一日のうち、心の中を見ている時間の方がはるかに大きくなった。
それまでは外で起こっていることに意識が向けられて、外の問題をなんとかしようと躍起になっていた。今は内側を見ることに費やされている。
外で起こっていることは、すべて内側を見せるためのきっかけであることを知った。自分の内側を外にみているだけなのだ。
だから外で何が起こっても、その時に反応した自分の心に向かい、問いかける。
「これは何を私に教えようとしているのだろう?」
内面にばかり向いているからといって、外のことがおろそかになるわけではなく、むしろ落ち着いて対処できる。
内側の信念が外に現れているとするなら、内側を変えれば外が変わり、状況が変われば幸せになれると思ってきた。しかしそうではなかった。思考が現実化するわけではなかった。私はその考えにずいぶん振り回されてきた。
この世界を変えようとするということは、この世界は実在すると信じているからだ。
覚者はこの世界は幻想だといい、それをなんとなく私は信じてきたが、なんとなくだった。「知ってる知ってる言葉では。知識としてね」と。
しかしそれを本当のこととして、生きてはこなかった。
思考が現実化するなら、その思考を変えればいいと思っていた。
ポジティブ思考のような、都合のいいアファメーションではなく、
自分が本当に、本当に、信じていることを手放していけば、状況は変わるのではないかと。
しかしそれもまた同じことだった。
状況が変わるというのもまた、この世界があると信じ、その世界の一部を変えようとし、
その変わった証拠をひそかに見たいと望んでいたのだ。
これこそが、この世界が実在すると信じている証しに過ぎなかった。
「この世は幻想?知ってる知ってる、言葉でね」と。
では冒頭の、内面を見、自分が何を信じているかと知るのはなぜか。
理由は自分の反応の意味を知ることによって、何で自分がそういうふうに反応せざるを得なかったのかという謎が次々解き明かされていくからだ。
そしてその結果、平安がやってくる。
そしてその結果、平安がやってくる。
状況は変わらない。変わる必要もない。
なぜならその状況に対する自分の反応が、以前のそれとはまるで違うことが明白になる。
なぜならその状況に対する自分の反応が、以前のそれとはまるで違うことが明白になる。
前は状況さえ変われば幸せになれると思ってきた。だから必死で外を変えようとしてきた。あれを手に入れたら、あの人が変わってくれたら、、、と。
だけど手に入れても変わらないものがあった。それは欠乏感。ものでも埋まらない、人でも埋まらないとてつもなく私たちを追い立てる焦燥感。
その正体を見る。
そのおもてに決して現れてこない、影で操るその正体。
私たちをいつも不幸に連れていくその正体。
その正体を光ものとに連れてくる。途端にそれは消える。
それは元々存在しないものだからだ。
そしてその正体こそが、この世界をあるかのように見せていた張本人。
覚者はそれを知っていた。
正体とは、私が持っている信念。この世でいきるために教わってきたあらゆる信念。
その信念を見、それが自分に必要かどうかを問うていく。
それは玉ねぎの皮をむくようなもの。
自分が持っている信念の皮を一枚一枚むいていく。
そして最後の皮がなくなった時、この仮想現実ではない別の世界が、本当は元々そこにあったのだということを教えてくれるだろう。
絵:「初夏の庭園」
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