2023年4月29日土曜日

自分が作っていた!

 


私の近くに極悪人がいる。

そいつは残酷でアホで私を常に罪人だと言い放つ。

そしていつも私に不幸をもたらすのだ。

こいつをどうしてくれようか。。。


いつも心は私がどれだけ誠実で正しいか。

どれだけあいつは非道で間違っているか。

私の人生に苦痛をもたらすのは、誰あろうお前だ。


そう言い続けていたある日。

その極悪非道なやつの別の面を見た。


それは美しく優しい、

とてつもなく大きな慈悲を持った存在だった。

私はその存在の横で自分の罪が消えていくようだった。


そしてまた極悪人が戻ってくる。

私をこれでもかとなじる。


罪深い!と言い放たれ、

その同じ人間に、言葉ではないけれど、罪などないのだと思い出さされる。


この行ったり来たりに

「なんなんだこれは!?」と。




私たちは、身近な人たちに役柄を与えている。


悪を成敗するお代官様、極悪人、

たいして影響力のない平民、外から文句を言う外野。。


私と言う主人公、、、

ある時はマッチ売りの少女、

ある時は眠れる森の美女、

ある時は高い塔の上に幽閉されたラプンツェル、、、

私を私たらしめるために、役柄を周りに与えている。


ちょっと悲しい、じつは密かにすごい秘密がある美女。

その不幸な美女のまわりに、

悪を働く毒親、、いや魔女や、

美女をたぶらかす蛇などを配置する。


そしてある時は嘆き、

ある時は勇敢にそれと戦って

人生のアップダウンを繰り返す。


とは言っても、ほとんど不幸、時々幸せ程度。


あいつさえいなかったら。。。

あの野郎、そのうちどうにかしてやるぜ。。。

美女は悪態をつく。


これが私たちが日頃繰り返している人生劇場だ。


私たちはこの人生劇場にいきなり放り込まれたかわいそうな美男美女。。。


ではなかったのだ。


この劇場を作ったのは、誰あろう、私だったのだ。。。!





この不幸は私が演出したもの。私はディレクターだった。


ここに来たもともとの理由は、私たちは自分を罪びとだと信じたからだ。

罪人である私たちは、当然罰を受けねばならない。

だから人生のほとんどが不幸。


それこそが罰を欲して、極悪人を配置し、突然不幸がやってきて、

葛藤を繰り広げる演出をし続けていた理由だった。





自分がやっていることに気づき、

私はその極悪人の役柄から、その人を解放した。

悪を成敗するお代官様の役も解放した。

全ての人々に与えた役柄を解放した。


そして私は不幸なすごい秘密を持った美女でもなくなった。


そうしたらどうなるのか。

私は無になるのか。


いいえ。

そこには喜びがあった。


自我の演出は、罪があると、どちらかに渡せば罪は消えるという。


しかし真実は、罪があるといえば、どちらにも罪がある。

そして罪がないなら、どちらにも罪はない。


極悪非道の役柄が消えた時、

私の極悪非道も消える。




そこに自由という喜びがある。




絵/MF新書表紙イラスト




2023年4月20日木曜日

なんだこれは


 

立て続けに友達三人が生命の危ういところにいる。


人間の肉体というもの、心というものが

一体なんなのか、必死で考えさせられる。


危機に面しないと、人は学ばない。

嫌だけれど、そんな時が一番考える。





「治療が始まる前に会っときたいなー」

などと言われると、


「こいつ、これが最後って思ってるんちゃうか?」

って思ってしまい、

「それ、あかんやつやーん!」

と心が叫ぶ。


そんな時、人は気の利いた言葉でも発すればいいのだろうが、

そんな言葉はちっとも思い浮かばなかった(笑)。




しかしその反面、

私は彼らの本当の姿を見ることになった。


肉体は終わりに向かって進んでいるかのように見えるが、

本当の彼らはそんなものとは全く関係がなかった。



体というこの厄介なものは、

生まれては死にを繰り返す。


私たちはその目の前に知覚する肉体をその人だと信じている。


でも私は見た。彼女の大いなる愛を。

それこそが彼女の本質。


それは全く肉体とは関係がなかった。

死のうが生きようがそんなもの、全く関係がない。


彼女は永遠に生きている。


その爆発するような力に比べたら、肉体なんて米粒以下。

指で弾き飛ばせるほどのちっこいものだったのだ。




彼女は過去、ずっと愛を求めてきた。

だけど裏切りの連続だった。


求めてきたのは何だったのか。

そしてなぜ求めてきたのか。


それはそれがそこにないと信じたからだ。

ないと思ったから、それはなかった。

それはどこになかったのか。

自分にないとおもったから。

だからそれを外に探しに行ったのだ。

でも42年間、見つけられなかった。


だがあった。


どこに?


彼女自身に!


彼女はそれを最初っから持っていた!


持っていたのに気がつかなかった、愛するということ。


愛するということは、愛されるということを必要としない。


愛している。それだけで全てが完結する。

それだけで満たされるのだ。


自分の愛に気がつく。

どれだけ兄弟を愛しているのか。

どれだけ無条件に愛しているのか。


どうしてくれたから愛するわけでも、

どうされたから愛されているという証明にするわけでもない。

そんなものは自我のトリックだ。

自我は常に本当のことを煙に巻いてわからなくさせる。


だが彼女の行動を見ればわかる。

全く無条件に愛し続けていたのだ。

どんな仕打ちをされても。


確かに、意識されている心は大きな怒りを持っていただろう。

しかしその下には、すべてを赦しつくしている愛があった。


それが見えた。

びっくりするぐらいの巨大なもの。


おおお。。。

なんだこれは、と。


自我が煙に巻いた朦朧とした世界の中で彼女は愛を探していた。

自我は、あなたは卑小で弱い肉体を持ったこの世界の住人だと教え込む。


愛は自分の中などにはなく、

外に見つけに行くものだと教え続けた。


そしてその自我の考えは、

「探せよ。されど見つけることなかれ」だ。


実際自我と同調してその考えの中でいる限り、

それを見つけることはできない。



青い鳥は外にいなくて家の中にいた。

家の中どころではない。

青い鳥はあなた自身だ。

あなたよりも近いところにあるものだ。



自分が愛だと知れば、それはもう求める必要はなくなる。

もうすでに持っているのだから。

だからそれは外から奪うものではなく、

外に拡張していくものなのだ。
その性質上、拡張せずにはいられないものなのだ。


肉体を見ている限り、限界と惨めさを味わう。

しかし本当にあるものを自覚した時、

誰が主人か明確になる。

肉体は従順にその主に従う。



その巨大な愛の力で、

新しいパートナーといつまでも仲良く元気に生きてほしい。




絵:「森の気配」





2023年4月14日金曜日

兄弟の大いなる愛


 


「ひょっとしたら、私は彼女の大いなる愛を受け止められていないのではないか?」


急にそんなアイディアが出てきた。


え。。。彼女の大いなる愛。。。?


「自分は兄弟の大いなる愛に気がついていないだけなのじゃないか!?

気がついていないから、受け取れないのだ!」



そう気づいたとき、そこに友達の大いなる愛を見た。


目の前にその人はいないけれど、

今私の頭の中にいる彼女の本当の姿がそこにあった。


まるで今まで覆っていた布がパサっと落ちたかのように、そこにいた。


びっくりした。


彼女の愛は静かで、さざ波ひとつ立たない聖なる湖面。

大いなる水をたたえて限りなく広がる愛だった。




今まで私は何を見ていたのだろう。

彼女の罪を見て、私の罪を確認する日々だった。


あの瞬間から、

私の罪を彼女に映すことができなくなっていた。


きっとどんな言葉が私に投げかけられても、

その形態の向こう側にいる彼女を私はもう知っている。

それに気がついている限り、モーマンタイだ。(と思う笑)





そしてまた別の友人の愛を見た。


その彼女の愛は熱い愛だった。


「つくし!愛している!」

とバーンと私に向かって両手を広げている。

彼女は全世界に向かって愛を放射していた。


彼女が過去にずっと外に追い求めていた真実の愛は、実は自分自身の中にあったのだ。

彼女が愛そのものだった。

とてつもないパワフルな愛だ。なんて強い愛なんだ。




大いなる愛に違いはないのかもしれない。

だから私が見たものは、本当の愛ではないのかもしれない。


それでも彼らが私の心の一部なのだとしたら、

静かな湖面が広がる愛も、愛を高らかに歌う愛も、私なのだ。


そしてまた近くに、

喜びと遊び心で飛びはねている愛があった。

すべてを包み込んで罪を赦し、溶かしていく愛もあった。

それも私の愛なのだ。




これが「兄弟の神聖さを見る」ということなのだろうか。


私は今まで「兄弟の神聖さ」とは、光の中に包まれた美しい兄弟の姿だと思っていた。

でも私が見たものはそれではなかった。


それでもそこに一切の罪はなかった。


時には湖面のようなイメージを見ることもあるが、そうとも限らない。

形はないけれど、それぞれの兄弟たちが持ち備えている資質がそこにあった。


そして何より面白いことに、

私が彼らにそれまで持っていたイメージとは真逆のものだった。


真実の愛を求めていた彼女は、

彼女自身が愛だった。

混乱の中にいると思っていた彼女は、

とんでもない静けさをたたえていた。

私に罪ばかりを意識させるやつだと思っていた彼は、

あらゆる罪を赦しとかしていく存在だった。


これは一体どういうことなのか。

すべては私の勘違い(笑)。

私が作り上げた虚像だったのではないか。


恐れはあなたが作り出したというコースの言葉そのものじゃないか。


赦しはそれを一瞬で消し去る。

その私を赦す。


これから私はその彼らの大いなる愛だけを見る。

たとえ自我の誘惑に誘われようとも。


彼らの無罪性を見ることは、

自分の無罪性を思い出すことになる。


彼らにその真実を見ることは、

自分の真実を思い出すことになる。




絵:絵本「白い丘のもみじ」