言葉がいろんな障壁を作って私たちを煩わすことを感じ取ってきたこの頃。
昨日の夜、言葉の渦の中で苦しくて目が覚めた。
最近、うちの町内会で年表を作る話が持ち上がった。
私は八王子郷土資料館などを回り、ここのところ、この地区の歴史に触れていた。
夢の中でうなされていたのは、その歴史年表。
頭の中に膨大な量の言葉が渦巻いて苦しくなった。
うわー。。。。この言葉の山をなんとか取り除かないと寝られない。。。。
ところが取り除こうとすればするほど、粘着力は激しくなり、ビッタリくっついて離れない。
その大きな荷物が容赦なく私に襲いかかる。
七転八倒している時、ふと思い出した。
そうだ。これ、私の言葉じゃない。
これは自我の言葉だ。自我の言葉は私の言葉ではない。。。
そう気がついた時、サーっと言葉の山が消えた。
さっきまでの息苦しさが跡形もなく消えていた。
言葉は、私の中から聞こえてくるので、「自分が出した/作った言葉だ」と信じている。
だからこそ、自分のものだから自分で消さなければと思っている。
しかしもしそれが自分が出した/作った言葉ではなかったとしたら?
その言葉の出所に気がついたなら、
「幽霊の正体見たり枯れ尾花」ってな話だな、これ。
自我の言葉は私の言葉ではないと気がつくということは、
自我を外から見ることができるということ。
それは私たちは自我そのものではないということだ。
その自我から離れた時、心が穏やかになる。静かで平安に戻る。
それが私たちの正体なのではないだろうか。
言葉はあらゆるところにある。
目の前のものにパソコンという言葉があり、左を見れば、山という言葉がある。
でも山もパソコンもその言葉がそれそのものではなく、仮につけられたもの。
それなのに私たちは「山」というと、ああ、アレだなとそれぞれが思い描く。
それぞれのイメージで納得した気になってる。
こういう風に、自分自身にも言葉というレッテルを貼ってる。
名前はもちろん、出身地、家族構成、生い立ち、やってきたこと、考えてきたこと、誕生日。
誕生日には12個に分かれた星座を当てはめ、
それぞれの性格を「うん。これは私の性格だ」などと納得をする。
さっきの山の話と同じ。
自分に仮につけられた言葉で、自分ってそういうもんだと信じている。
先日の素敵なおじさまから言葉をとっぱらったように、自分に貼った言葉も全部とっぱらってみた。
心の中で話す声さえも。
一瞬自分が消えた。
仮の言葉で覆われたものを消し、心の声を消したら、自分が消えたのであった(笑)。
自分が消えたのに、ここに何かがある。
この安堵感。
これこそが私たちの正体。
エックハルトトールが言ってた。
「概念的自己は重荷でしかありません」
まさにそれに頷ける出来事だった。
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