2015年11月9日月曜日

きのう講演会にはじめて行った



きのう「ノンジュアリティの夜明け」と言う講演会に行ってきた。
やまんばがそれ系(?)の講演会に行くのは、はじめてである。

数々のあやしー本を読みあさって来たが、講演会とゆーものに、一度も行ったことがない。
ずいぶん昔、一度だけ古神道の教えの方のところに行って、「これぼったくりやな」と感じて以来、直接会いにいくよりも、ユーチューブや著書だけでじゅうぶんであるとおもっていたから。

久しぶりにのぞいてみたあるブログに書かれてあった講演会のおしらせ。
「今日からチケット販売です。今日から一週間のあいだでのふりこみなら半額です」とゆー、お得感に乗せられて、その場で申し込む。

きのうの講演会の話では、一晩で完売だったそうだ。前の方に座っていたやまんばが後ろを振り返ると、かなり広い会場の席はすべて埋まっていた。
この思想への感心がどれだけすごいかうかがえる。

4、50代の女性がほとんど。みんなこぎれいなかっこうをしたステキな女性ばかりだった。一見そんなきれいなかっこうをされて、なにを悩むことがおあり?ってなかんじなのだが、みんな心の中は葛藤で満ちあふれているのだ。そしてこの苦悩をなんとかしたいと思っている。


ノンジュアリティ、つまり、二つではないの意、日本語にして「非二元」は、こりゃまたとてつもなく、むずかしー思想だ。
観察するものと、観察されるものは、二つには分かれていない、という意味だ。
はあ~~~~?????

ここでその説明をするのは無理だ。
だがこれはとても古くて新しい思想だ。
心の時代と言われてずいぶんたつ。心の正体やこの世の道理をいぶかしがって、苦しんで、探求し続けて、もうこれ以上探求しても同じことの繰り返しだ。。。と気がついて、そしてその先に行き着くところだ。少なくともやまんばはそう感じた。
そしてそれは、小さい頃知っていたことだった。
ものすごいいきおいで、子どもの頃感じていたものに引き戻される。
「ここだったのかー!」という驚きと直感。

子どもの頃にはすでに知っていたものに、別の考えをみにまとい、そしてまたその上に、みにまとい、みにまとい、みにまとい、やがて恐怖の塊になっていった大人の自分。苦しみは、その身にまとったもののおかげだった。そしてそれを一つづつはがしていく。はがしていくうちに、隙間があらわれはじめ、その隙間からのぞきはじめたものは、子どもの頃に知っていたものだった。

なんという壮大なゲームをしているのだろう。
最初からひとつだったものを二つにわけ、その分離の苦しみから逃れるために、ありとあらゆる探求をする。そのおかげで、文化が生まれ、宗教も生まれ、ありとあらゆるものが生まれて来たのだ。

これを「愛」というのだとしたら、もう、わしらのあたまで解釈できるものではない。

またそんな話を書いてみたいと思う。

ブログの内容がドンドン変わって来たね。
ま、いっかー。

2015年11月7日土曜日

スローガンはいらない



やまんばは、自然のすがたでできる野菜作りをやりたいとおもっている。

それを自然農や自然栽培や無肥料無農薬栽培とかいう。
そして石けんなし生活もしている。

どっちも、できるだけ自然な姿を生かしたいと持っているんだな。野菜と言う植物も、ニンゲンと言う大自然の体も。

でも、それが正しいと言う気はないんだ。

理屈で考えたら、シャンプーリンスを海に流すのはよくないとか、体に悪影響を及ぼすからよくないとかいうこともできる。でもそれを言ってやめさせることとは、ちと違う気がするんだな。

野菜作りも、農薬がダメだからとか、有機肥料は体によくないから、だから自然栽培なんだっていうのとも、ちとちがうんだな。

人はどうしても自分がやっていることが正しいって思いたがる。
農薬より有機肥料。有機肥料より無肥料。だからそれが正しい!と。
やまんばも初めのうちはそう思ってた。だけどそう思えば思うほど、生きづらくなってくるし、心はかたくなっていく。

でもそれって、せっかくの自然の神秘が消えちゃう気がするんだ。
自然って、ニンゲンがおしはかれるレベルにいない気がするんだな。全く違う世界を生きている。だからどうがんばったって、ニンゲンさまのおつむじゃわかりきれないとおもうんだ。

石けんやシャンプーだってそうだ。自然を破壊するからダメだ。リンスはおかあさんの子宮にたまるからダメだ。だからそれをやめる石けんなし生活は正しい!というのもちがうとおもうんだな。

これはスローガンをかかげてやるもんではないとおもう。運動にすることでもないとおもう。運動にすれば、必ずいざこざがおこる。派閥も出来る。最初のピュアな気持ちがゆがみはじめる。それは宗教だって同じじゃないか。

根源的なことだからこそ、とても見えずらく、繊細なんだ。概念的なうたい文句を必要としないところなんだと思うんだ。

ただ一人一人がじんわりと、それがだんだん好きになっていく。
それでいいとおもうんだ。

やまんばはそれが好きだからやっている。
ただそれだけなのだ。



2015年11月5日木曜日

自分で作ったりっぱな牢獄



毎日、いろんな出来事や発見があって、書ききれないよ~ん。

言葉って難しいよね。
こう書けば、こう解釈されるだろーなーとか、ああ書けば、どんなふうに解釈されるんだろーってなことぶつぶつ考えたら、
「。。。。」ってなっちゃって、なんも書けんくなった(笑)。


と言いつつ、書いてみよう〜。

自分のあたまの中に浮かぶ考えって、自分が考えてるっておもうよね。だから自分に悪いようには言うはずがない!この考えは私の味方だ!って、鵜呑みにするよね。
でもそれってほんとだろうか。


おもしろいのは、自分のあたまの中に浮かぶ言葉に注目すると、ほとんど同じ事柄しかいってないことに気がつき、それはほぼ100%が、ネガティブで、自分を小さくすることしか言わないってこと。

あれしたい、これしたいっていう言葉をめくると、その下には「こうしなきゃ、あとでイヤな思いをする」とか「ろくな事にならない」って言う、いわば、転ばぬ先の杖みたいなことばかりを考えてるんだな。

それは、ほんとうにじぶんが「やりたい!」っておもうこととは、ま反対のものだったんだ。
ほんとうにやりたい!っておもうことって、「どうして?」ってきくと、
「わかんない。ただ、むしょうにそれがやりたいんだよな~」
っていう、ちっとも説得力のないもんなんだ。w

そころが、転ばぬ先の杖は、色々説得力がある。
もし、それをしないと、まずいことがおこる。だからそれをするのだ!ってね。それって、ものすごーい説得力あるでしょ。
そのあたまの声を聞き、
「そうだ!そうしなければいけないのだ!」
と、その言葉の通りに突き進むんだな。
んで、ドンドン深みにはまっていくんだ。

そこに解決できるもんはないんだな。。。って、気がついた。いくら転ばぬ先の杖で、対処しても、せいぜい牢獄の壁の色を塗り替えるぐらいなんだ。
「あら。ピンク色になって、明るくなったわ」って。


やまんばは自分のあたまの中に沸いてくる言葉に注目したんだ。そしてそれを「ふ~ん」と受け流しはじめた。「ああ、またいってら~」って。

だんだん、だんだん、なにかが変化する。
これまでマジに受け止めて、深刻になっていた事柄が、どうでもよくなってくる。そしてぐちゃぐちゃに絡み合っていた糸が、ゆっくりとほどけはじめ、
「あ~~~、こんなことで。。。、
あ~~~~、だから、あんなふうに苦しんでいたんだ。。。」
って、理解がおこる。

まだまだ下の方にたまっているだろうなって言うものにも気がつく。
ありとあらゆる事柄、たとえば、絵の表現に関しても、日々の生活の習慣に関しても、それはそれは、まあ、りっぱなくらい自分の牢獄に閉じ込められていることに驚く。
りっぱに、頑丈に作りあげてきた牢獄。

そこから出る鍵は、すぐここにあったんだなあ~って、おもうんだ。

絵:じぇんじぇんかんけーないけど、歴史上の人物の暴言の数々をまとめた面白い本です。その表紙を制作〜。