朝、目が覚めたら大雨だった。
「ああ、雨だ。。」
今日から友達が入院する。その初日が雨。。。
心が憂鬱になる。
あ、違う。こうじゃない。
自分が落ち込みそうになる思いを聖霊に渡す。
これを違った目で見せてくださいと祈る。
5分ほどした時、これは『罪の思い』で見ているのではないかと思った。
大雨は幸先が悪い。縁起でもない。晴れていてくれないと困る。
と、雨を悪いものにしている。
その時、足首の痛みが走った。
あ、痛い。
痛みを罪の思いで見ている自分に気づく。
雨、悪いこと。
痛み、悪いこと。
私はあらゆることを悪いこととしてみているのではないか。
私はあらゆることを罪の思いでみているのではないか。
そうだ。。。
それをそう見る必要はあるのか?
これらの出来事を罪としてみて、悪いこととして判断して、私は生き続けたいのか?
これは罪だ。あれは悪だ。ああそうだ。ああなんと辛いことだ。
それをどうにかしなければいけないと走り回る人生。
それとも私はこれを愛の思いで見て、すべては大丈夫だと、
平安とともに生きていきたいか?
心は繋がっているのだ。
私が心配すればそれは彼女の心に影響する。
とすれば、答えはすでにでている!
どう見るかだ。
見ることで、すべての方向が決まっていく。
痛みを、罪の思いで見るなら、
痛みは赦せないだろう。
しかし痛みを、罪の思いで見ないと決めるなら、
痛みを自然と赦してしまう。
だって、痛みは罪ではないのだから。
だから大雨も罪ではない。
友よ。
愛の雨で復活するのだ。
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