2021年8月6日金曜日

言葉をとっぱらうその後

 


先日気がついた「言葉をとっぱらう」。


彼だけにそれを使うのはもったいない。

出会う人たちにやってみる。


例えば、町内会で出会うおじさまたち。

役員会で毎回議題に上がる「しょーもねえこと」。


長々と続く言葉の山。その言葉の端々を聞いていると、

「いや。そうじゃない」とか

「そこ?そんなこと言っちゃってるわけ?」とか

「どっちだっていーじゃーねーかよー」とか

山のようにジャッジが出てくる。


おじさまと私との間の空間に、言葉言葉言葉が充満し始める。

目の前のおじさまがだんだん言葉だらけで遮られて、見えなくなってくる。

そこで私は、その言葉の山を両手で、ざあーーっ!と脇に寄せるんだ。


するとおじさまと私の間に何もなくなる。

そこにいたのは、ステキでかわいくて、とても人に気遣いをする優しい存在がいた。


そうだったそうだった。彼はこういう人だったと思い出した。

思わずほっこりする。




人は言葉の端々をつかみ、「それを言うあんたはどうよ!」と、

言った言葉に対してジャッジする。

それを聞いた相手も、「お前こそ、どういうつもりだ!」


ジャッジされて「はいそうですか」って素直に引きさがる人はそういない。

売られたケンカは買うのが筋ってもんでい。


たとえそれが口に出てなくても、

二人の間でエアー討論会が起こっている。

下手すりゃ、朝まで生テレビ。



実はそれが自我のねらい。

ケンカふっかけあって、いかりや恐れが勃発してくれるのを望んでいる。


映画マトリックスを見たことがある人は、仮想現実のエネルギー源になっているのは、チューブに繋がれた膨大な人類の想念であることを見ただろう。

人間電池。


あんな状態が実際あるわけではないだろうけど、私たちの恐れや怒りがエネルギーになって、この世界を維持している。


維持させたいのかさせたくないのかはひとまず脇に置いといて、

まず心が不快な状態であることに気がつくことだ。


言葉がその人となりを作っているように見えるが、それこそ架空。

その人の本質はその言葉を超えたところにある。

何をやってきた人か、何を言ってきた人かなんて、時代とともに価値観はころっと変わってしまう儚いもの。


言葉をとっぱらった目の前のおじさまは、やっぱりステキな人。



このことを思い出すことは、

その人自身がそれを思い出すことになる。


それはたとえ言葉に出さなくても、

相手をジャッジしていることが伝わるように、

以心伝心。瞬時に起こってくる。



だからおじさまは自分のステキさを思い出すことだろう。

ステキじゃない?



言葉はその人じゃない。

自我が言わせたもの。

そして自我は、その人じゃない。


その人はそれを超えたところにある尊い存在。





絵:「笠地蔵」


2 件のコメント:

梶原 豊 さんのコメント...

なるほどーー
でもさ、日本には「言霊」ってのがありますよね。

今回の話の趣旨とはズレてますが^^;

つくし さんのコメント...

Unknownさん、
コメントをありがとう。

言霊。ありますよね。
私も昔、それについて勉強していました。

言葉はそれを発することで、それを存在させるほどの力があります。
だから言わば、もろ刃の剣でもあります。

その言葉の力を知っているからこそ、言霊という言葉が生まれたのでしょう。
いい方向に使えることを願って。

ステキなアドバイスをありがとうございます。