2016年2月27日土曜日

5月に個展やります。5月7日(土)〜13日(金)


ストープの上にかけたヤカンから、ゆらりと湯気が立つ。静かな音楽を聴きながら、ゆっくりと時間が過ぎる。

2月も末になって、太陽が少しずつ高くなり、我が家にやっと日が入りはじめた。レースのカーテン越しの柔らかい陽射しの中、制作をする。
今年もまた5月に自由が丘で個展を開く。その準備に毎日紙と向きあっている。

去年の5月、展覧会を開いたとき、久しぶりに紙を切って制作をした。じつはそれまで自分に封印していたこと、紙に色をつけること、そして和紙を使うこと。この二つのタブーをといて、11年ぶりに紙を手にしてみた時、なにかがほどけた気がしていた。

おもわぬご縁で、また展覧会を開くことになった。
紙に色を付け、和紙にも色をつけ、それをペンカッターで切ったり、ちぎったり。今までやらなかったことを後悔するほど、たのしい。なんだ。こんな効果があったのか。お!ここまで可能性があるんだ!などと、今、紙の可能性に夢中になっている。

こんなふうに絵を描く楽しさを味わっているのは、久しぶりだ。絵を描くことはこんなに楽しいことなのだ。。。。そう思う自分が笑えて来る。



イラストレーターという仕事は、依頼があって始まる。クライアントの意向に添って、絵を描くのが仕事だ。その依頼にうまくそえば、うれしく、そしてそれが自分が気に入ったものであれば、よろこびもひとしお。
だが時には、なかなかクライアントの意向にそえなくて、自分の無力感にさいなまれ、あせり、くるしみ、あえいで、制作することもある。

絵は、こうやれば必ずうまくいく、などの方法論などない。その手探りのなかで、30年間続けて来た。
いつのまにか絵を描くことは、私にとって楽しいものではなくなっていた。。。



そんな中、去年の5月の個展に向けての紙で制作は、なにかのスイッチが入った。
そしてその時を境に、イラストの仕事が途絶えたのだ。。。

一番ショックだったのは、私が駆け出しのころからお世話になってたクライアントさんからの突然の仕事の中止だった。

自分に何が起ったのだろう。。。なにがいけなかったのだろう。。。悩んだ。だけど悩んでいる場合ではない、生活費をかせねば。。!




今はバイトをしながら生計を立てている。といってもイラストの報酬から比べればかなり少ない。アメリカの出版社からの仕事は時々あるので、それでなんとかしのいでいるのが現状だ。

しかしこのバイトからあらゆることを学んでいる。
人の心理、社会の構造、今の社会で生きるとはどういう事か、人々が毎日どういうパターンで生きているのか。。。人々の苦しみ、葛藤、逃げられないもどかしさ。。。
そういう視点は今まで持てなかった。
今まで持てなかった視点をもらうことで、あらたな側面が見えて来る。

そして、そんな中だからなのか、シンプルに、絵を描くことのよろこびを味わっている。
なににも左右されず、誰の目も気にすることなく、ただ描けるよろこび。畑で草を見、道ばたで小さな花を見つけ、それに歓喜し、それをただ絵にする。
本当に忘れていたな、そうおもう。



今度の個展は、ちょっと今までと違う趣向をこらしてみようと思っている。
そしてこのブログにも書いているような、つくしが思っていること、感じていることを展示して行きます。私の中の世界を丸ごと見せちゃいます。
ついでにトークライブもやっちゃいます(笑)!

おいおいまたお知らせいたします。
またブログ、のぞいてみてください。


2016年2月25日木曜日

『私がコントロールしておる!』


私がコーヒーを飲むことを選んだ。

そう。私は自分がする行為を、自分でコントロールできる。そう信じている。

しかし、どーしてコーヒーを飲もうとしたの?

んーーー、なんとなく。。。

何となくじゃ、選んだっていうかんじじゃないじゃん。

そやそや。のどかいわいてたからや!

のどかわいてんだったら、水でもいーんじゃね?

いやいや、水じゃ味気ないし。

なんで水じゃ味気ないの?

やっぱ、午後の水、じゃなくて、午後はコーヒーでしょ。

午後の紅茶ってゆー選択もあるよ。

んーー。そやけど、やっぱし、午後のコーヒー。

なんで?

コーヒー好きやから。

なんでコーヒー好きなん?

えーー、好きに理由もくそもないやんけ!

じゃあ、理由もなく好きなんだ。

そ、そうさあーー。

それって、ホントに選択なの?

んーーー。。。。

理由もなく浮かぶって、選択してるの?

浮かんで来るから、それをしているだけじゃね?

それって、コントロールって言えるもんなのか?

ほんとは、コントロールされてるんじゃね?


2016年2月13日土曜日

欠けているという付録


名誉欲ってあるやん。
私の中にもいっぱいある。有名になりたい。みんなにチヤホヤされたい。憧れの的になりたい。
だけど、私は有名でもなければ、チヤホヤもされないし、ましてや憧れの対象でもない。
だからどこかでいつも「こんなんじゃダメだ。。もっと頑張らなくては。。ああ、ぼんやりしている場合ではない。。何か対策を練らねば。。。」と、ほとんど無意識に、ほとんど自動的に、考えるでもなく、考えている(ややこしいやっちゃ)。

なんでこんなに苦しいんだ?っておもうに、そもそもその考えがあるから苦しいのだ。
そーだ。その考えがあるから苦しいんだから、そう考えなきゃいいんだ!と、思いつき、その考えを捨てようとする。

今度はその考えが、くっつき虫のよーにくっついて、とっ、とっ、とれなーーーい!
ひっぺがそーとしても、はがれない。たたき落とそーとしても落ちない。そーやってぼろぞうきんのように悪戦苦闘して、はたと気がつく。
とろうとするから取れないんや(笑)。


コタツに入って、そもそもなんでそーゆー考えにいたったのかをじっくり考える。

すると、自分はブスでのろまでなんにも才能がなくて。。。と言う考えが浮かぶ。
なんでそんな考えにいたったかというと、すぐに母親のことが浮かぶ。
母は美人で才能があふれている、と言う神話だ。

母の美しさと自分を見比べて、私はみにくい、と判断した。
母が美しく料理を作る姿を見て、私には才能がない、と判断した。

人はなにかと比べるという事をする。
人と比べて優越感にひたり、人と比べて落ち込む。

ご多分に漏れず、私の母という一番身近な対象物と自分を比べて、自分にレッテルをはった。自分は才能がない。自分はみにくいというレッテルだ。

そうして、そこから長い長い戦いが始まったのだ。
私にはなにかが欠けているから、有名になって必要とされなければいけないのだ!チヤホヤしてもらわなければいけないのだ!憧れられなければいけないのだ!と、欠けたものを補うために、自動的に、無意識に、なにかを「やろうとする」のだ。それが冒頭の話につながっている。

欠けている、という考え。
これ、そもそも母が美しかったからではない。母もまた、その母と比べて自分が何かに欠けているというレッテルの中で苦しんでいた。

思考そのものに「欠けている」という付録がくっついているのだ!
やっかいな付録と考えるのもいいが、その欠けている精神(?)のおかげで、このよーに豊かな(ややこしい?)文明が、世界中でわらわら生まれたのだ。
 

さて、醜いと美しい。才能があると才能がない。有名と無名。
どれもお互いがコインの裏と表になってセットになっている。
美しくあろうとすれば、醜さがすぐ裏にひそんでいる。
才能がなければいけないと思うと、無能がひそんでいる。
有名になれば、捨てられることがひそんでいる。

そういうコインを、私はにぎりしめていたんだ。
さて、どうする?
捨てる?
捨てようとすればするほど、捨てられないもんだ。
さっきの話のひっつき虫のように。