらうと。。。

 


彼と会うと、私はいつも萎縮してしまう。


先日気づいた「対等」という視点が吹っ飛んで、

自分を下に置き彼を上に置く、いつもの上下関係に戻ってしまった。

相変わらず私は気を使い、素の自分ではいられなかった。


そんな自分を許し、相手を許し、そしてそれを知覚した自分を許していったが、

それでもその悶々とした想いはしばらく取れなかった。



ふとある友人のことを思い出した。

それは以前このブログでも書いた耳の聞こえない少年。今はろう学校に通うため、遠くに引っ越していったが、かつて通っていた幼児園で夏祭りがあり、一昨日お母さんが少年を連れてうちに寄ってくれたのだった。


久しぶりにあった少年は、少し大人になっていた。

かがんで彼と向かい合う。彼の大きな目をじっと見た。


彼には言葉がなかった。だから私に対するなんの評価も批判もない。ただじっと黙って無言で私を見返す。その静かな眼差しに引き込まれる。彼は私をその存在のままに受け入れてくれた。

沈黙の中で、私は癒された。






私たちの心の中には、絶えず言葉がある。

一度でも瞑想をしたことがある人は、自分の心の中が思いでいっぱいなことに気づかされる。そしてその言葉は、消そうとしても消えないことに驚かされる。


心はたくさんの解釈と判断と裁きであふれている。それが私たちを苦しめている。世の中の多くの修行は、その心の中の雑念を払うために生み出された。




そうだ。言葉だ。


私はその萎縮してしまう相手に、あらゆる印象を持っている。

彼の経歴、彼の肩書き、彼の行動、有言実行の実績、経験値からくる限りない博識。

全てに圧倒されているのだ。


しかしそれらは全部言葉でできている。

その言葉が私たちに差異をつける。

こっちの方が優れている。こっちの方がお金持ちだ。こっちの方が力がある。。。

その圧倒的な差異は、言葉/概念からくる。


私はあの少年のように、言葉をぜんぶとっぱらって彼を見た。


その時、彼自身が放っている、包み込むような温かい優しさを観た。


それは権力からでも行動からでも肩書きからでもない、彼自身が持っている存在的な包容力だ。

それを感じた時、私は急に胸が熱くなって泣いてしまった。

なんて素敵な人なんだ!

その時彼の本質を観たのだった。



言葉は自我だ。

私は彼を自我で見ていた。


自我のメガネで彼を見れば、当然肩書きや言動が目につく。そうすれば自分の位置を彼と比べて、低い自分を思い出さされる。とてもじゃないが対等とは言えない。


けれども言葉という概念を取っ払うと、存在同士が見えてくる。

それは本当の自己。神聖である私たち。



言葉がほんの少しの違いを見つけ出し、ここが違う、あそこのニュアンスが違うと言い争い、やがて言葉がまたさらなる説明のための言葉を生み、説明のための、そのまた説明のための言葉が続く。


最初はほんの少し違っていただけなのに、いつの間にか大きく違っていってしまう。


夫婦間でもよく起こる現象。

けれどもそれらの言葉を全部取り払って相手を見たとき、そこにあるのは、ただただ愛おしさだけではないだろうか。


言葉は違いを作り恐れを生み出すが、それが消えた時、

そこには愛があるだけなのではなかったろうか。


何をせずとも、何にならずとも。










絵:新書表紙イラスト「企業家たちの幕末維新」


2021年7月13日火曜日

自分が自分を怖がらせているだけやん。

 



「なんやこれ。

自分が自分を怖がらせているだけやん!」

って気がついた時、肩の力が抜けた。


たったそれだけのこと?

たったそれだけのことのために、どれだけ力使ってきたことか。

どれだけ本読みあさって探求してきたことか。。。!





「こういったら、どう言われるだろう?」

「これをお願いしたら、なんて反応されるだろう?」


そういう思いが、私を怯えさせてきた。

特にうるさがれたら、迷惑がられたらどうしよう?という思いが強かった。


そう思いながらも、勇気を出して言うと、やっぱり思った通りの反応が返ってきた。

時には思った通りの反応ではなかったが、それでもたいがい思った通り。

なもんだから、

「ほーらやっぱり!だから言わんこっちゃない!」

そういって、自分をたしなめたものだった。



そのパターンの中で半世紀以上生きてきたが、

どうにも苦しすぎちゃって、どんな本読んでも無駄で、

奇跡講座/コースに行き着いて、その中の言葉に後押しされた。


「こうである必要はない」


え?え?なんだって?


「あなたが不安であるとき、不安感は自我の気まぐれから生じると認識し、

こうである必要はないと知りなさい」


つまり自我が持ち出してくる不安感や恐怖感は、罪悪感を感じさせるためであるってこと。

「お前にゃ、罪があるぞ~。その罪を忘れるなよ~」と。

しかし罪悪感は自我のみが誘ってくる言葉で、あなたとは関係がない。あなたは罪など犯してもおらぬ。だから自我の声によって、自分を怖がらせる必要はないと。


その力は私自身が持っている。

怖がらせるのも、怖がらせないのも。




だからやってみた。

何かを言おうとしたり、何かを人にお願いしようとした時、

「どう反応されるだろう?」の思いをストップしてみた。


すると、、、。

なんも起こらない。

いつもはこう返ってくるだろうな、という反応が返ってこない。

ことはすんなり進む。


あれ?どゆこと?


「あなたは心の力を知らなさすぎる。

あなたは自分の思考を野放図にしている。

それが一体どういうことか、考えたことがあるか」


「恐れはあなたが作り出している」と。




今、家のトイレの工事を頼んでいる。

40年近く経つこの家は、今の構造ではない。蓋を開けてみないとどういう仕組みになっているか見えない。じっさい床をはぐってみると、いろんな問題が見つかった。


以前の私だと、いちいちの問題にあくせくして未来を予測して憂いてみたものだった。

それが「そうですか。ではお願いします」で終わり。


判断や解釈をやめることは、自分の中で長引かせないことであり、

それを問題として存在させないことでもあるのだ。


自分が何かしようとした時、どう反応されるか?というのは判断。

その判断をやめて、出来事をそのまま受け入れる。

するとことは粛々と進んで、静かに終わっていく。



いつものように判断して、反応を確かめているその間、心はとても疲弊する。

ああだったらどうしよう、こうだったらどうしようと。


それは単に選択の問題だった。


お化け屋敷に入って遊びたいか、

広い草原で友と戯れながら遊びたいか。


後者は心を無限大に拡張する。






絵:お兄ちゃんと釣り



2021年7月5日月曜日

誰も嫌な思いをする人がいない

 



「こっちが『いいよ!』って思って、

『よし。聴くぞ!』って心を開いて聴くと、

お客さんの顔が一瞬変わったんだ。

それまで眉間にしわ寄せてた顔してたのがゆるんで、、、」


と、友人はとても楽しそうに話してくれた。



仕事柄いろんなお客さんが訪れる彼女が働くお店。癖持ちのお客さんばかり。

彼女はそれまで肩こりと頭痛に悩まされてきた。

それが最近、彼女の中で何かが変化してきて、体が軽くなってきたようだ。


「なんだ、こんなことだったのかって思う。

それまで何怖がってたんだろうって」



あるお客さんから難しい問題を持ちかけられた。

彼女はあらゆる想定を正直に話し対応した。

その結果うまくことが運び、

感激した客さんから、可愛いプレゼントがやってきた。

その素朴さに、そこにいるみんなが幸せになっていく。



「正直であることがどれだけ自分を解放することか。。

なんで今まで言えなかったんだろうって。。。


だーれも嫌な思いをする人が一人もいないの!

みんな楽しくて、みんな幸せになっていく!」



彼女は真理に触れていた。




私たちは本来喜びで満ちている。


なのにいつの間にか、
「苦しみがあたりまえで、たまにちょこっと喜びがあるだけ。

それが人生ってもんだ。」

と、教わってきたし、そういうもんだと体験して確信をする。

「ほーら。やっぱりね」と。


でもそれも限界を迎える。

にっちもさっちもいかないこの苦しさから逃れられる方法はないのか。


それが単に心の方向を変えるだけなのだと知る瞬間、

この世界の見えかたが変わってくる。



それまで彼女はそのお客さんに「この人はめんどくさい人」と思って、心を閉じて対応していた。

するとそのお客さんも同じように心を閉じたまま、疑いのまなこで反応する。

お客が帰った後、彼女はその人に対して、いろいろ考えてしまっていた。


「それがね。今回あとで全然考えないの。

いつもはぐるぐる考えてたのに。軽いの。

さあ~っと流れていって、はい、おしまい!」


嬉しそうで楽しそうで、魅力的な彼女の顔はますます輝いて見えた。





この世界は鏡だと言われる。

本当にそうだと知るのは、それを体験してからだろう。


なんのことはない。こっち側の問題だったのだと気がついた時、心は解放される。



私たちには二つの考え方がある。

一つは自我からの考え。

もう一つは聖霊からの考え。


心をつぶさに見ていくと、私たちの中にいろんな思い込みがあることに気づく。


一つの出来事を見て、自我はこうささやく。


「ほーら。やっぱりあいつはいつもの態度だ。

警戒してろよ。心を閉ざしてろよ。

人はお前を攻撃する。この世界はそういう恐ろしいものだ」



一方聖霊は、


「あなたには、こういう思い込みを持っています。

それを持つことによって、苦しんでいます。

目の前の兄弟もまた、あなたと同じような苦しみを持っています。

あなたはこの思い込みを手放す気になりますか?

それはまた兄弟をも解放することになります」



自我の声は大きいが聖霊の声はかすか。

それでもいつも私たちはこの二者から、どちらを選択するかを聞かれている。


自我は恐れを選択せよと教え、

聖霊は愛を選択しないかい?とうながしてくる。


あの時彼女は愛を選択した。

心を開いてお客さんに応えようとした。


彼女は見えない大きな一歩を踏み出していた。




絵:ミツバチと親子



2021年7月2日金曜日

裁かなくなった時

 


人を裁かなくなった時、自分を裁かなくなった。

自分を裁かなくなった時、楽になった。



目の前の人を裁かなくなった時、

その人が自分を裁いていないのが分かる。


互いが自由で、ありのままになった。



裁く気持ちがあった時、心はずっとそのことに囚われていた。


それは裁いた自分をどこか後ろめたく、つまり罪悪感を感じていて、

その後ろめたさが居心地が悪いので、裁いた理由を探して、

自分を正当化しようとしていたのだ。


そうやってずっと心はそれに囚われて、関わっていた。


だが裁くことがいかに苦しみを生み、その苦しみを取り除こうとして、

かえって底なし沼に入り込むことに気づいた時、

それはただ、シンプルにやめていくことであると知った。


裁くことをやめたら、後ろめたさも罪悪感もない。

裁かないから、誰にも裁かれない。


自然と心の中の恐れが減っていった。




絵:紫陽花と妖精