2025年6月20日金曜日

庭にホタル

きのう焼きあがった器と和紙の作品

 

蒸し暑い夜、窓を開けるとホタルが飛んでいた。

闇の中をフワンフワンと浮きながら、ホワンホワンと光を放つ。


初めは川の上を飛んでいたが、そのうち庭に上がってきた。

一匹がうちの庭を舞う。そのうちもう一匹、そしてさらに。


三匹のホタルが私の眼の前で踊ってくれた。

ここに来て20年経つが、そんな光景は初めて見た。


今年は多いのかと思いきや、その3、4匹ぐらいしかいない。

その彼らがわざわざうちの庭に集まってくれたのだ。

彼らの光は喜びを誘う。いつまでも見ていた。



湯のみ




「窯から出した気に入らない器はどんどん割りなさい。

そうすれば残った器に価値が出る」

陶芸教室の窯出しの日、88歳の先生は私に言った。


まるで陶芸家に言うみたいだ。

別に陶芸家になりたいわけじゃない。

ただ面白いから習っているだけだ。


だけどさっき割ってみた。なんかスッとした。

絵はかさばらないけど、陶器は存在感がある。

駄作がこの空間にあるのはなんか嫌だ。

ただゴミとして捨てるんじゃなくて、割って消えていくのっていいな。


粘土は焼かないといくらでも再生できる。

しかし1200度の高温で焼くと粘土は石になる。

それは割ることによって、人の痕跡を消していき、

ゆっくりと自然に帰っていくのだろう。



鳥レバーと日本酒をできた器に



和紙の作品と陶芸。どんな関わりがあるんだろうか。

でもきっと関連があるはずだと思っていた。


先日絵を制作している時、その恩恵のひとつに気がついた。

指先の感覚が鋭くなっていたのだ。


老眼であまり見えなくなっていたカッターの先や筆の先。

その先の感覚が指を伝ってこっちに感じる。

いや、指が筆先に届いていたというか。


手回し轆轤を使って作っている時、その指先のわずかな感覚に集中する。

本当にわずかな感覚。


「粘土は記憶する」

「粘土は叩くんじゃない」

「回転させていると、中に入っている土の塊は勝手に上がってくる」


先生の話を聞いていると、粘土を生き物のように言う。

そう言われるとただの土の塊じゃなくなってくる。


回転という対話をしながら、粘土に形を作ってもらう感じ。

無言の会話をしながら作っていく間に、新しい感覚も芽生えてきたんだろうか。



目で見てとらえるものだと思っていたものが、別の目がついていることを知る。

目の見えない人が街を歩くとき、杖の先に目がついているみたいな感覚に近いのだろうか。

杖はその人の身体の一部だ。

指先も道具を通してその目になるのかもしれない。



土、紙、そして釉薬という草木灰。


大地から現れてくるものを使って、人はものを作る。



コーヒーカップ








和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです



2025年6月15日日曜日

いいじゃん、いいじゃん



このところ、養蜂家のお手伝いをしている内田宇宙人と先日話をした。


その時「世の中の人には自分を否定してしまう人がいる」ことを知った宇宙人だった。


そのことを彼のブログに書いてくれている。

彼自身は自分を否定したことがないようなので(笑)、

自分を否定するとどういうことになるかを説明してくれていた。


『だって、自分が自分を否定したら、全てが敵になってしまいません?』


この言葉が深く心にしみた。


そうだ。。。

自分以外誰が味方になってくれる?

自分が自分を敵にしているのだよ。


否定的な考えが浮かんだら、

すぐさまそうならないように行動するか、

否定されるようなことをしてしまった自分を責めるか、

もしくは否定した考えが現れたことに対して自分を責める。

という延々と自分を責め続け恐れの中で生きる自分を見た。


そんな自分を責めそうになるが、ふと立ち止まる。


自分さえも敵にしてしまう恐れの中でずっと生きてきた私はある意味すごくないか?

嵐のように自分を責めまくる声を聞きながらも、ここまで生きて来れてたんだ。


ここでやっと自分を肯定することができた。


内側の声にムチ打たれながらも64年も生きてこれた自分。

ひょっとしたら強いんじゃね?





『自分だけでも自分の味方になれたら、それだけで世界は変わる気がする』


『自画自賛ですが良いこと書いてあるなって思いました。笑』


彼は周りの人がこの話はくだらないと言っても平気。

自分がやったこと、やろうとしたことに対して認めてあげてほしい。

正しいか間違っているかではなく、

どんな自分であっても自分だけは受け入れてあげる感じですと。


『自分の存在を受け入れるステージはすっごく楽ですよ!笑

だって、そこには楽しいしかないからです。

何かを始めれば「お~、良いんじゃない?」って思うし、

何かを止めれば「お~、それも良いよね!」って考えるし、

再び始めれば「良いじゃん良いじゃん!」って応援したくなるし、

何をやっても何を止めても、そこにあるのは全ての肯定と承認です。』


彼は言葉だけの人ではない。

彼を近くで見ていると、本当に彼の行動、考え方自体がそれで動いている。

その言葉そのままに生きているのだ。

なんだか本当にいつも楽しそう。

で、頼まれたら徹底的にやる。


昨日は顔を三ヶ所ハチに刺されて腫れ上がっているようだが。






友だちと彼のブログをシェアしながら話す。


「仕事なくってもいいじゃん!」

「旦那が仕事やめるって。いいじゃん、いいじゃん!」

「膝が痛い。いいじゃん、いいじゃん!」


だんだんおかしくなって、笑いころげる。

深刻さが抜けてくる。

何をやってもやらなくても、全肯定。

いいじゃん、いいじゃん、それ、めっちゃいいじゃーん!


このムードが大事なんだよなぁ。

それはきっと周りにも、

そしてそれを思う自分の心の中にも広がっていくんだな。



内田くんは、私たちが忘れていた感覚を思い出させてくれる、

地球という星に派遣されてきた存在なのだな。








和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです


 

2025年6月12日木曜日

人生は決まっている


 

昔「アガスティアの葉」というものが世間を賑わせたことがあった。


約5000年前にアガスティアさんという人が書いた予言の書だ。

椰子の葉っぱに一人一人の人生が書かれているという。


昨日そのアガスティアの葉に書かれた自分の人生を見に行くという人物の動画をなんとなく見た。

複雑な質問が何度も交わされ、約20分後その人自身のための葉っぱが出てきた。本人の名前、生年月日、両親の名前、奥さんの名前、子供の数まで当たっている。まさにドンピシャ。

彼の人生、これからの人生、そして彼の前世の物語が語られる。


そういうのを見て、やっぱ人生って決まってるんかもな~~と思う。

私はアガスティアの葉を求めてインドにまで行かない。

だから私の名前などそこにないのだ。

それさえも決まっている。


だが彼の前世の物語、今世の物語を聞いていると、

人ごとだからか、面白くはない。

なんかみんな似たり寄ったりだなと思う。


何歳までに何があって、何歳から何歳までこういうことが起きて、

こうしてこうしてこうなった。


そんな話、どこにでもある。

何一つ特別じゃない。

自分の話じゃないからワクワクしないんかもしれない。

自分のこととなったらワクワクするのかもしれない。


ちょうど香港さんが今日のブログで自身の「生命之書」というものをもらった話を書いていた。

ほとんど当たっているという。やっぱシナリオってあるんだ。

昨日の今日だからシンクロしててびっくりした。

あ、これもシナリオか(笑)。





人生物語って、その人自身になりきるとハラハラドキドキなんだけど、

側から見ると大した違いはない。生まれては死ぬを繰り返すだけだもの。


自分と他人がいて、戦ったり憎んだり、

時々和解して、幸せな気分になって、

そして死んでいくことに変わりはない。


この世自体が牢獄だ。

ジッドウ・クリシュナムルティはこんな風に言っていた。

「たとえ楽しいことがあったとしても、

その内容たるやせいぜい牢獄の壁をピンク色に塗るようなものだ。

所詮牢獄は牢獄のままだ」と。


私は牢獄の壁をピンクに塗るだけの人生にしたくはない。

この牢獄から出たいのだ。

私はなんとなくたくさんの人生を繰り返してきたように思う。

自称2500回輪廻の私だ(笑)。

そうはいっても、この先の人生も決まっているのだろう。





非二元の言葉「起こることが起こっている」

仏教の言葉「縁起」


起こることが起こっているのは、

人、空気、思考、環境、風さえも、縁起によって繋がっていて、

バタフライエフェクトのように必然で物事が起こることを指しているのだろう。

そういう意味ではもう人生は決まっている。


だがそれは結果だ。

繰り返される結果を達観して見ているだけになる。


原因を見る。


なぜそう思ったのか。

なせそんな感情になったのか。

なぜそんな反応をしたのか。

そこには、そうなる原因がある。



非二元も仏教も現象世界に対しての達観を呼び起こす。

煩悩を取れ、考えるな。



だが起こっているのではなく、起こしているのだ。

現象は現れるのではなく、現れさせているのは私たちだ。

それは私たちがそれを「見たい」と思ったからなのだ。


見るから(原因)現れる(結果)。


決して受動ではない。


いつもはそれに対して同じ反応する自分を、

そう反応しない選択もできる。


そこから何かがかすかに変化する。


書かれていたシナリオが、少しづつ消えていくのかもしれない。

アガスティアの葉っぱに書かれた古代タミル文字が、

人知れず消えていくのかも知れない。




私たちはこの残酷な世界に、泣く泣く生まれ落とされた哀れな赤子ではない。


まずはその現象を見る必要はある。

そしてそれは「私が見たいと思って作った」ものなのだという自覚。


敵も貧困も私が見たいと思ったものなのだ。

アガスティアの葉の話まで私が作ったのだ。


心の力はものすごい。

すべてを作り出す。

だが本物ではない。

偽物の世界を作り出した。

これがどんなに強い心の力なのか。

だから私たちは哀れな赤子ではないのだ。


ちょうど今日見たワークブックレッスン31にあった。


「私は自分が見ている世界の被害者ではない」



自我に導かれるままに流されていくと、書かれたシナリオ通りだろう。

いたいけな、か弱い被害者として生きる。


しかし一旦立ち止まって、

「私は以前と同じ反応をしない。私はこの被害者ではない」

と方向を変える選択が、私たちにはある。


能動的に、心の原因に帰っていく。

人生のシナリオを使って、本当の自分を思い出していくのだ。
















和紙で制作した作品のオンラインショップができました

ペーパーバックの表紙を制作した原画のオンラインショップです