コースのゆるし。
この独特のゆるしはかなり難しい。
自分なりに理解してきたことを書いてみたい。
まちがってたらゆるして。
ゆるすことは、一般的には人が罪を犯したことに対してゆるすことを言う。
これは人がする行為の中の一つ。
だがコースは、ゆるしをそのようには位置づけない。
この世界から自由になるための唯一の手段が「ゆるし」だという。
えらい大きく違う。めっちゃ重要やないけ!
「お前は罪を犯した。だけど私は寛容だ。だから私の心の大きさに免じてお前をゆるしてやろう」
と言うのがゆるし。
とまあそこまできつい言い方をしなくても、日常的にはこう言う言い方をする。
「もう~。しょうがないわねえ。ゆるしてあげるわよ」
言い方は違うが、実は最初の言葉と同じ。
君は罪は犯した。罪はある。あるけれど、ゆるす。
ゆるしとは基本そう言うものだと信じてきたが、これは自我の考えるゆるしなのだ。
コースのゆるしは違う。
そもそもそんな罪などなかった。だから、なかった罪をゆるす。
この世に罪は実在しない。ゆえにゆるすのだ。
これが聖霊のゆるし。
ちょっとピンとこないですよねえ(笑)。
コースは世界は実在しないという。
これはお釈迦さんもいってるけど。
つまりこの世は実在しない説でいけば、当然罪も実在しないわけだ。
「だって、やったじゃん!あんた、私にこんなことしたよねえ!罪あるじゃん!」
見ちゃったんですから。
じぇったいやってますよねえ。
だって私がそれ、見ちゃったんですから!
実はそこなのだ。
見たからある。
自我はそれ見たぞ!と言って大騒ぎする。
自我のゆるしはその「見た」ものを無理やりゆるす。
本当はゆるしてないけど、心が広いフリしてゆるしてあげる。
見たと言うことは、それが外にあると思うのが自我。
罪は外に実在すると確信している。
あるから見るのだと信じている。
しかし聖霊は、逆からのアプローチをする。
見るからあるのだと言う視点に立たせる。
あるから、見たのではなくて、
見るから、あるようにみえているのだ。
そうあなたが知覚したのだと。
意識をこちら側に向けさせる。
知覚の原因を自分の側にする。
量子力学でも出てくる話と同じ。
存在しているものを見ているのではなく、見るからそこに存在させる。
自我はゆるしを一人でやる。
しかし聖霊のゆるしは、自分一人ではやらない。
だからこそ、わざわざこう宣言をする。
「あなたを、聖霊とともにゆるします」
私たちは当たり前のように自我の視点でものを見ている。
それを自我ではなく、聖霊の視点からものを見るために、そう宣言するのだ。
そして、実はもう一人ゆるす。
もう一人とは、その罪を見た自分自身のこと。
「それを知覚した私を、聖霊とともにゆるします」
いくら外に罪を見ようとも、その知覚をしたのは私自身。
あるから見るのではなく、見るからそこに存在させたのだ。
つまりそこに罪を見た(存在させた)のが、私自身なのだから。
本当はないはずの罪。
だからこそ、そう錯覚した自分自身をゆるしていく。
メインはこっち。
自分の中に無意識に感じている罪の意識を、
自分自身がゆるして解放させていく。
聖霊と一緒に。
そうやってゆるしていくうちに、
目の前に輪郭を持って見えていた罪が、だんだん希薄になっていく。
重く固形化していた罪が、気体になって煙のようになっていくのが感じられる。
本当にそんなものあったのだろうか。。。
そう思い始める。
罪など実在しない。
その言葉が、知識ではなく体験を通して知り始める。
2 件のコメント:
犯した罪は消えない
私はそう思うのです
梶ちゃん、
コメントをありがとう。
法律上の罪だけではなく、私も、みんな少なからず、心の奥底に罪の意識を持っています。
その罪の意識が心を苦しめます。
それはいくら刑を受けても消えないでしょう。
その優しい心が大事なのです。
罪は償っても償っても消せない思い。
それは愛ゆえの苦しみだと思うんです。
じつはその愛が、罪を溶解させていくのです。
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