2023年5月23日火曜日

恐れがないことが怖い!





夕暮れに麦汁(缶ビール)を飲みながらボーッとする。

雨に濡れた木々の緑が美しい。

なんか心がザワザワする。


え?なんかあった?

ない。

でもなんかザワザワする。。。


じーっと心の中を探す。

ザワザワするってことはなんか怖いこととか、問題があるってことじゃないの?

思い出せ。つくし!


必死で心の中を探す。仕事のことを考える。体のことを考える。

。。。ない。。。。


ないの?

うん。ない。。。




そこに恐れはなかった。

それなのに心は落ち着かない。


ふと、変な考えが浮かんだ。

心はそこに問題がないと困るんじゃないか?

ひょっとしたら怖いことがないと、怖いんじゃないか?(笑)


怖いことがないと、怖い。

なんじゃそりゃ、と。



私は、恐れがないことに慣れていないんだ。

それはいつも恐れがそこにあったからだ。

恐れ(問題)を見つけては、それに取り組む、ということをずっとやり続けていたから。


だからそこに何も問題がないと困るのだ。

これって、テストが作れない先生みたいじゃないか!(どんな例え?)


問題がないことが問題だ!

恐れがないことが怖い!


なんて私たちは恐れの中にいることが日常化しているのだー!


恐れというオブラートが剥がれたように思えた。

嬉しくなった。

平安がそこにあった。




朝、整骨院に向かう途中、

「今、ここに恐れはある?」

と心に聞いてみる。


「んー。。。ない」


恐れというオブラートが、

雨で濡れたTシャツみたいに、べとっと常に張り付いている。


それに引っ張られて、無条件に恐れている自分。

そしてその問題や恐れをどこからか見つけ出してきて、

やっぱこれが怖いんだー!と発見するたびに、


「でかした。つくし。褒美を使わす」

と、さらに恐れるようにご褒美をくれる自我は、

クックックとほくそ笑んでいたのだろう。


駄菓子菓子!

今まで無意味に恐れていた自分に、今度は私が微笑む番だぜ。



雨に濡れた道端の草が美しく見える。





2023年5月21日日曜日

静けさが分岐点


 

嫌になったらやめる。

迷いだしたらやめる。



理屈では「いや、時間がないし。今やめてどーする。今でしょ!」と、心は騒ぐ。


その時、なんとも言えないやるせな~い気分になる。


自分が惨めになって、ワタワタして、泣きが入って、

びえ~~~っ!って、言いながら走る。(心の中が)



そんな中で無理やり無理くりやってきた。

だからこそ人生は苦しみの連続だし、

苦あれば楽ありの証だし、

アメとムチのバランスだとか言って、知ったかぶりをしてきた大人な私。


今になって思う。

そんなもん、糞食らえだ。



迷ったらほっとく。

嫌になったら一旦やめる。


その時間が大事なのだった。

惨めの中に巻き込まれない時間が。



この世界の目的は、惨めになること(笑)。


自分と他人を比べて惨めになり、

あるいは自分と他人を比べてちょっと優越感に浸る。


でも優越感なんてほんの一瞬のことだけで、

残りは常に劣等感と欠乏感の中で、

どうにかして満たされようと、わちゃわちゃさまよい歩く日々だ。


その堂々巡りに気がつく。





静けさの中に立つ時、この世界を遠くにする。


頭の中のぐるぐるは、この世界の具象の中に埋没している。

形の中で形をどうにかしようとし続けている。


その時の心は惨めでいっぱい。

びえ~~~と泣きながら、必死で何かやることを探し続けている。

何かやったら、この悲惨さから抜け出せると信じて疑わない。


ああすべきだこうすべきだ、早くしろ、今やらないでどーするんだ。

このままだと路頭に迷うぞ!という大きな声で頭の中は埋まっている。

声は私を混乱させるだけで、

まったく無意味な言葉をしゃべり続けているだけだった。


それに巻き込まれている自分を見る。

状況はいろんな形を見せてくるが、

いつも全く同じ感情、同じ心持ちになっている自分。


「これ」を味わい続けるために、

あらゆる状況を作り出して、その世界に埋没しようとしているだけなのだ。


それが罪悪感。

これが惨めさ。



その声を遠くに聴く。


静けさがその分岐点。


だからやめる。

一旦引く。


そして待つ。





苦しみから無理やりやる行為は、

さらなる迷いを生み出す。


喜びから自ずと湧き上がる行為は、

さらなる喜びを生み出す。




絵:ミステリー表紙イラスト




2023年5月18日木曜日

精神的奴隷制から自分を解放しよう

 



「精神的奴隷制から自分を解放しよう

我々の心を解放できるのは、我々だけだ」

「Redemption Song」で、ボブマーリーは歌う。



「私の咎めだけが、私を傷つける」

と、コースはいう。


自分を地獄に陥れるのは、自分だけだし、

自分を解放するのも、自分だけだと。



私は自分がやってきた行為に対してずっと恐れを抱いてきた。

「やってしまった!」という巨大な後悔と巨大な罪悪感とともに。


その後悔がゆえに、どうにか行為を変えて、

この世界で生きていていいんだと言われようと必死になってきた。


でも違ってたんだ。

行為は問題じゃなかった。


行為で現れてきたものは心の結果だった。

すでに終わった結果を苦しみの原因にして、

その行為(原因と思ってる)をどうにか変えることで、

生きていていいと言われようとしてきたんだ。





行為を悔やむことは、自分への攻撃だった。

自分を攻撃して(それを罪として)、

その行為を違うものに変えて(罰を与えて)、

罪を免れようとしてきたんだ。


そこには明らかに罪悪感がある。


罪悪感を持ったまま、冷静でいられはしない。

その心で正しい判断はできない。

決して静かな心にはなれない。

そして愛を与えることなどできない。


この世界は罪悪感の堂々巡りだ。

罪悪感を持ったもの同士が、

互いの罪悪感を相手になすりつけ合う地獄だ。

それは必ず行為を伴う。

行為することで罪滅ぼしをしようとする。


でも罪があると思い続けている以上、その行為は終わらない。

エンドレスに罪滅ぼしは続く。



だがほんの一瞬、自分自身への攻撃をやめた時、

癒しが起こる。


それには時間がかからない。

ほんの一瞬の出来事だ。


その時、判断が消える。

静かになる。

罪悪感が消える。


行為することの無意味さを知る。

ああすべきこうすべきものが消える。

兄弟への攻撃が消える。

兄弟の罪が見えなくなる。

違いが消える。


癒しが起こり、

愛が帰ってくる。


私たちは、兄弟を攻撃したりされたりしているように見えているが、

ひたすら自分を攻撃しているだけだ。


ボブマーリーのいう「精神的奴隷制」とは

自分が自分を攻撃しているという意味だ。


それを解放するのはただ自分だけだと。


解放は、なんの行為も必要としない。




絵:「ぽんぽこたぬき」




2023年5月11日木曜日

一緒に癒されますように

 


イラストレーターにとって、直しが来るのはつらい。


イラレで作った作品ならデジタル上でチャチャっと直せるけど、

水彩というアナログをデジタル上で直していくのは苦手。

フォトショは幼稚園児並みの技量しかないのに~。


ただでさえひえ~って思っているのに、

二度目の直しがきた時、「?」と思った。


直しはさらに良くなるためのものであるのに、

もう何が何だかわからない状態に直せという。

なんだこれは。


言葉が音でしかないのかもと思い始めてきたあたりから、

今度は、目に見えて現れてくるものさえも意味がないのかも。。。?と。

この直しはその延長線上にある。


作品にはいい悪いがあると思っているけれど、それさえも意味がない。

いい作品にすることではないのだ。

(マジで。。。?)


ミッションは、この出来事を通して、

自分がどんな信念を持っているか、

それが手放せるかを問われている。





直しをもらう時に、思う思いはなんだろう。


人に迷惑をかけている。

直しがくるということは、いい作品ではないのだ。

私は無能だと言われている。

もうこれで仕事は来ないかもしれない。

生きてけない。路頭に迷う。

(最後はいつもここにくるw)


こういう信念があるから私は苦しい。

もしこれらの信念がなかったら、私は何も苦しまないだろう。


自分は無能だという信念。

自分は人に迷惑をかける、ここにいる価値のない人間という信念。

ずっとこの信念で自分をはかってきたから、苦しんできたのだ。

みんな罪悪感だ。


この信念を何十年も掴んで離さなかった自分を赦す。

そしてこの信念は、間違った信念。

なぜかというと、神の子が、

神の子ではないと信じ込むために作られた信念だからだ。


この信念を自分で消すことはできない。

聖霊に手渡して、信念の訂正をお願いした。


そしてこの私のように、

直しで苦しんでいるすべての兄弟たちも癒されますように、と祈った。


そうなんだよ。いっぱいいると思う。


イラストレーターなりたての若い人たち、

「こうじゃないでしょ」と怒られながらヒーヒー頑張っている人たち。

またはベテランが今の絵のノリについていけなくて嘆いている人たち。


みんな苦しんでいる。

そんな人たちも私のように同じような信念を掴んで苦しんでいる。

そんな人たちも一緒に癒されますように。




心が、少しづつほぐれていく。

だんだんと軽くなっていく。


自分という肉体が持つ、内と外という隔絶された境界線が曖昧になっていく。

自分のアウトラインがどんどん溶け出して広がっていく。

私という形が消え始める。心が癒されていく、、、、。


一緒に癒されますようにと祈ることが、何を起こしているのか。


最近、この祈りが何かを動かしているのを感じる。

私は何もしていないのに、何かが動いている。


その変化は心の変化でわかる。

そして現象のかすかな変化でもわかる。


自分が一人孤立した存在ではなく、

兄弟と一つであることを感じ始める。




心が軽くなってきたと同時に、

楽しくなってくる。

これは私の新たな挑戦だ。

ゆっくりゆっくりちょっとづつやるぞ。


そこには後ろめたさがない。

罪悪感を引きずりながら、焦って直しをしていた私とは違う。

私にとって難解なフォトショへのチャレンジだ。



そしてできてしまった。

あれ?


しかしできない直しもあった。

それは私の限界。でもそのことさえも罪悪感がない。

これはできたけど、これは技術上できませんとはっきり伝えた。

昔だったら、できないとは言えなかった私だった。


また三度目の直しがくるかもしれない。

だけどその時になったら考える。




一つ一つの出来事が、

私の信念を手放す機会としてやってくるのをはっきりと自覚する。


誰かのせいで自分が苦しむわけじゃない。

自分(本当の自己、聖霊)が、

その都度私の変化に応じて、

自分(自我まみれの私)に教えてくれているのだ。


一歩一歩、ていねいに歩いて行こう。

今を信じて。




絵:ミステリー表紙イラスト