きのう「ノンジュアリティの夜明け」と言う講演会に行ってきた。
やまんばがそれ系(?)の講演会に行くのは、はじめてである。
数々のあやしー本を読みあさって来たが、講演会とゆーものに、一度も行ったことがない。
ずいぶん昔、一度だけ古神道の教えの方のところに行って、「これぼったくりやな」と感じて以来、直接会いにいくよりも、ユーチューブや著書だけでじゅうぶんであるとおもっていたから。
久しぶりにのぞいてみたあるブログに書かれてあった講演会のおしらせ。
「今日からチケット販売です。今日から一週間のあいだでのふりこみなら半額です」とゆー、お得感に乗せられて、その場で申し込む。
きのうの講演会の話では、一晩で完売だったそうだ。前の方に座っていたやまんばが後ろを振り返ると、かなり広い会場の席はすべて埋まっていた。
この思想への感心がどれだけすごいかうかがえる。
4、50代の女性がほとんど。みんなこぎれいなかっこうをしたステキな女性ばかりだった。一見そんなきれいなかっこうをされて、なにを悩むことがおあり?ってなかんじなのだが、みんな心の中は葛藤で満ちあふれているのだ。そしてこの苦悩をなんとかしたいと思っている。
ノンジュアリティ、つまり、二つではないの意、日本語にして「非二元」は、こりゃまたとてつもなく、むずかしー思想だ。
観察するものと、観察されるものは、二つには分かれていない、という意味だ。
はあ~~~~?????
ここでその説明をするのは無理だ。
だがこれはとても古くて新しい思想だ。
心の時代と言われてずいぶんたつ。心の正体やこの世の道理をいぶかしがって、苦しんで、探求し続けて、もうこれ以上探求しても同じことの繰り返しだ。。。と気がついて、そしてその先に行き着くところだ。少なくともやまんばはそう感じた。
そしてそれは、小さい頃知っていたことだった。
ものすごいいきおいで、子どもの頃感じていたものに引き戻される。
「ここだったのかー!」という驚きと直感。
子どもの頃にはすでに知っていたものに、別の考えをみにまとい、そしてまたその上に、みにまとい、みにまとい、みにまとい、やがて恐怖の塊になっていった大人の自分。苦しみは、その身にまとったもののおかげだった。そしてそれを一つづつはがしていく。はがしていくうちに、隙間があらわれはじめ、その隙間からのぞきはじめたものは、子どもの頃に知っていたものだった。
なんという壮大なゲームをしているのだろう。
最初からひとつだったものを二つにわけ、その分離の苦しみから逃れるために、ありとあらゆる探求をする。そのおかげで、文化が生まれ、宗教も生まれ、ありとあらゆるものが生まれて来たのだ。
これを「愛」というのだとしたら、もう、わしらのあたまで解釈できるものではない。
またそんな話を書いてみたいと思う。
ブログの内容がドンドン変わって来たね。
ま、いっかー。