兄弟から理不尽に怒られる。
さすがに腹が立った。
このところ、そういうことばかりだ。
これも私が作り上げた兄弟への役柄。。。と思うけれど、
そんな理屈吹っ飛んでしまう。
耐えられない。もう終わりだ。。。
そんな日のレッスン213。
「赦しなさい。そうすれば、あなたはこれを違った見方で見るだろう」
他にやりようがない。
苦しくて必死で祈った。
兄弟は何もやっていない。無辜だ。無実だ。無罪だ。
何一つ起こっていないのだ。私もその人も体ではない。
だから無実だ、だから無辜だ、だから無罪だ、、、
だから赦します。。。
聖霊、どうか別の見方を教えてください。。。
それからしばらくして、
ある友達の話を聞いた。
彼女は兄弟とのやりとりで幸せを味わっていた。
私は思い出した。彼女は先日その兄弟のことを辛辣に言っていたではないか。
これはどういうことだ?
その時、言葉はただの音なのではないか?と浮かんだ。
言葉に意味があると思っているから、その意味に一喜一憂する。
あいつがああ言った、こう言ったと。
でもそれが単なる口から発せられている意味のない音だとしたら、、、?
こんな変な思いが出てきたが、
例えば、耳の聞こえない人に罵詈雑言を浴びせても、
何を言っているのかその人にはわからない。
ただその人は、目の前の人が何かを訴えていることだけはわかる。
そしてその人は悲しくて私をどうか救って欲しいと
自分に訴えているのではないかと取るのではないか。
そしてそれは事実なのではないだろうか。
どんな言葉を発しようと、それは愛を語るか、愛を求めて叫んでいるかのどちらかなのだ。
私は兄弟の言葉の意味を捉えていた。
この言葉はいい意味、この言葉は悪い意味。。。
だからこの言葉を発するということは、私を傷つけることになる、と。
そしてその言葉に傷ついていた。だから腹が立ち抗議した。
でも私はその兄弟の言葉の意味ばかりに囚われていたのではないか。
私を傷つけようとしていたわけではなかった。ただその人は悲しかったのだ。
悲しくて苦しくて、私にわかって欲しい!と、救いを求めていたんだ。。。。
そこまで気付いた時、私は兄弟をやっと赦せた。
聖霊はいつも答えてくれる。
どんな方法で私に気づかせてくれるのか、毎回驚かされる。
この世界の人々は、愛を求めている。
愛されるためにあらゆることをする。
愛されるためにはどんなこともする。
子供が母親にこっちを向いてもらうために、わざと悪いことさえもする。
みんな私をわかってくれ、愛してくれ、ここにていいと言ってくれ!と叫んでいる。
そのためにはどんな努力もどんな苦労も惜しまない。
しかしそこにある大前提は、
「私は愛されていない」や「愛される資格などない」
という自我からのアイディアだ。
そうではなかった。
聖霊はその苦しみを使って、愛を思い出す材料にする。
私たちは、本当は愛されているということを知るためにこの世界に来た。
そしてそれこそがここからの脱出手段なのだ。
絵:「COOPけんぽ」表紙イラスト
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